397-2 if~悪意を躱して(中編)
「あ、和樹さん!」
結局人手不足のために十八時まで働く羽目になったゆかりは、お疲れさまでした~、と喫茶いしかわを出たところで戻ってきた和樹と鉢合わせ、眉間に皺を寄せた。
いたらいたで大変だが、いなければいないでまた大変というなんとも理不尽な話だが、人手が足りてないの一点で考えるなら戦力は欲しいに決まっている。
ましてや容姿目当ての女子高生よりももっと怖いのは和樹さんの料理の腕前を買ってきているお客さまの方だとそう思うし。
実際、今日は大勢のお客さまから「和樹くんは?」と老若男女問わず聞かれたのだ。
「もー、和樹さんいなくて大変だったんですよ? 私、今日は早朝シフトで……って聞いてます?」
ずかずかと近づいて行くゆかりの腕をがしり、と掴んだ和樹が止めてある車に引っ張っていく。
そこには近くの信号の光を反射する彼の愛車が停まっていた。
「え……これ?」
「乗ってください」
「和樹さんの車に?」
「とにかく乗ってください」
押し込むように助手席にゆかりを乗せると、和樹は無言で車をスタートさせた。
すっかり暗くなった夜の街を、この車で和樹の運転を体験した者が見たら軒並み驚くであろうほどの安全運転で走らせる。沈黙が落ちる車内で、ゆかりは街灯に明るく浮かび上がったり闇に陰ったりする和樹の横顔をちらりと見た。
「……どうかしましたか?」
「え?」
ちらちら見ていたことがばれたかと、ゆかりは慌てて前を向く。それから盗み見していたのが急に恥ずかしくなって照れ笑いを浮かべた。
「いやあ……なんていうか、和樹さん……モテるのわかるなぁって。ほら、今日だって色んな人に和樹くんは~? って聞かれて、それで女子高生なんかには人一人くらいは殺せそうな、こうスナイパーのような目で睨まれて」
「他に、不審な人はいませんでしたか?」
目元を引っ張り上げて、釣り目を実践して見せていたゆかりは、和樹の固い声にきょとんとする。
不審な人?
「ゆかりさんに言い寄ってきたり、こっそり隠し撮りするような輩に心当たりは?」
「ああ」
昼間の盗撮写真のことだろう。
鋭い一瞥をくれる和樹に気付かず、彼女はぽん、と拳を掌に打ち付けると能天気な笑顔を見せた。
「今まで忘れてました」
赤信号で急ブレーキ。アスファルトが切り裂かれて悲鳴を上げる。夜の街にそんな物騒な音を響かせて急停車した車内で、和樹が恐ろしいほど真剣な眼差しと顔でゆかりを振り返った。
「なんでこんな重要なことを忘れるんですか、あなたはッ!?」
「え?」
正面の交差点を横切って行く車のヘッドライト。それに照らされた和樹の真剣な横顔に、くすりとゆかりは小さく笑った。
「飛鳥ちゃんがね、盗撮の件は和樹さんに任せておけば大丈夫だよって」
にこにこ笑う彼女に、和樹は一瞬で毒気を抜かれてしまった。
「和樹さんはデキる男だし、そういう専門家の知り合い多いみたいだから、きっとすぐ犯人を捕まえてくれるって──私、忘れがちなんですよね、和樹さんがそういう方面でも優秀だってこと。飛鳥ちゃんに言われて、ああそうか、じゃあ調査依頼料どうしたらいいのかな、って」
くふふ、と笑うゆかりから視線をそらし、和樹は信号が青になるのと同時に再び慎重に発進する。
「まあ……そんなに優秀ではありませんけどね」
「またまたー」
ふふふ、と楽しそうなゆかりに和樹は続く言葉を飲みこんだ。
和樹にも、しんどいと思うようなことや死にそうな思いをした経験もあったはずだ。
あった……「はず」。
そう、どこかそういった危機感が他人事のように思える時がある。
それはおそらく心のどこかでそういった感情を全部押し殺し、デリートしてしまっているからだろう。
どんなに危機的な状況でも、その極限を乗り切るための算段に脳細胞をフル回転させるし、無駄に喚いてただ死ぬくらいなら、一矢報いる方を選ぶ。
ゆかりにそんなぎりぎりの……極夜のような日々を垣間見せたことはないはずなのだが。
「あ、次を左です」
(知ってる)
愛車をこんなに慎重に走らせたことはないな、と自嘲しながら和樹は横目で、街灯に浮かびあがったり闇に陰ったりするゆかりの横顔を見た。
「ふふ。分かってますよ。お仕事、大変なんでしょうね」
唐突に先程の続きを言われ、和樹がぎゅっとハンドルを握り締めた。
「まあ……ゆかりさんにはシフトのことで何度も迷惑をかけたくらいには」
「いいんです」
ゆっくりとゆかりの家の前で車が止まる。シートベルトを外しながら、ゆかりが何気なく告げた。
「和樹さんって、休まなくちゃならない時とか急なお仕事で出ていく時、険しい顔や声してるけど、戻ってきた時はどこかほっとした顔や穏やかな声してますから。だからなんとなく……喫茶いしかわにいる時の和樹さんはただの喫茶店員さんなんだって無意識に思ってたんですね、きっと」
だから飛鳥ちゃんに言われるまで忘れてました、と微笑むゆかり。
(──参ったな)
和樹はこっそりと小さく溜息をつく。自分では切り替えが得意だと自負していた。なのに切り替えるどころかまさかオフにしてるとは、と無自覚を自覚する。
「じゃあ、わざわざありがとうございました」
そう言ってさっさと車を降りて歩き出すゆかりから、自分の重大な落ち度に初めて気が付いた和樹は一瞬だけ目を離した。
数秒間のタイムラグ。
「あ、待ってください、ゆかりさん!」
護るべきターゲットから目を離すなんてあり得ない、と心の奥で舌打ちしながら和樹は慌てて車を降りた。すでにゆかりはアパートの二階へと外階段を上がっている。
「やだなぁ、和樹さん。心配しすぎですよ。あ、あと盗撮犯は結局判ったんですか?」
のんびりと階段を上りきり、セキュリティも何もなさそうな薄い扉に鍵を突っ込んで開ける。
「ゆかりさ」
「ゆかりちゃんは……ゆかりちゃんは俺の……俺の……!」
ドアが開くと同時に、不法侵入を果たしていた黒い影がぬらり、と現れ。
「へ?」
ぽかんと目の前の存在見上げるゆかり。
唐突にゆかりに抱き付く大男に脚の間に固い物を押し当てられ、硬直していたゆかりが喉から絶叫を迸らせるまさにその瞬間。
「盛ってんじゃねぇぞ、このくそ野郎ッ」
「え?」
ゆかりの身体に回されている野太い腕を、駆け寄った男が躊躇いもなく一瞬で捻り上げる。
ぎゃあ、と痛みに叫び声をあげる男を他所に、緩んだ腕から彼女を奪還すると。
「和樹さん!?」
「下がって」
どん、と廊下の奥に大男を突き飛ばし必死にそれだけ告げる。
和樹は腸が真っ黒く焦げていく嫌な感触に促されるまま。
「お、俺のゆかりちゃんを返──」
無謀にも向かってくる男に一切の躊躇いも情けも見せずに、男のたるんだ顎と耳の付け根に、力一杯右ストレートを叩きこんだのである。
赤色灯が静かな住宅街を物騒に染め上げる。やって来たのはたびたび喫茶いしかわを巡回してくれる、あるいはコーヒーを飲みにきてくれる、すっかり顔なじみになってしまった警察官の面々で。
ほぼ全員が「ゆかりさんの家に上がり込むなんて」と激怒し、顎の骨が砕けるほどの一撃をお見舞いした和樹に称賛を浴びせ、現場検証など色々行われ、最終的に和樹とゆかりが解放されたのは深夜二時を回ろうとした頃だった。
「取り敢えず、部屋には入れますけど……」
ぼんやりと荒らされた室内を見詰めていたゆかりは、そっと背中に触れた和樹をのろのろと振り仰いだ。
「どこかにホテルでも取って、今日は休みますか?」
こちらを覗き込んでくる心配そうな眼差しに、ゆかりはこくりと頷こうとして。
「ゆかりさん?」
ふらり、と彼女の身体が傾いだかと思うと和樹に向かって倒れ込んでしまったのである。
「ゆかりさん!? 大丈夫ですか!?」
「あ……和樹さん」
やっぱり、あんなストーカーまがいの盗撮野郎に部屋に押し入られて平然としていられるわけもない。
僕が盗撮写真の調査をしておきながらこの体たらく。ああ殺しておけばよかった、という殺意を瞳に滲ませ、しっかりとゆかりを抱き締めていると。
「わ、私……」
「はい」
「今日……早かったし忙しかったので……」
「はい」
「……非常に……ものすごく……」
「はいっ」
「ねむいです」
「…………はい?」
そのまま和樹の胸に凭れかかり、すや~っと夢の世界に落ちて行くゆかりに和樹は思わず天を仰ぐのだった。




