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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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396 if~兄らしくなんて到底無理だった和樹さん~

 この話に出てくる拓実くんは「運動会」にちらっと登場した飛鳥ちゃんやサクラちゃんのお友達な男の子です。


 急な本業の仕事が入ってしまって……とまたも当日欠勤してしまった。

 この理由で喫茶いしかわを欠勤するのは何度目だろう……本業を疎かにできないとはいえ、こうして喫茶いしかわのマスターとゆかりに迷惑をかけていると自覚もしている。



 今日中に終わることはないと思っていた案件も、予想よりかなり早く終わり腕時計を見れば、まだ喫茶いしかわが営業している時間だった。

 このまま直帰してもいいが、度重なる当日欠勤の詫びも含め差し入れでも持っていこうか。

 というのも、もちろん嘘ではないが。

 あの子の顔が見たい。

 あの子の声が聞きたい。

 自分の願望もそれに織り混ぜて、愛車を夜の街に走らせた。



 店の近くのコインパーキングに駐車して差し入れの菓子を持って喫茶いしかわのドアの前に立つ。

 もう閉店間際の時間である。先ほどマスターに電話してこれから伺いたい旨を伝えると、もう客もおらず明日のランチに使う不足した食材の買い出しをするためマスターは一足先に上がり、ゆかりにクローズを任せたとのことだった。今店内にはゆかりしかいないはずだ。

 カランカランという音と共にドアを開け「今日は急な欠勤、申し訳ありませんでした。よろしければこれを」と差し入れが入った紙袋を掲げると目の前の光景に驚愕した。


 ゆかりはカウンター席に座っていた。

「あら? 和樹さん? お仕事終わってからわざわざ寄ってくれたんですか? そんな、気を使わなくていいのに~」

 それは確かに聞きたかった声だったが、ゆかりの話す内容がまったく頭に入ってこない。

「ねぇ~? 拓実くん」

 ゆかりが同意を求めた拓実はなんとゆかりの膝の上にいるではないか。

 和樹の顔を見て『やべぇ』という顔をしている。


 ゆかりの笑顔で癒されたいのに、拓実を凝視したまま視線を外せない。

『君はなぜそこに乗っているんだ?』

「ゆかりさん? なぜ拓実くんを膝に?」

 少しぎこちない笑顔になってしまったが、やっとのことで問うとゆかりが拓実に頬擦りして言う。

「私、お兄ちゃんと二人兄妹じゃないですか、お姉ちゃんと仲良しの拓実くん見てたら私も弟か妹欲しかったなぁ~って。たまたま来てた拓実くんに抱っこさせてってお願いしちゃいました」

「ほぉ~……」

 本来ならそれはそれは微笑ましい話なのだが。

 ゆかりが膝に乗せているのが男児である時点で話は別だ。


「拓実くん」

「ひっ!? な、なぁに和樹兄ちゃん」

「もう遅い時間だ。そろそろ帰った方がいいんじゃないか? ご家族を心配させるのは良くないだろ?」

 笑顔で喫茶いしかわの優しいお兄さん店員のトーンで話したつもりだが、少年は怯えた表情で「そ、そうだね。僕、もう帰るよ!」と答えた。

 するとゆかりがぎゅっと拓実を抱きしめて「そっか、ひき止めてごめんね。またこうして抱っこさせてね?」と首を傾げると拓実も「う、うん」と拒否できなかった。恐るべし天然妹力。


 それを見て微笑ましい光景のはずが、差し入れの入った紙袋がどこからかビリビリと音を立てて破れてしまい中の菓子箱が床に落ちる。

 拓実はその一部始終と和樹の顔を見るとさーっと顔色をなくしビクッと怯えたように慌てて喫茶いしかわを後にした。


「あらあら、落ちちゃいましたね」

 ゆかりがカウンター席から立ち和樹の前にしゃがみこみ菓子箱を拾う。

「あ! これ今並ばないと買えないフィナンシェじゃないですか! よく買えましたねぇ」

 しゃがみこんでいる状態で和樹を見上げるとにっこり微笑みを浮かべている表情のはずなのに逆光で表情が見えずなんだか……怖い。


「ゆかりさん」

「は、はい?」

「もうクローズなんですよね?」

 そう言われて店内の時計を確認する。

「あ、そうですね」

「僕もお手伝いしますから、よろしければこのフィナンシェとコーヒーでお茶しませんか?」

「え? あ、はい……」



 クローズ作業を終えてカウンター席に二人並んで座る。コーヒーカップが二つ並び、先ほど和樹が差し入れたフィナンシェがお皿に盛られている。

「ではお疲れさまでした~!」

「お疲れさまでした」

 乾杯のようにコーヒーカップを静かにコツンと合わせてコーヒーを口に含む。

「はぁ、おいしい」

「美味しいですね、ゆかりさんフィナンシェもどうぞ」

「ありがとうございます~! いただきます」


 パッケージングされていない、包装紙に一つ一つ包まれたフィナンシェをはむっと頬張ると、みるみるゆかりの表情がパッと明るくなる。

「ば、バターの香りと味がふわぁ~って! 美味しいぃ~っ! 今まで食べたフィナンシェの中で一番美味しい!」

「まだまだありますから、召し上がれ」

「ありがとうございます! ここのお店チーズタルトもすんっっごく美味しいんですけど、この窯出しフィナンシェは目の前で型から一つ一つ外して焼きたてを包んでくれるんですよねぇ……焼きたてのフィナンシェってこんなに柔らかくてバターの風味が豊かで美味しいんですねぇ」

「喜んでいただけたようで良かったです」

 先ほど少し怖いと感じていた雰囲気はもう微塵も感じられない和樹の笑顔にホッとして、またはむっとフィナンシェを頬張る。


「ところでゆかりさん、僕の膝の上に座ってもらえますか」

「ン゛ッ!? ゲホッ! ゴホッ!」

「喉をつまらせてしまいましたか? 大丈夫?」

 背中をトントンと軽く叩きながら擦る和樹に少し涙目になったゆかりが答える。


「ん、大丈夫です……もう! 和樹さんがいきなり変なこと言うから」

「変なこと?」

「膝の上に座ってって言ったじゃないですか!」

「ああ、僕も羨ましくなってしまって」

「羨ましい? ですか?」

「さっきゆかりさんが言ってたじゃないですか、弟か妹が欲しかったと」

「……はい」

「僕もその気持ち味わってみたいなと思いまして」

「えっ、でもそれは拓実くんくらいの……」

「リョウさんと僕は似たような年齢ですし、そう考えればゆかりさんを妹と仮定してもおかしくないのでは?」

「え? あー、そうなんですかねぇ?」

「そうですよ」

 さぁ、と両手を広げる和樹の膝の上に先ほど拓実が自分にしたように座る。


 すると和樹の両手が優しくゆかりを包んだ。

「ほぉー……これはいいですね、癒される」

「そうですか?」

 ゆかりの髪の毛から香るシャンプーの香りと女性特有の柔らかい感触が癒し効果を発揮する。


「でも意外でした、和樹さんが妹が欲しかったなんて。少しはお兄ちゃんの気分になれましたか?」

「……兄の気分は味わえましたが、これで自分の気持ちがはっきりしました」

「きもち?」

「ゆかりさん、僕とお付き合いしていただけませんか」

「おつきあい…?」

「はい」

「それって……それって……え!? えぇ!?」


 バタバタと膝の上で暴れだすゆかりを両手で拘束する。

「危ないですよ、暴れない暴れない」

「だって、また急にびっくりすること言うから!」

「ゆかりさんは僕のことが嫌いですか?」

「え、嫌いじゃ、ない……ですよ」

「好き?」

「そんな、好きと嫌いの二択じゃ……」


「じゃあ聞き方を変えます。僕を男として見られますか? 結婚を視野に入れて」

「結婚? わたしと和樹さんが……?」

「はい、中途半端な付き合いはしたくないんです。それに今すぐというわけではありません。僕は長期海外出張絡みのあれこれを片付けるまで貴方に告げられないことも多々ある」

「はぁ……そうなんですか」

「本当なら、あなたに僕はきっと相応しくない。……でもさっき拓実くんにさえ嫉妬した」

「拓実くん、まだ小学生になったばかりの子よ?」

「ええ、自分でも大人げないと思いますよ。それでもどんなに平静を装おうとしてもダメだ、あなたの一番近くにいる男は僕がいい」

 そう、確信してしまったんですとゆかりの耳元に告げた。


 ゆかりの耳は後ろから見ても真っ赤に染まっているのがはっきりわかる。

「とても自分勝手な告白だと自覚はしています。それでも貴方の一番近くにいる権利を僕にいただけませんか」

 ゆかりが真っ赤な顔をこちらに向けて「はい、あげます」という言葉を告げると「ありがとうございます」と和樹が答えた。




<後日談>


 数日後、喫茶いしかわに訪れた拓実はカウンター内で業務に励む和樹とゆかりを見て違和感を覚える。

『なんか……距離感が今までより近くね?』

 真新しいランドセルが目立つ小学生にしては妙に鋭い観察眼でジーッと二人を見ていると和樹が気付き笑顔でオレンジジュースを運んできた。


「え、頼んでないけど……」

「ん? サービスだよ」

「なんか怖ぇんだけど……まだあの時のこと怒ってんの!? あれは不可抗力だったんだって」

「ああ、ゆかりさんの膝に乗っていたことかい? 怒るも何もあれがきっかけで自分の気持ちに気付くことができたからね。むしろ感謝しているよ」

「自分の気持ち……? え? ウソ、まさか……マジ?」

「だけど、次にゆかりさんの膝に乗ったら……どうしようかなぁ?」

「乗らない乗らない絶対乗らないからやめて何もしないでごめんなさい」


 副題、「こんな恋心の自覚の仕方は嫌だ」かもしれない。

 拓実くんはキューピッドでもあり被害者でもあり……どうか強く生きてくれ。


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