393 やさしい風に
『本日は全国的に晴れ予報です。こちらの予想最高気温は三十二度! 真夏日になるでしょう』
コオっと冷たい風が頬に当たるのを感じながらカーステレオから流れるアナウンサーの少しだけキンと響く声に耳を立てる。
「三十二度か」
「今日も暑いですね。こうも連日暑い日が続くと嫌になってしまいます」
和樹がボソッと呟くと隣で運転する長田が苦笑混じりに応えた。
「こういう日は食欲もあまり……あ、でも素麺とか食べたくなりますね」
「ああ……素麺か、いいな」
「リクエストしてみては?」
奥様に、と長田がチラリと視線を寄越したところで今度はこちらが苦笑を返す。
「彼女は暑いの苦手だから、疲れてるところにリクエストするよりは僕が作ったほうがいいかもしれないな……久しぶりに帰れるから罪滅ぼしの意味も込めて」
「それもそうですね」
彼女が「あづーい」とへばっている様子を想像し、ふっと思わず笑みを溢すと隣の長田も視線を前にやりながらも小さく笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
「ふわぁ、涼しい~」
僕が喫茶いしかわを手伝っていた頃のある日、午後から出勤してきた彼女は開口一番、そう口にした。
「顔真っ赤ですけど外、そんなに暑かったですか?」
「外も暑いんですけど家があっつくて! 今日猛暑日なんて言われてるのに突然エアコン壊れちゃったんですよ! 電話したんですけど予約いっぱいですぐ修理には行けないって言われちゃったからもう、どうしようって」
はい、と氷を入れたお冷やを手渡すと彼女はコクコク一息に飲みきり、ぷはーっという声と共にコトンとグラスをカウンターテーブルに置く。
ごちそうさまです、と笑顔も添えてくれた。
「それは災難でしたね。それじゃあ今日はエアコンなしの部屋で過ごすんですか?」
「そうなんですよぉ、エアコンなし! もう考えただけで汗が出てきそう……」
口を戦慄かせ、眉をぎゅっと寄せた彼女。
しかしすぐに「あ、でもね」と一転、口元を綻ばせた。
「実家からもらったお古の扇風機の存在を思い出してさっき引っ張り出してきたんです! まだちゃんと使えたからとりあえず今夜は凌げそうです!」
ふふん、と胸を張る真っ赤な顔した彼女が、春に「たんぽぽ見つけたよ!」と自慢げに見せてきた小学生の女の子と重なって、思わず口元に手を当てて笑いを堪える。
「それはそれは……よかったですね」
「ん? 和樹さん、笑いを堪えてません?」
「いっ、いえ……堪えてなんか……ふふ」
「あー! もう笑ってるじゃないですか! 今のどこに笑う要素なんてあったんですか!?」
ぽこぽこ腕を叩いてくる彼女をまあまあ、と嗜めながら「真相なんて知らなくていい」とひっそり溜息を零したのは彼女に秘密だ。
◇ ◇ ◇
「ただいま」
空が夕焼け色から淡い紫色に染まり始める十八時半を過ぎた頃。
僕は一週間ぶりに家族が待つ自宅へと帰宅した。
いつもならドアの開く音とともに軽やかなスリッパの音や子供たちの声が聞こえてくるのに今日はシン、としている。それに
「あっついな」
思わず眉を寄せてしまうくらい廊下にこもっている熱気が皮膚にまとわりつく。
額からツッと雫が滑り落ちてくるのを片手で拭い、もう片方の手でネクタイを緩めながら歩を進めた。
「ゆかりさん?」
リビングに繋がるドアをそっと開けると、ぶわっと風が顔を叩いていく。
どうやら開け放たれた窓から風が入ってきているようだ。
しかし、窓が開いているのにもかかわらず部屋は薄暗く、ゆかりさんの姿が見えない。
靴があるのは確認したから外出しているようではないみたいだが……。
サッと視線を部屋に走らせるとリビングの中央にあるソファの背に隠れるように白い足の指先が見えた。まさか!?
「ゆ、ゆかりさん!?」
夜になって涼しい風が入ってくるようになったかもしれないが、廊下の熱気の籠り方を考えると昼間はこの部屋だって相当暑かったはず。
そんな部屋にずっといたとしたら。
心臓がギュッと強く握りつぶされそうな感覚を感じながらソファの前方に回り込む。
「ん……うん……」
口端に少しだけ透明な雫をつけながら暑さなんて感じさせない、それはそれは健やかな寝顔を晒す彼女がフローリングの床に寝そべっていた。
よくよく周りを見渡すと寝そべる彼女の近くにあるローテーブルにはメモ用紙が置いてあり、電話番号とともに『エアコン修理 明日11時から』と彼女の少し丸みのある字で書かれていた。
どうやらリビングのエアコンは故障中らしい。
そして。
「はは、これ引っ張り出したんだ……」
一緒に住むことになり、彼女が僕たちの家に持ち込んだあの扇風機。
「またエアコンが壊れた時に助けてもらいます!」とクローゼットの中にしまっていたことを思い出す。
またもや彼女のピンチを救った扇風機は小さくブンという音を響かせながら窓から入ってくる風をうまく彼女へ送り届けている。
「まるで猫みたいだ」
彼女の寝そべる場所は、窓から入り込む風を扇風機が送り届けてくれる丁度良い位置になっている。
暑さに弱くて、いつもエアコンの風がちょうど良く当たる位置を賢く陣取る、知り合いのペットを思い出す。
思わず声を出して笑うと彼女が小さく身じろぎした。
「う、ん……あれ、おかえりなさい和樹さん……」
「ただいま、ゆかりさん」
焦点の合わない彼女を僕の方から覗き込み、視線を合わせる。
ついでに口端に残る雫を拭い取るとくすぐったそうにふふ、と彼女は笑った。
「どうしてここで寝てたの? 別のエアコンある部屋で寝たら涼しいのに……」
僕らの家には、他にもいくつか部屋がある。全部の部屋にエアコンを設置したのだから、子供たちのようにエアコンの効いた部屋で過ごしていた方が暑さに弱い彼女には良かったのでは。
そう思って尋ねると、彼女は小さな音をたてながらも風を一生懸命届ける扇風機を眺めながら言葉を紡いだ。
「エアコン壊れちゃったからこの部屋も涼しくするために扇風機を久しぶりに引っ張り出してきたんですけど、これがまた気持ちよくて! 扇風機の柔らかい風もいいなぁって思ってたら、いつの間にか寝ちゃってたみたい」
話し終えた彼女はえへへ、と小さく笑みを零し、それでも汗はかいてしまったのか首にかかっていた髪を後ろに流す。
視線を斜め下に向け、腕につけていたヘアゴムを口に緩く咥えながら両手を使って髪をまとめ上げていく仕草に思わず、ゴクリと唾を飲み込んでしまう。
「あ、やだもうこんな時間……ごめんなさい和樹さん、まだ夕ごはんの準備できてないの」
「え……ああいいよ、今日は僕が作るから。ゆかりさん暑かったから体怠いでしょ?」
「うん……でもせっかく和樹さん帰ってきたなら美味しいごはん作って食べてもらいたかったなぁ。子供たちはまだお昼寝中なのかしら。それにしても暑いのが恨めしいよぅ」
ペタンとフローリングに座り込む彼女は申し訳なさそうにくしゃっと顔を顰めた。
「んーでも悪いことばかりじゃないよ?」
「え?」
視線を彼女から逸らし、薄ぼんやりと見えるキッチンに向ける。
「ビールやそうめんはこの暑さならいつもの何倍も冷たく感じて美味しいだろうし、窓に風鈴をつければ入ってくる風でチリンと音が鳴って、風情を感じられる。それになにより」
「なにより?」
じっ、と目を合わせてくる彼女。
思わず逸らしていた視線を彼女に合わせてしまう。
普段はおろしていることが多い髪が暑さで結えられ、隠されていた白い首筋が目の前に晒されていて、後れ毛が汗でぴたりとその首筋に貼り付いている。
何か言わなくてはいけないのに、『普段見えない首筋にグッとくる』とは言えるはずもなく。
「……アイスも美味しく食べられますよ」
と言葉を続けた。
「わあ、その通りですね! 和樹さん天才!」
彼女は両の手をパチリと合わせ、頬を緩める。
僕はそんな彼女を横目に、言わなくていい本音がするりと漏れ出てしまいそうになったこの暑さに、僕のことは冷やしてくれない扇風機に恨みのこもった視線を向けるのだった。
理由が理由なので笑い話で済みますが。
帰宅直後の風景は、和樹さんにとってはどんなホラーよりも怖い風景だったかもしれませんね。




