38 さようならをカウントダウン
ここから数話、晴れて彼女になったゆかりさんとの同棲に向けてのあれこれを。1話完結×4本で。
ふらつく足取りで自宅までたどり着き、玄関を開けると愛犬ブランがしっぽを振って待っていた。
実に三日ぶりの帰宅。
どうやら、家を空けていた間は僕の可愛い恋人がしっかりと愛犬の世話をしてくれていたようだ。
愛犬の頭をひとなですると、和樹は着替えもせずにそのままベッドへダイブした。
和樹が借りているこの部屋は、一人で使うには広くてセキュリティもしっかりしている。
広すぎる部屋が寂しいと感じるようになったのは彼女がこの部屋に通いだしてからだ。
まだ付き合い始めたばかりで引かれるかなとも考えたのだが、先日彼女に合鍵を渡した。
余裕がなかったのかもしれない。寂しい思いをさせてしまうから、彼女が離れていくのが怖かったのだ。
それに、なかなか会えない分、少しでも彼女の存在を感じたかった。
つまり、和樹の思い通りに自分が留守の間に彼女がこの家に来て、彼女の存在を残しておいてくれていったのだから、合鍵を渡してよかったと思っているのだ。
和樹が仕事で帰れない日が続くと、愛犬の世話をしてくれたり部屋の片づけをしてくれたり、帰れそうだとわかった日には冷蔵庫の中に作り置きのおかずを用意してくれたりもする。
そんな風にして少しだけ彼女の香りが残った部屋で、会いたいなあと、一人ベッドの上で枕を抱きしめる。
会って、抱きしめて、それから、コロコロと鈴がなるような可愛い声をたくさん聞かせてほしい。
時間を確認すると、夕方5時。そろそろお店の上がり時間だろうか。
和樹は携帯のアプリを開くと、メッセージを送信した。
仕事中だから、きっとすぐには既読がつかないだろうと和樹はずいぶんと重い体をやっとの思いで起こすとバスルームへ向かった。
温かいシャワーを頭から浴びて、汗を流す。髪についたタバコの匂いもこれでさっぱりだ。
いつだったか、仕事上がりで彼女に会ったとき、衣服についた匂いに和樹がタバコを吸ったと思ったのか、ひどく心配された。
そんなことを思い出しながら、シャワーを浴びて体を拭く。
下着だけ身に着けると、冷蔵庫から水を一本取り出して喉に流し込む。
寝室に戻ると携帯がメッセージの受信を知らせている。
メッセージを開封して、和樹は思わず口元を緩めた。
『おかえりなさい!
もうすぐ、上がりなので帰りにスーパー寄ってから行きますね。
リクエスト了解です!』
今から迎える可愛い恋人との甘い時間が楽しみで仕方ない。
和樹はごろんと再びベッドに体を投げ出した。彼女が来るまで少し眠ろう。隈がひどいと怒られそうだ。
いつもは目がさえてしまってなかなか寝付けないのに、どうしてか、彼女が来るとわかってからすうと瞼が閉じた。まるで子供みたいだとぼんやり考えていると、和樹はすっかり眠りについた。
ぬるりとした感覚を頬に感じて目が覚める。愛犬がぺろぺろと頬を舐めている。
僕を起こすときの決まった行動だった。
よしよしと頭をなでて、もう一度眠りにつこうかと体をすくめるが、愛犬は尻尾をぶんぶんと振り回し和樹の指を甘噛みする。
なんだと意識を戻せば、漂う出汁のいい匂い。
あ、と思って、のそのそと起き上がり、台所を覗くと鼻歌を歌いながらおたまを回す彼女の姿が。
ブラン、なんて賢い子だ!
和樹はぼんやりと彼女を眺めた。
いつもは殺風景だと感じる自宅の台所も、彼女がいるだけでずっとあったかくて心地よい。
腹の虫がぐるりとなる。そういえば、昨日から何も食べていない。
いまだこちらに気付いていない彼女にそっと忍び寄り、後ろから抱きしめる。
「うわわっ! もう、和樹さん危ない!」
「うん」
久しぶりの彼女の体温に無償に甘えたくなって肩口にぐりぐりとい額を押し付けると、まるで子供をあやす母親のように、ふんわり笑う。
「もうすぐできますから、ちょっと待っててくださいね」
と彼女が言う。和樹は頷くが、さらに腕に力を込める。
そう、まだ聞きたい言葉があるんだ。
ゆかりは一瞬きょとんとした顔をしたものの、すぐに彼の意図することがわかって少し困ったように眉を下げて笑う。
「おかえりなさい」
「うん」
和樹は頷く。その言葉に満足して、ようやく腕をほどいた。
「ささ、もうすぐごはんですから、和樹さんはテレビでも観て待っててください」
言われた通り、和樹はリビングのソファに腰を落ち着け、愛犬を抱えてテレビをつけた。平日の夜にテレビを見るなんて久しぶりだと、チャンネルを回す。テレビの雑多な音とふんわり漂ってくる美味しそうなごはんの匂い。
「今日は肉じゃがです。もうひとつのリクエストだった筑前煮は材料ひとつひとつに手をかけるから時間かかるの。それに、干し椎茸を戻して作るほうが美味しいのできるし。だから、また今度ね? うーん、味染みてるかなあ」
上機嫌な彼女の声が聞こえる。
ふんふんと楽しそうな鼻歌に乗って流れてくる、ほんの少し音痴なメロディがあまりにも心地よい。
「いいなあ……」
つい、口をついて出てしまった言葉に和樹は、はっと口をふさぐ。聞かれてしまっただろうか。ちらりと彼女の様子を伺えば、どうやら聞こえていなかったようで、湯気を立てるおかずを小皿によそっている。
食卓には、彼女が作ったおかずと炊き立てのご飯とお味噌汁がすでに並んでいる。
こんな日常を目の当たりにして、ついつい心の声が漏れてしまうくらいには、今の自分は穏やかな気持ちなのだ。
できましたよの声で和樹はソファから立ち上がり食卓に着く。
いただきますと一口頬張れば大好きな彼女の味がする。
「美味しい?」
目の前の彼女が聞く。美味しいよと返せば、良かったとほほ笑む彼女。
うん、やっぱり幸せだ。贅沢だ。
片づけを始めた彼女をじっと、ソファから眺める。手伝おうかと申し入れたが、きっぱり断られた。あまりにも見つめていたからか、彼女が聞いてきた。
「なんですか? 何かいる?」
いいやと首を振って、愛犬と戯れながら彼女を待つことにした。
しばらくすると、香ばしい香りが部屋に広がった。どうやら、コーヒーを淹れてくれたようだ。コトリとローテーブルに置かれたふたつのマグカップは揃いのもの。
彼女がすとんと隣に座る。
ありがとうとコーヒーを一口飲む。
「ほら、和樹さん、前に電話くれたとき喫茶いしかわのコーヒーが飲みたいって言ってたじゃない? でも最近忙しくてなかなか来られないから。喫茶いしかわのとは違うけど、食後に一緒に飲もうと思って。和樹さんちのコーヒー豆をちょっと拝借しちゃいました。どうかしら?」
「うん、美味しいよ。お店で飲むよりもずっと落ち着く」
手持ち無沙汰な左手を彼女の肩へ回して引き寄せる。コーヒーがこぼれないようにゆっくりと。
「ゆかりさんは、明日も喫茶店?」
「はい。あ、そうだ。明日からモーニングの新メニューが出るの。和樹さんにも食べてほしいなあ。あのね、フレンチトーストとトマトスープとサラダにゆで卵。あ、プチデザートも。フレンチトーストはこの前和樹さんに教えてもらったもの、ちょっと使わせてもらいました!」
「それは、おいしそうですね。近々行かないと」
「ええ、お待ちしていますね。だから明日は少し早目にお店に行こうかと」
「じゃあ、もう帰らないといけない時間ですよね」
ちらりと時計を見ると21時を回ったところ。
明日の彼女のシフトを考えると、そろそろリミットだろう。
いい歳した男なら、ここはスマートに彼女を送り届けるべきだと思うが、それを素直にできないのは、単に彼女を返したくないからだ。
彼女もこちらの意をくんでくれたのか、少しだけ残念そうな顔をする
「そうですね、今日はその、泊まること予定もしていなかったので、もう少ししたらお暇しようかと」
「そう、残念」
和樹は彼女の頭に頬を摺り寄せる。
「こんなことなら、いつでもお泊りできるように服とか化粧品とか、和樹さんのおうちに少し置いておけばよかったかしら」
彼女のその言葉に和樹はピクリと反応する。
そんなことを言うものだから、我慢できずに零してしまう。
「では、一緒に住みましょう」
「いや……それはちょっと、さすがにまだ早いです。それに、和樹さんのお家は広いけど、ふたりで住むにはちょっと手狭ですよ」
「ああ、そうか。本当に残念だな」
どうしたら彼女はすんなり同棲する気になってくれるだろう。
ああ、きっと、僕のこんな幸せな悩みは、彼女といればいつだって尽きることはないんだろうな。
ただいまといえば、おかえりと。
いただきますといえば、召し上がれと。
おやすみといえば、おやすみなさいと。
そんな当たり前の日常と幸せを手に入れるために、今夜からはさようならのカウントダウンを始めよう。
一日も早い同棲開始を決意する和樹さんのお話。
もふもふ……じゃなくてブランは、実は元々和樹さんが飼っていたのです。
ゆかりさんの妊娠を機にマスターのお家で預かってもらって、そのまま奥様が可愛がるようになりましたと。
そんな設定を潜ませておりました。




