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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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391-2 手紙を書こう(後編)

 雲一つなく晴れ渡る空を、穏やかな日差しが彩る日、愛しい存在が産声を上げた。


 病室で覚束なく我が子を抱き寄せる和樹。

 その姿はなんて穏やかで、なんて愛おしい光景なのだろうとゆかりは綻ぶ。


 ◇ ◇ ◇


 人生を何人ぶんか生きられるほどの経験値がありそうだ、と彼を評したのは誰だっただろう。

 たしかに和樹はさまざまなことに首を突っ込み、そのたびに多くの知識と技術を身につけてきた。仕事のためはもちろん、個人的な好奇心も手伝って。

 しかし、こんな状況には直面したことがない。


 今、和樹は恐ろしく緊張している。

「はい、こうやって腕で頭を支えます。肘のところに頭が来るように。反対の腕はおしりと背中を支えて、身体に密着させる」

 こうよ、と慣れた調子で和樹に語りかけるのは、眼鏡に柔和な笑みをたたえた年配の女性看護師である。

「安定するし、赤ちゃんも安心しますからね」

 理由を添えられ、和樹は思わずこくこくとうなずいた。


 その様子を、上半身の角度を変えたベッドに横たわったゆかりが見守っている。

 化粧っ気のない、疲れてはいるが穏やかな表情で、ガチガチに緊張した夫を見つめている。

 看護師にひょい、と小さな生きものを預けられそうになった夫が目に見えて狼狽している様に口元を綻ばせた。



 和樹は教わったとおり片腕の肘の内側に赤ん坊の頭を載せてもらうと、そろそろと全身を受け取った。

 その名の通り赤い顔をした新生児は、白い肌着にくるまれ、目をぎゅっとつぶって、ときおりもぞもぞと動く。

 和樹は大きな身体をかがめて腕の中の小さな我が子を呆けたように見つめていた。


 軽い。

 小さな手、小さな指。

 その指一本一本に小さな爪がついているのすら奇跡のようだと思う。

 看護師が笑いながら「お父さん、背筋伸ばしていいですよ」と声をかけると「あっはい」と夢から覚めたような顔をする。

 看護師は「次のミルクはお父さんにもやってもらいましょうねえ」と言って手順をいくつか説明し、他の部屋にも行かねばならないらしく「大丈夫ね、ちょっと抱っこしててね」と出ていった。



 家族水入らずといった状況になって、ゆかりと目が合うと和樹は照れくさそうに笑った。

「似合いますね、和樹さん」

「壊れそうで不安だよ」

「私もですよ」

 ゆかりはふんわりと微笑む。

 と、和樹の腕の中で身じろぎした赤ん坊が伸びをするように腕を突き上げ、くあぁとあくびをした。

 いっぱいに開けても、なお小さな口。


 和樹はしばし目を奪われて、やがて「はあ……」とため息とともに小さく声を漏らした。

 その様子を眺めてゆかりが目を細める。

 和樹は赤ん坊からゆかりに視線を移し、その笑顔を認めると目で問いかけた。

「ううん、なんでもない」

 ゆかりが軽く首を振ると、和樹は嬉しそうな、困ったような顔で問いを引っ込めた。


 ゆかりは、そうは言ったものの気が変わったのか、笑顔の理由を口にした。

「可愛いなあって、思ったの」

「ああ、うん」

 そう言ってまた赤ん坊を覗き込む最愛の夫に、ゆかりはまた幸せそうに笑った。

 妻が見ていたのは夫の表情だったことに、和樹は気付いていなかった。



 ゆかりはのんびりした口調で言う。

「産まれる前にいろいろ勉強したつもりでいたけど、いざ産まれるとなったらもう次から次に新しいことばかりで、言われたこと、やらなきゃいけないことをこなすのに精一杯で。産まれちゃったらちょっと待ってとも言えないし、すっごく心細かったんですよね」

 口調と裏腹に話す内容は結構シビアだ。


「でも私だけじゃなく和樹さんも初心者なんだなあって思ったら、ちょっとほっとしちゃった」

「ええ? ほっとしちゃうの?」

 そう言う和樹もほっとしたような顔で笑う。

「うん。きっとみんなこんな感じなんですよ。たぶん。赤ちゃんだって産まれるの初めてなんだし」

「……そっか」

 そうっと赤ん坊を抱き直し、和樹はその顔を覗き込むようにして声をかける。

「うん。お互い初心者だもんな。仲良くやろう」

 改めて新しい家族に挨拶をする。


「はじめまして、お父さんです」


 ◇ ◇ ◇


 初めての抱っこやミルクをおっかなびっくり、なんとかこなし、ベビーベッドに寝かせてようやく一息ついている和樹に、ゆかりは穏やかな視線を向けていた。


「和樹さん、これ」

「……え」

 そう告げたゆかりが、徐に病室にある引き出しから取り出したもの。

 いつの間に用意していたのであろうか。

 少し照れくさそうにゆかりが顔の横に掲げるのは、便箋だった。


「不器用な私たちは、うまく伝えられないこともあるかもしれないから。毎年、この子の誕生日に二人で手紙を書きませんか?」

「…………」

「いつか物心がついた時に、産まれてからの分をまとめて渡すの」

「…………」

「私、和樹さんと手紙のやり取りをしてからずっと、こうしたいなって思っていたんです」

 手紙のやり取りと言われて、喫茶いしかわの注文票の裏に書いたメッセージや、結婚しても帰宅できなかった時にやりとりしたいろんな柄の便箋を思い出す。

 幸せの涙を乗せたゆかりの目が煌めいて、ゆっくりと頬を伝う。

 その滴を拭って唇を落とし、ゆかりの体を抱き寄せる。


 この肩に、両手にかかる二つの重み。

 護るものが増える幸せに改めて気付かされる。

 ゆかりと、この子が教えてくれた。

 愛しい存在が増えていく幸せを、二人が教えてくれた。


「名案だと思いますよ」

「ふふっ。ねぇ、和樹さん。今日、石川さんがもう一人増えましたね」

「ああ、幸せすぎてどうにかなりそうだ」


 愛されることに不得手な自分を、愛で包み込むゆかり。

 ……そうか、自分は愛することを知っているのか。

 それはきっとゆかりが教えてくれたもので、ゆかりが気付かせてくれたものだ。

 だからこそ今、こうして夢のような愛しくて眩しい、奇跡のような瞬間が現実となっている。


「毎年、一緒に書いていこう」

「はい。一緒に」

「喫茶いしかわのメニュー表じゃなくて良い?」

「ハート型に折ってくれればそれで良いです」

「ははっ、懐かしいな」

 寄り添い、淡く甘い思い出に心を巡らせる。

 二人想いを繋ぎ、共に歩んできた軌跡に愛しい存在が増えていく幸せを、何と表せば良いのか。


「ゆかりさん……ありがとう。君がいてくれるから、僕は今、世界で一番の幸せものだよ」

 抱き締めた腕に力を込めて愛を伝える。

 手にすることが叶わないと思っていたはずの幸せ。

 そんな愛に包まれることができているのは紛れもなく、ゆかりのお陰だ。


「いーえ、和樹さんは二番目ですよ」

 腕の中から少し悪戯を含んだゆかりの声が届く。

「世界で一番幸せなのは、私ですから」

 ゆっくりと視線を合わせた先で、ゆかりが心の底から幸せそうに笑った。



 ゆっくり、焦らず伝えていこう。

 まずは、僕たちがどれだけ君に逢いたかったのか。

 どれほど愛しているのかから始めよう。


 僕とゆかりが愛を結び、その先に繋ぐ愛のかたちにどれだけ胸を躍らせたのか。

 君がゆかりのお腹に宿ってくれて、どれほど嬉しかったのか。

 初めて君と出逢った時、どんなに幸せだったのか。


 僕とゆかりを繋ぐ、かけがえのない奇跡。

 愛という存在を両の手に抱き締められることが、どれ程かけがえのないことなのか。

 どれ程の奇跡を集めたものなのか。


 僕とゆかりが不器用に、けれども、ほどけぬよう二人で結んできた愛のように。

 これからずっと、三人で、もしかしたらもっと人数が増えていくかもしれないけれど、それでもずっと、愛を繋いでいこう。伝えていこう。


 真弓ちゃん妊娠中のゆかりさんのお話、ひとまずこれで一段落ということで。

 他にもたくさんイベントとかエピソードあると思うのですが、収集つかなくなりそうなので。


 ……気が向いたら足すかもしれませんけれど。

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