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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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391-1 手紙を書こう(前編)

 ゆかりから妊娠を告げられたとき、湧き上がる感情に戸惑いを覚えた和樹の手は少し震え、自身の中にそんな想いが秘められていたことに躊躇った。

 ……何だ、これは。

 今まで感じたことのない、言葉にできない想いが止めどなく溢れてくる。

 ゆかりと心が通じ合った時と似ているけれども、どこか異なる優しい色を携える情感。

 言葉にできない代わりに、心が涙となって溢れ出す。

 拭うことも忘れ伝うままの和樹の頬に、ゆかりがそっと手を伸ばしその優しい滴を拭ってくれた。


「和樹さんと私の赤ちゃん。来年逢えますね」

 何度も何度も。ゆっくりと和樹の涙を拭うゆかりの細い指。

 細い指を大きな手が優しく握り締め、引き寄せて胸に掻き抱く。


「…………ありがとう」

 囁くように、堪えるようにこぼれた言葉は、和樹の温もりと共にゆかりへと降り注ぐ。

 想いを重ね合った、あの喫茶いしかわでのひと時と同じような、温かさと強さを纏う力強い和樹の腕。

 たったひと言に込められた無数の愛がゆかりの視界を潤ませ、堪えきれない想いが滴となって和樹のスーツに溶けていく。


 夢ではないのだろうか、と和樹は思った。

 予想しなかった未来。

 想像もつかなかった現実が今、ここにある。

 愛を知り、愛を結び、その愛がかたちをなそうとしている未来を、誰が予想しただろうか。

 途切れた愛を手繰り寄せ、離れぬように結んでくれたのは間違いなく今、腕の中にいるゆかりだ。

 共に未来を歩むことを望んでくれ、愛を交わし合うことを願ってくれた。

 不器用な自分の想いを一つずつ丁寧に繋ぎ、愛というものにしてくれたのは間違いなく、妻であるゆかりだ。


「ゆかりさん……ありがとう」

「私こそ、っ……ありがとうございます、和樹さん」

 涙が互いに溶けていく。

 想いを重ね合い、抱き締めたその温もりに溶けていく。

 愛が結ばれ芽生える奇跡。

 更なる愛が二人を繋ぐ。


 ゆかりの細い体を力一杯抱き締めて、そこに宿るまだ見ぬ存在に愛しさが溢れ出す。

 ああ……目に見えなくとも、君は僕をこんなにも幸せな気持ちにさせるのか。

 愛に際限がないことに改めて気付かされる。

 愛しさが溢れ出すこの瞬間に溺れながら、ゆかりの体を更にきつく抱き締める。

 ……そうか、もう一人愛する存在が増えるのか。

 二人分抱き締めようと腕に力を込めると、背に回るゆかりの細い腕の力も強まる。

 ああ、愛しいな。

 自分の腕の中には、愛が二つもある。


 ふと、まどろみのような甘い空気に相応しくない、冷えた矢が和樹の思考に突き刺さる。

 ────これは愛を知らなかった自分が。愛を置き去りにしようとしていた自分が賜って良い奇跡なのだろうか。

 きちんと愛を知っている者の元に芽生えた方が今、自分の腕の中にいる存在はより幸せになれるのではないのだろうか。

 だって、言葉にできないほどの尊い存在ではないか。

 奇跡そのものではないか。

 誰よりも幸せになるべき存在ではないか。

 自分の、この手からすり抜けたものは、多い。

 そんな自分が……授かって良い幸せなのだろうか。


「和樹さん」

 腕の中でゆかりのくぐもった声が届き、和樹はふと我に返る。

「……和樹さん」

「どうした?」

 瞬間、過ぎった思考は掻き消して優しく問いかけ、視線を合わすため腕をほどこうとしたのを制したのはゆかりだ。

 力強く抱き付き、和樹から離れようとしない。


「ゆかりさん?」

 先ほどよりも優しさを声に乗せ、今度は柔らかくゆかりを抱き締める。

 ゆかりから回された腕は少しだけ緩まり、けれども一向に顔を見せようとはしない。

 無理に覗こうとはせず、胸に搔き抱いたままゆかりの髪を梳く。


「…………和樹さん。私、怖いの」

 予想していなかった震えるゆかりの声に、ゆかりの頭を撫でる和樹の手が止まる。

「こんなこと言うべきじゃないって分かってるんです。言わなくても、赤ちゃんに伝わってしまっているだろうから、こんなこと考えるべきじゃないって分かってるの……」

「…………」

「でも、怖いの……」

 今まで共に過ごしてきて、こんなに怯えるゆかりは初めてだった。

 和樹は安心させるよう、抱き締める腕の力を少しだけ強める。


「……とても嬉しかったんです。とても幸せなの。赤ちゃんがお腹の中にいるって知って、和樹さんとの赤ちゃんがここにいるんだって思ったら……愛おしくて、とてもとても嬉しかったの……」

 和樹の背に回されたゆかりの手が、スーツにしがみつくように強まる。


「でも、嬉しいっていう思いだけではいけないわ。……だって、一人のひとなのよ。可愛がるだけではいけないわ。私、ほかの人のように、ちゃんと親になれるのか不安なんです……」

 幸せな気持ちと相反するように芽生える不安な想い。

 震えるゆかりの声に、自分だけではなかったのだと思うと同時に、心に温かいものが流れ込み、和樹は気付く。

 ……そうか、そうだよな。

 そういうことなんだよな。



「ゆかりさんはちゃんと分かっているから大丈夫だよ」

 すとんと落ちてきたものが、和樹の口から言葉となってゆかりに降り注ぐ。

「僕とゆかりさんの子供だけれど。ちゃんと感情を持った一人の人間だ。ゆかりさんはそれをちゃんと分かっているから、大丈夫」

 言い聞かせるように、和樹は柔らかく言葉を乗せる。


「ゆかりが不安に思うっていうことは、ちゃんとこの子を愛しているからだよ」

「……え」

 緩まったゆかりの腕になぞらえるように、抱き締めた腕をゆかりの腰に回す。

 ようやく合わせた視線の先で、ゆかりの丸い目が不安げに揺らいだ。


「愛しいから不安になるんだ。この子のことを思うから迷うんだ。愛しているからこそ、自信が持てないんだ」

「…………」

「ほかの人のようにちゃんとした親になろうなんて。この子のことを想っていないと、そんな感情抱かないだろう?」

「和樹さん……」

「不安に思う自分を責める必要なんてない。愛しているから悩むんだ。どうすれば伝わるのか迷うんだ」


「僕も、不安だよ。だって、親になるのなんて初めての経験だからね」

 と、わざとらしくおどけて見せると、ゆかりの表情が幾分和らぐ。

「正解なんてない。もし迷ったら二人で話そう。こうして。何度でも。この子のためになにが良いのか。二人とも、この子に初めての経験をさせてもらう。きっと間違いもあるだろう。その時はきちんと謝ろう。ゆっくりでいい。二人で少しずつこの子の親にしてもらおう。僕はゆかりさんとなら、この子の親になれると思うんだ」


「もう、親にしてもらっているんだけどな」

 と、額を合わせて微笑むと、惹かれるようにゆかりが穏やかな笑みを見せる。


 あれ程自分を取り巻いていた不穏な気配は微塵もなく、不思議とどこか落ち着いた、穏やかな感情が和樹の心を占める。

 大丈夫だ。

 きっと、この子が少しずつ僕たちを親にしてくれる。

 まだ目に見えなくとも、ゆかりのお腹に宿る愛しい存在が、言葉を発さずとも愛を伝えてくれる。


 ゆかりがこぼした不安な想いは、愛の欠片そのものだった。

 不安な想いを纏わず親になれる人もいるだろう。

 不安な想いを纏ったまま、いつしか親となる人もいるだろう。

 何が正解でも間違いでもない。

 それぞれのかたちがあるのだ。それで良い。

 でも、ゆかりとならきっと愛を伝えていける。

 不器用かもしれない。

 けれども、まだ見ぬ君を愛おしいという想いがほら、こんなにも溢れてくる。

 僕たちはきっと大丈夫だ。

 二人、想いを繋いできた僕とゆかりとなら、新しく芽生えたこの命との絆を繋いでゆける。



「それにね、ゆかりさんは愛されることをちゃんと知っている。それはきっと、この子にとってとても大切なことだよ」

 愛されることを知っている人は強い。

 眩いほどのその存在は、必ず愛を伝えることができるだろう。

 その術を知っている人は尊い。


「じゃあ、愛することを知っている和樹さんとなら、三人でもっと幸せになれますね」

 涙を溜めながら眩しいほどの笑顔を見せるゆかりに、目頭が熱くなる。

「……すごいな、この子は」

「え?」

 まだ産まれてきてもいないのに、沢山のことを教えてくれる。気付かせてくれる。


「すごいな、ゆかりさんは……」

 数え切れない程の幸せを届けてくれるという、嘘みたいな現実がここにある。

 それは紛れもなく、ゆかりがいてくれたからだ。

 こんな僕にかけがえのない愛を。永遠の愛をくれる。

 このかけがえのない現実は、無償の愛を降らせてくれるゆかりがいてくれるから、存在しているのだ。


「僕を愛してくれてありがとう」

 くしゃりと片手で目を覆った和樹を、不思議そうに見つめていたゆかりの視界がまた緩んでいく。

「私、こそ、っ……傍にいてくれて、愛してくれて……この子を授けてくれて、ありがとうございます」

 抱き付いてきたゆかりの体を、自分に溶け込むよう和樹は抱き締める。

 自分とゆかりを繋ぐ愛がここにある。

 幸せだ、と溢れる想いと共に、愛を纏うゆかりの体を力強く抱き締める。


 ──ごめん、苦しいだろう?

 きつく抱き締めてしまうことを、今だけは許してくれないか。

 だって、僕は今、君と。君の母親であるゆかりさんが愛おしくて堪らないんだ。


 君がゆかりさんのお腹に宿る前から、君のお母さんは僕に沢山のものをくれたんだ。

 沢山のことを教えてくれたんだ。

 自分を労わるということ。

 そのことが、自分の大切な人を護るのだということ。

 誰かに甘えることの大切さ。

 それが沢山のものを救えるということ。

 たとえば嬉しいとか、美味しいとか、痛いとか、辛いとか。

 蔑ろにしてしまいがちな感情を伝えることの大切さ。

 幸せは誰にでも平等に与えられるということ。

 与えられた幸せを大切にしていれば、更なる幸福が降り注ぐということ。

 当たり前かもしれないけれど、そんなものとは正反対の場所にいたあの頃の僕に、君のお母さんはそんな当たり前とも呼べる幸せを僕に教えてくれたんだ。


 僕はゆかりさんに寂しい想いをさせたのと同じように君に寂しい想いをさせてしまうのかもしれない。

 ずっと傍にいてあげられなくて、悲しい想いをさせてしまうのかもしれない。

 けれど、これだけは覚えていてほしいんだ。

 僕が。ゆかりさんが。

 君という存在をどれほど愛しいと思っているのか。

 どれほど逢いたかったのか。

 愛しくて。幸せで。

 この想いを上手く伝えられるのか戸惑い、不安になったりもしたけれど。

 少しずつ伝えていこうと思うから、呆れないで聞いてくれるかな。

 父さんと母さんは、君のことが愛おしくて堪らないんだって。


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