390-4 とある応援し隊員の思い出話・Case14(後編)
「……部下のアドバイスを聞いてみることにしました」
「アドバイス……?」
彼の髪がサラリと揺れる。数秒の沈黙のあと、カップとソーサーの触れあう音がした。
「僕は君のことが大好きで、誰よりそばにいて君を守ると誓ったのに、立て続けに妙な輩に付きまとわれたせいで君とお腹の子を守るために無関係を装い距離をおくのは、本末転倒だと思いました」
ぐっと喉が詰まる。
唐突に始まった愛の告白に、パリパリのパイ生地とトロトロのブルーベリーが大渋滞を起こす。
死ぬ。
悶絶して胸を叩くと水を差し出されたので必死に流し込んだ。
「家に帰るのは必要最低限だし、最近はデートどころかふだんの買い物すら君と行けてないよね。唯一、一緒に行くことにしている検診だって、毎回付き添ってるわけじゃない。君は僕の妻であり、公私ともに最大の理解者であると言えるけれど、でも僕はそれを感謝しこそすれ、当然だとは思っていない。この生活にだって満足していない」
「和樹さん……でもそれは今に始まったことではありません。私は、自分とこの子を守ることが、あなたへの一番のサポートになると信じているからいいんです。寂しくないと言えば嘘になるけど、一緒にいるときは変わらず優しくしてくれるし、そもそも私たちに限った話でもありません。あなたの周りにいる人たちの恋人や家族は、大なり小なりみんな経験していることなんでしょう?」
「そう……そうやって距離をおくことで結局うまくいかず、破綻していく」
「……」
「そして、別れたからといって関係が完全に断たれるわけでもない」
「その話も結婚する前に聞きました。その上で、私はあなたの妻になったんですよ?」
「わかっています。わかっているんだ。君は……子どもができて強くなったよね。でも僕は臆病になった。僕に執着する好ましくない連中に、君の妊娠を嗅ぎつけられることが怖くて仕方ない。信頼する部下にさえ、君を任せることはできないと感じてしまうほどに。でも鉄平くんからメッセージをもらって考えが変わりました。自転車で移動したのは、いざという時、走って逃げることができないからだね? わざわざあのルートを通ったのも僕が警戒してほしいと言った怪しい連中を警戒していたからだ。僕の奥さんがそこまで向こう見ずだとは思わなかった。しかもケーキのために。これはもう僕ひとりの手には負えないと思ったわけです」
「う……」
冗談なのか本気なのかよくわからないやり取りに頭がついていかなくなる。
クリニックで見る縁側日向ぼっこ夫婦はどこへいってしまったのか。
旦那さまの職業は海外出張もよくある営業マンと記憶しているが、かなり危険な方面に携わっているということなのだろうか。荒っぽいことをしているようには全然見えないけれど、一般的な商社に詳しいわけではないから想像できない。
ああでも、イケメンすぎて一方的に執着されて行動力がありすぎるストーカーがわんさか、というのはちょっと想像できる気もする。
「ゆかりさん、君は僕が仕事のことしか考えていないと思っているかもしれないけど、僕は本当に君との子どもを待ち望んでいるよ。今も、会える日をずっと楽しみにしている」
「はい」
「でも君にこんな生活を強いるのは、僕が我慢できません。だから仲間を頼ることにしました」
「はい」
「どうしても外せない仕事以外はセーブして君の傍にいるつもりだし、これからは正々堂々と君を守ります。君だけにコソコソと出産準備をさせるようなまねはしません。もちろん、だからといって出掛けられる機会が劇的に増えるわけではないけれど、僕がついているからには、誰であろうと君に指一本触れさせません」
熱烈だ。
日向ぼっこどころか火傷しそうな熱量だった。
全身で、彼女を好きだと言っている。
いや違うか“大好き”なのよねと苦笑した。
音をたてないようにコーヒーを口に含む。
奥さまの反応が気になって、ちょっとだけ首を傾けると、旦那さまをしっかり見つめ返す彼女がいた。その圧倒的な熱量を受け止め、包容する、静かな強い眼差し。
意外だった。すっかり照れたり恥じらったりしていると思ったのに。
撞木で突かれたように心臓が震えた。
きっと彼らは単純に守り守られるだけの関係ではないのだろう。
剛柔兼ね備えた彼女は、その身に我が子を宿したことで、旦那さまより一足先に“親”になった。
その時点で、歓びの裏に生じた彼の不安や葛藤を感じ取っていたのかもしれない。
彼が自分の思考にとらわれているうちは何を言っても聞き入れない性格であることを充分に理解して、言葉には出さずとも、やがて父親としてひとつの答えを導き出す日を待っていたのではないか。
「……通販もいいけど、やっぱり実物を見て選んだりしてみたいですよね。赤ちゃんのものだもの。肌触りとか、大事です」
「え……うん……」
「お母さんや友達とも見に行ってるんだけど……ベビーベッドとか抱っこ紐とか色々、一番に相談したいのは和樹さんだなぁって、ずっと思っていたの」
「うん……あー……でも、実はベビーベッドは、上司が準備すると言っていて……」
「まぁ」
「ごめん。君がイヤなら断るんだけど……」
「イヤだなんてそんなこと。赤ちゃんのこと、気にかけてくれているんですね。でもあの、お気持ちはありがたいんですけど、高価過ぎるものはちょっと……」
「わかった。そのことについては心配しないで。じゃあそれ以外のものは一緒に買いに行くからね。抱っこ紐は僕も使うだろうし」
「ええ? そうなの?」
「そうだよ。ベビーカーだと君と手が繋げなくなるじゃないか。片手じゃ不安定だ」
「ふふ、やだ。でも、嬉しい」
奥さまの目に光るものがあった。
ホロリとこぼれた透明な雫が落ちる前に、旦那さまが彼女の頬に優しくハンカチを当てる。
美しい光景だなと思った。
この年で、こんな純粋な感情に心を揺さぶられることになろうとは。
それにしてもイケメンはスマートだ。
店のペーパーナプキンを抜きまくっているこちらとは大違いだった。
もらい泣きしそうになるのを堪えていると鼻水が垂れてきたので、もう一枚失敬する。
その後再び日向ぼっこの空気になったふたりがスイーツを堪能し、雑貨コーナーにある布絵本を購入し帰って行くのを見送った。
置き去りにされたクロスバイクが心配で、連れの彼女と二個目のケーキを注文し、どうすることもできないまま居すわっていると、まもなく厳めしい顔をしたスーツ姿の男性が眼鏡のブリッジを押し上げながらやって来て、ため息混じりに自転車を回収して行った。
「持って行っちゃったけど、大丈夫なんですかね!?」
「たぶん……。一回だけクリニックに顔を出したのを見たことがあるから。きっと彼らの知り合いよ」
この部下と思われる人物は、父親になることのプレッシャーをはね除け、一途に家族を愛そうとする彼の姿を知っているのだろうか。
もし知らないのなら、先ほどのあの美しい光景を見せてあげたい。
でもあの見た目の柔らかさを裏切るほど頑固な彼がアドバイスを素直に受け入れると判断した人なのだから、彼ら夫婦にとって近しく心強い存在なのだろう。
◇ ◇ ◇
後日、奥さまが産休に入ってしまう前に喫茶いしかわでランチしようという話になり、助産師の彼女と店にお邪魔した。
また一段とお腹が目立ってきた奥さまは、はじめ驚いたように目を丸くしたものの、すぐにいつもの人懐こい笑みを浮かべ席に案内してくれた。
彼女特製ナポリタンを堪能し、デザートにケーキはいかがです? なんて可愛らしく勧められたら断るわけにもいかず、商売上手ですねぇなどと笑いながら香り高いコーヒーとともに味わった。
静かで、でも時々常連さんたちの賑やかな声で盛り上がる店内は、どこか懐かしく穏やかで、お洒落なカフェでは感じることのできない気安さがあった。
誰彼構わずお腹を触らせてしまう奥さまに
「はいストップ、和樹くんに怒られるのは僕なんだからね!」
と店長が注意して、本気のお触り禁止令が言い渡されるのをみんなで笑いあった。
奥さまには、是非ともまたここに戻ってきてほしい。
常連さんたちに可愛がられる子どもの姿が想像できた。
あの旦那さまが何と言うかわからないし、常連でもない自分が口出しできるようなことではないのだけれど。
スカートのファスナーがミチミチになってきたところで会計に立った。
伝票がないことに気づき奥さまを見ると、素敵な笑顔が返される。
「今日のお会計は主人が持ちます」
「え?」
「近いうちにきっと、お二人が喫茶いしかわにやって来るだろうから、その時はご馳走するようにと言われていたんです。日頃の感謝を込めて」
「ええ……?」
グイグイと押し出されるように店を出ると奥さまもついてきた。
少し強めの風にさらされながら、ペコリと頭を下げられる。
「この前は、お恥ずかしいところをお見せしてすみませんでした。あと、私たちのこと、そっとしておいてくれてありがとうございます。他のスタッフさんたちにも話さずにいてくれたんですね。検診のときの雰囲気でわかりました」
「あ……ええ……まぁ……」
今や検診は二週に一度となり、クリニックで彼らと顔をあわせる機会は増えていたものの、あえて事務的な態度は崩さずにいた。彼らも変わった様子はなかったから、あの場にいたことは知られていなかったと結論づけていたのだけれど……。
「ふだん人前であんなことを話すひとではないんです。とっても用心深いひとですから」
「はぁ……」
それは愛の告白か、はたまた危険な仕事に関することを言っているのか。
連れの彼女と顔を見合わせる。
どちらにせよ、ムセたり喉を詰まらせたり騒がしかっただろうから、気付かれない方が変と言われればその通りかもしれない。
しかし喫茶いしかわへ来ることまで見越されていたとは……。
こちらが見る以上に観察されていたのかと思うと恥ずかしさでいたたまれなくなる。
「……やっぱり気づかれていたんですね」
「主人だけですけどね。私はあとから聞かされました」
ふふ、と笑う奥さまはお腹に手を添えていた。
たぶん無意識なのだろう。
お母さんの顔だなぁ、と見入ってしまう。
「旦那さまのお仕事のこととか、色々と事情もおありでしょうが、元気な赤ちゃんをお迎えできるようにお手伝いさせてくださいね」
助産師モードでとなりの彼女が口を開いた。
少しは石川家のお産に入る気になったのだろうか。たくましく成長している元後輩を誇らしく思った。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
調子づいた連れが、奥さまのお腹に手のひらを向け「安産!」とパワーを送るかのように言った。
やれやれと苦笑しつつ、丸く突き出た膨らみを眺めていると、突然ゴトリと揺れて形が変わる。
「わっ、すごい」
「あらら、びっくりさせちゃったかな?」
「大丈夫ですよ。きっと思いが通じたんですね」
少しいびつになったお腹を奥さまがゆったりと撫でさする。
ムズムズと落ち着かない気持ちになった。
なぜそう感じるのかわからないまま見つめていると「触ってみます?」と瞳を覗かれる。
「え、でも……」
「大丈夫ですよ。主人もマスターも見てませんから」
いたずらっ子のようにウインクする奥さまに誘われ、おずおずと手を伸ばした。
妊婦さんは見慣れているのに、そのお腹に触れたことはない。あくまで母体の一部分であるし、気安く触られることを嫌がる妊婦さんが多いから、たとえ友人であっても眺めるだけに留めていた。
「ここにね、足があるんですよ。たぶん踵です」
「おお……」
そっと触れただけでも小さな突出を感じることができた。意外に力強い。
鼓動を感じるわけではないのに、確かに命が宿っていると実感した。
不思議だ。この中で小さな命が日々育まれているなんて。
ああ本当に、どんな子が生まれるのだろう。楽しみで仕方ない。
ポコポコと小さな振動を感じたと思ったら、突然またお腹全体がグルンと動いた。活発だ。残念ながら触れていた踵の痕跡はすっかりなくなって、何がどうなってしまったのか、さっぱりわからなくなる。
「元気ですね……」
「ふふ、パパに似てやんちゃなのね、きっと」
いやいやママもなかなかのお転婆ですよとツッコミたくなったけれど黙っておいた。
その代わり、今の率直な感情を言葉にしてみようかと思い至る。
実際のお産では力になれないから、せめてひと言。
「……あなたのパパもママも、とっても素敵なひとだよ。だから安心して生まれてきてね」
この言葉は、小さな君へ。
和樹さんの心配性が過ぎるだけで、別にそこまで危険な生活を送っているわけではないのです。
あの発言の数々を聞いてしまうとどんなハードボイルドな生活を、と思ってしまいますが。
一度顔を出した日=縁側日向夫婦がお姫様抱っこでザワつかせた日なので、なおさら印象に残りやすかった長田さん。ご愁傷様と言うべきか、不審者扱いされなくて良かったねと言うべきか(苦笑)
ちなみに上司のベビーベッド発言は元々、姪のところで不要になったから今から新品を購入するつもりなら譲るよ、くらいの軽口だったのです。和樹さん、説明が足りません!(苦笑)
頻繁にサイズが変わったり汚したりする乳幼児用品は、お下がり大事ですからね。
あまり心配しなくても、あの二人の子供なら、お下がりやプレゼントくれそうな人には心当たりがありすぎそうです。




