390-3 とある応援し隊員の思い出話・Case14(中編2/2)
「え……?」
窓越しに半分顔を出す形で止まった人物に見覚えがあった。というより、先ほどまで話題の中心となっていた人物だ。
石川さんの奥さま……!
ふーっと息を吐いて額の汗を拭った彼女は、次によっこいしょと口の形を変えて体を傾けた。
え? もしかして自転車? 自転車に乗ってきたの!? と目を見張る。自宅からここまで三十分以上はかかるのでは? あなた、妊婦ですよね? 旦那さまはあなたが自転車に乗っていることを知ってるの? と、問い詰めたくて腰を浮かせる。
「どうかしました? 外に何か……?」
連れの彼女が窓に目を向けた時、すでに奥さまの姿は消えていた。
中腰のまま乗り物を確認する。なんとクロスバイクだった。後付けと思われるかわいい籐かごがついている。車体自体はしっかりしているが、それにしたって無防備にも程がある。
「え? あれ、ちょっ……」
今度は連れが慌て出し、後方を見るようにと促された。振り返ると、奥さまがショーケースの前でケーキ選びに夢中になっている。顎に手を添え真剣だ。オーバーシャツに薄手のカーディガン、マタニティ用と思われるジーンズを履いていた。足元はすっきりしているので、パッと見では妊婦さんだと気づかれないかもしれない。
奥さま……懲りてない……。
前回の妊婦検診から一週間しか経っていないのにケーキとは。どれだけ旦那さまをなめているのか。
というかもう少し自分とお腹の子のことを考えて欲しい。意外に自由奔放だ。旦那さまがアプリで管理したくなるのも頷ける。
「筋金入りの甘いもの好きなのかしら。彼女、自転車で来たみたい」
「うそっ!?」
窓の外のクロスバイクを指差した。
気のせいだろうか。
ゴツイU字ロックに、旦那さまの圧を感じる。
「いやダメでしょう! いくら安定期だからって……!」
声を潜めつつも彼女はすっかり助産師の顔になっていた。夜勤明けとは思えないプロの顔。
「まさか自転車でカロリーを消費しようとしているんじゃ……?」
「いやいやいや……事故ったら終わりなんですから……」
オーダーを済ませた奥さまが店員に案内され近づいてきた。とっさに顔を伏せて食べかけのパイをつつく。お供の彼女の肩越しに奥さまが着席したのが見えた。そうよね、お持ち帰りだと色々証拠が残るから、ここで食べてしまうのが賢明よねとひとり納得する。
注意したくてウズウズしている仕事モードの彼女に、とりあえず知らないふりをしておこうと目顔で伝えた。不満げに眉を寄せたものの、渋々頷いてくれる。
キョロキョロと店内を見回す奥さまは、ドールハウスに迷いこんだ子どものように目を輝かせていた。今日は喫茶いしかわの定休日だけれど、敵情視察というよりは、本当に自分が楽しむために来ている印象だ。
近くの雑貨コーナーに赤ちゃん向けのオモチャや食器が飾られていた。いうまでもなく奥さまの視線はそちらに張りついている。
やがて彼女のテーブルに、ホットミルクとホイップクリームたっぷりのケーキが運ばれてきた。うっとりと目を細める彼女は、スイーツの神様に感謝を捧げるべく天を仰ぐ。
銀色のフォークを握りしめた顔は、満開に咲き誇った花を連想させた。きっとなんでも美味しく食べるひとに違いない。彼女と食事をするのは楽しそうだ。
あ~んと口を開けてクリームをほお張った彼女が、満足げにほっぺたに手を添えた。お相手がいたら「美味しい!」と声に出していたことだろう。通常ならばあの旦那さまだって、愛しさいっぱいの眼差しで彼女を包み込んだはず。そう、通常ならば。
こちらの心配など露知らず、奥さまが二口目に取りかかった。今度はスポンジ部分にもフォークを入れ、盛り盛りのクリームとともにすくいあげる。先ほどよりさらに大きく口を開けて、この世の幸をすべて飲み込もうとしているかに見えた。
コツコツ。
至福のときに水を差すかの如く窓が鳴った。
音につられて視線を移した奥さまが口を開けたまま固まる。
自分の口からもブルーベリーが一粒こぼれ落ちていくのを感じた。
ガラス越しに、悪魔のような笑みを浮かべた石川さんの旦那さまが立っていた。
同じく窓に目を向けた連れの彼女がゴフッと紅茶を噴き出したので、無言でナプキンを押しつけた。
そのままゴホゴホとむせる彼女をフォローするも、石川さんの奥さまは気付きもしない。
それはそうだろう。あんな爽やかで優しい笑顔を振りまくイケメンが、こんな凄絶な作り笑いを浮かべるなど、あってはならない。ひと昔前のテレビなら“しばらくお待ちください”の画面に切り替わっているところだ。
スーツ姿、やっぱりカッコいいですねと見惚れはしたものの、それどころではなかった。
α波? それが何か? みたいなどす黒いオーラをまとった旦那さまがゆっくりと窓から離れていく。
凍りついたままの奥さまは、狩られたウサギも同然だった。プルプルと震えながらフォークを皿に戻し、両手を膝の上に置く。反省のポーズなのだろうが、怒られるとわかっていてなぜ摂生できないのか理解に苦しむ。
数秒後にドアベルが鳴り、いらっしゃいませ~という女性店員の軽やかな声が響いた。
恐ろしさに振り向くこともできず、紅茶地獄から復活した彼女と密やかに視線を交わす。
ここで再び栄養指導が始まるのだろうか。自らをダメ人間にするため、あえて高カロリーのものを摂取しに来ている他の客にとってはひんしゅくものだろう。この旦那さまなら出禁覚悟でやってのけそうな気もするが。
コホンと咳払いした彼女が『ケーキ、選んでる』と口パクで教えてくれた。
え、と思ってチラリと見ると、イケメンが先ほどの奥さま同様、顎に手を添え確かにケーキを選んでいる。
ドリンクもオーダーし、案内を断り、彼は静かに靴音を鳴らしやって来た。
しょんぼりと項垂れる奥さまの顔が、旦那さまの背に隠れる。
あ、そうか、仕事中だよね……とグレーの背中を見守った。わざわざ抜けてきたのか、大丈夫なのだろうかと他人事ながら心配になる。
「和樹さん……どうして……」
「鉄平くんからメッセージをもらいました。君が学校横の道路を自転車で突っ切っていくのを見たけど、大丈夫なのかと」
「う……」
「行き先はすぐに見当がついたよ。この店がオープンするの、聡美さんから聞いて楽しみにしていたもんね。先週の休みは検診だったし、僕は一緒には行けないと言ったから、行くなら今日だろうと思いました」
「……ごめんなさい」
「ケーキやアイスは栄養士さんと相談して二週間に一度と決めたんだから、今日から二週間我慢するのならそれでいいです。でも自転車はダメだよ。事故が起きてからでは遅い」
「はい……」
「体は何ともない?」
「大丈夫です……」
思ったより平静なやり取りで拍子抜けしてしまった。
この甘さゆえ、奥さまは羽目を外してしまうのではないかと考えたが、余計なお世話かと皿のすみに落ちた紫の粒をフォークで刺す。
やや緊張した面持ちの店員さんが、石川夫妻のテーブルに彼のオーダーしたものをセットしていった。「ごゆっくり」の言葉がけに「どうも」と柔らかな返しがある。奥さまは黙っていた。
受付ではじめて彼を見たとき、あまりのイケメンっぷりに舞い上がり、新人以上にうろたえたことを思い出す。けれど、となりに佇む奥さまが、ほんわかと優しい空気をまとっていて、ふたりが睦まじく微笑みあうのを眺めるうち、親しみを感じるようになり、自然に対応できるようになった。奥さまの存在が、彼のオーラをうまく中和してくれたのだ。
しかしながら今の奥さまは捕らえられたウサギ。
彼女の表情が見えなくなったため、自らもウサギになったつもりで耳をそばだてる。盗み聞きするつもりはないけれど、でもだって、この距離じゃ聞こえちゃうしね? と自分自身に言い訳をしながら。
「君の、すごいクリームの量だな」
苦笑しているのか旦那さまの肩が震えた。クリニックにいるときとはまた違った印象だ。
「……和樹さん、大丈夫なの? 人目のつくところでは、あまり私と一緒にいない方がいいんじゃないの?」
消え入りそうな奥さまの声。
突然雲行きがあやしくなる。
旦那さまと背中合わせになっている連れの眉がピクリと跳ねた。
ほらね、完璧なイケメンなんていないんですよと険のある顔つきになったのを、まぁまぁとジェスチャーでなだめる。
一緒にいるところを見られるとまずい関係……。
真っ先に思い浮かんだのは不倫という言葉だった。
いやでも彼女は本妻だし、クリニックではラブラブで……え、仮面夫婦? 愛人が本命? などと考えながら、額に浮かぶ変な汗を拭う。
何か事情がありそうだけれど、これ以上話を聞くのはまずいのではないかと感じはじめた。
向こうがこちらの存在に気づく前にそっと退席すべきか、しかし今は動かない方がいいかもしれないと思案しながら、もったいないのでとりあえずパイは詰め込む。
連れの目は、他人の夫の不貞にチョップを入れる隙を伺い、らんらんとしているから、急ぐ必要はないかもしれないが。




