390-1 とある応援し隊員の思い出話・Case14(前編)
前話「389 雨上がりの虹」の続きのお話ですが、これ単体で読んでもOKです。
和樹さん、ゆかりさん、なんて昭和のええとこの夫婦みたいな呼び方で、かわす言葉の半分以上が丁寧語。
チラリと確認した住所から、そこそこ良い暮らしをしていることが伺えるものの、気取った様子もなく、いつも日向ぼっこしているみたいにポカポカした雰囲気を醸し出しているその夫婦は、久しぶりに、ふたりそろってクリニックにやって来た。
通院二回目にして旦那さまが奥さまをお姫さま抱っこして登場し、待ち合いをどよめかせたお騒がせ夫婦でもあるけれど、それ以降は静かなもので、しかしながら率先して受付に立ち、うさ耳のついた母子手帳ケースを取り出したのは旦那さまだった。
「石川です。よろしくお願いします」
「こんにちは。ええと……石川さん、本日は父親学級も参加される予定ですね」
「はい」
「お掛けになってお待ちください。奥さまは血圧と体重を計ったら採血もありますので、検査室へどうぞ」
「はいっ」
旦那さまの二歩後ろで控えていた奥さまがひょっこりと顔を出した。スカートだったり、スリムなパンツスタイルだったり服装はその時々で違ったけれど、今日は明らかにマタニティ用と思われるワンピースを着ていた。いくら細身でもそろそろお腹が目立ってくる時期である。ちょうど切り替えどきだろう。もともとほんわかとした人だけど、お顔も少しふっくらとして、ますます優しげな印象になった。
ニコリと微笑みあって分かれるふたりの空気に鼻先をくすぐられる。旦那さまの手にはいつの間にか奥さまの鞄がぶらさがっていて、アイコンタクトで通じる彼らは今日も素敵だ。
開院して四年目となるこのレディースクリニックは、スタッフ全員女性であることが特徴のひとつとなっている。規模は小さいながらも産科・婦人科・不妊症外来・化学療法室と、思春期から老婦人まであらゆる年代の女性の心と体をサポートすべく、経験値五年以上の中堅からベテランまでのスタッフが集められ、個々の希望に沿った質の高い医療と、きめ細やかなケアの提供を志している。
私は事務歴九年。ホテルのようなラグジュアリーなクリニックで働いたこともあるけれど、ここのアットホームな雰囲気もなかなか良かった。特に産科は、子連れだったりシングルだったりさまざまなタイプの妊婦さんが、気兼ねなくゆったりと寛げる仕様になっている。
奥さまが検査室に入ったのを見届けてから、彼は近くのソファに腰をおろした。今日は休みを取ったのか、いつものスーツ姿ではなく、水色のシャツが爽やかで眩しい。
サラサラヘアに凛とした切れ長の瞳。肘掛けに腕をのせ長い脚を組み、分厚い書物をめくる姿は知的だけれど、鍛えているのであろう引き締まった体と、なめし革のような肌は少し野性的で、男の色気が匂い立っていた。いったいどんな二世が誕生するのか。想像せずにはいられない。
思わず見惚れていると、視線がバッチリ合ってしまい慌ててうつむく。数秒こちらを窺う気配があったけれど、パソコンに集中するふりをしていると、無害と判断されたのか彼は再び膝の上に視線を落とした。
ああ、びっくりした……。
業務に戻りつつ、横目でそっと盗み見る。
彼が読んでいるものと同じ書籍がドクターの本棚にもあると教えてくれたのは、同時期に入職した外来担当の助産師さんだった。一冊、数万円はするらしい。
父親学級の事前アンケートで“出産や育児についてどのようなものから情報を得ていますか”の問いに、医学書や専門誌のタイトルをズラリと並べ、スタッフをざわつかせたのが彼だった。しかも妊娠初期の父親学級で、へその緒を切るタイミングや後産の処置について質問し、百戦錬磨の助産師さんたちをどん引かせたのも彼である。
「自分でベビーを取り上げることも想定しているみたいなの。あらゆる事態に備えなくてはならないからって、真顔で言ったのよ。意味わかんないんだけど」
「やだー! 私、石川さんちのお産入りたくない! 旦那さん立ち会うんですよね?」
「スムーズにいけば問題ないだろうけど、トラブったら面倒そう……。奥さんから離れなさそうだし、私たちの動きもさりげなくチェックしていそうだね。主任あたりに対応願いたいわ。奥さんはふつうにいい人なんだけどなぁ……」
「主任なら大丈夫かも。パンチパーマで威圧感あるし、旦那さんもきっと強くは出られないですね!」
「とにかく安産であることを願う」
母体とベビーの安全を最優先する彼女たちにとって、夫の容姿など二の次なのだ。どんなに見目麗しくとも、そもそもすでに他人のものであるというのもあるけれど、彼女たちが重視しているのは夫の理解力や適応力、妻に対する思いやりの心、そして実質的なサポート力である。
長引く陣痛に苦しむ妻を置き去りにして「付き合いきれんわ」と廊下でポータブルゲーム機をいじり始めたり、オロオロし過ぎて妻の不安を煽ったり怒りをかったり、スタッフに「こんなに苦しんでるんだぞ、何とかしろ!」と怒鳴ってきたかと思えば血を見て卒倒したり、マザコンだったり不倫相手が乗り込んできたり……とまぁさまざまなイケメンを見てきただけに評価は辛口になりやすい。
「石川さん……知識だけの人じゃないといいけど……。理屈っぽい人ってクールで、そばにいるにもかかわらず奥さんは寂しい思いをしたりするのよね。逆に父親学級ではよくわからんって顔してた人の方が、一生懸命奥さんの腰を擦ったり……。ああいうのはいつ見てもジーンときちゃう。トラブルが起きたときや辛い決断をしなきゃならないとき、涙目で気丈に振る舞おうとする旦那さんも。人は見た目じゃないし、頭の良し悪しも関係ない。あったか~い心を持っているかどうかなのよ」
「出産も、ある意味極限状態の出来事ですからね」
父親教室の後、ホールの片付けを手伝ったとき耳にした助産師さんたちの会話だ。階上の現場では日々色々なことが起こっているんだなぁと改めて考えさせられた。
もういい年なので見た目がすべてじゃないことは承知しているが、それでもイケメンは目の保養になった。見るだけなら害はない。さて彼らは出産でどのような夫婦の姿を見せるのだろうと想像していると、ブラウスの袖を捲ったままの奥さまが腕を押さえて戻って来た。旦那さまが荷物をよけて、彼女の座るスペースを作る。ふたりで止血パッドを確認し「もう止まったかしら?」「うん、大丈夫じゃないかな」という微笑ましいやり取りが行われる。
「……ゆかりさん、大丈夫? 顔色がよくない」
「え、そうですか?」
「さっきまで何ともなさそうだったのに……」
「だ、大丈夫ですよ!」
気遣い、包み込むような眼差し。うーん、惚れ惚れしてしまう。
褐色の手が白い肌に重なり、壊れものを扱うようにすりすりと動く。
奥さまが愛しくて、お腹の赤ちゃんを慈しんでいるのが伝わってくる。
いいなぁ。
ひとりの男性から、こんなふうに想われてみたい。
羨ましい! の一言につきる。
やがて彼らが診察室に呼ばれ、目の前を通り過ぎて行った。
ワクワクした様子で向かう旦那さまとは対照的に、奥さまは漬物石でも引きずっているみたいな足取りだった。
どうしたんだろうと見守っていると、奥さまが旦那さまの背中をそっと見上げ、気まずそうに目を伏せた。言い方は悪いかもしれないが、イタズラがバレたときの実家の犬みたいだ。
大丈夫かな……と気にかけつつ受付対応に戻ったものの、しかしその謎はすぐに解けた。




