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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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389-2 雨上がりの虹(後編)

「あの、ご自宅での和樹さんは最近どういったご様子ですか? 差し支えなければ……」

「え? いつも通り……あんな感じですよ」

 あんな感じ……つまり手厳しいということか。


「なかなか大変でしょう。彼の意に添うのは」

「ふふ、そうですね。優しいけれど頑固で生真面目で、こうと決めたら一直線な人なので、ちょっと困ってしまうこともありますね」

「ごもっとも……」

「でも、私には想像できないくらい周りをよく見ていて、その人たちのことを考えていて、あんなに情熱をもってお仕事に取り組めるのは素晴らしいことだと思います。夫婦とはいえ、なかなか一緒に過ごすことはできないけれど、そんな彼の妻でいられることが、私は嬉しいです」

「は……」

 和樹さん……、あなたこんな素敵な奥さんに恵まれていながら何てことを……。

 仕事さえ完璧であればプライベートに口は挟まないつもりだったが浮気はいけません。

 この方を大切にするべきですよ和樹さん。生まれてくるお子さまのためにも。


「あっ、見てください長田さん。虹! きれいですねぇ」

「そうですね……」


 ◇ ◇ ◇


 八十メートルほど直進して角を曲がると直ぐに近代的な外観の建物が現れた。

 一見すると、どこかのデザイン事務所のように思えるが、外壁にレディースクリニックと英語で刻まれている。駐車場は四台しかない産院だった。

 総合病院ではないのだな。

 和樹さんのことだ。一般の個人病院を選んだのも、何か考えがあってのことに違いない。


「ここなんです。どうもありがとうございました」

「いえ。こんなところにクリニックがあったとは。喫茶いしかわからは近いようですが、ご自宅からは少し距離があるでしょう。こちらに決めたのは和樹さんですか?」

「はい、そうです」

 やはり。


「ここならスタッフ全員女性で、男性の研修医の先生が出産に入ることもないからって……」

 ……んん?

 我が耳を疑う。

 スタッフ全員……女性?

 研修医……?

 いやいやいや、そんなの建前上の理由に決まっているだろう。

 あの彼が、男性スタッフに妻を診せない触れさせないなどのエゴイズムを発動し産院を選り好みするなどあり得ない。


 頭を振って脳内を整理していると、耳慣れたエンジン音が響いてきた。

 奥さんと思わず目を合わせる。

 おそらく互いに顔色を失っていただろう。

 やましいことなど何もしていないはずなのに鼓動が速まる。

 前方から迫ってくる白い車が自分たちの前を通過した。すれ違いざま、氷のような視線で射ぬかれる。

 クリニックの駐車場にピットインするかの如く滑り込んだ車の中から、朝と同じく不機嫌な顔の上司が現れた。


「どういうことだ、長田? なぜ君がここにいる?」

「い、石川さん……」

 つかつかと距離を詰めてくる圧に押され後退る。

 浮気じゃなかったんですねなどと言おうものなら即右ストレートが飛んできそうな勢いだった。


「和樹さん、私今日は一人で大丈夫って言ったのに」

 彼女が一歩前に出る。

 なんと勇敢な女性だ。

 ジャングルで野生のゴリラと女性研究者の出会いを見ているようだった。


「………ゆかりさん。僕は知っているんですよ。今日は父親学級の日ですね。あなたが教えてくれないから自分で問い合わせをして予約を入れました。健診のあと、もちろん貴女も一緒に参加してもらいます」

「ええっ! そんな!」

「貴女がなんと言おうと僕は出産に立ち会うつもりで準備をします。ちょうど今日あたり予定日もわかるでしょう。出産までに必ず貴女を説得してみせますから」

 奥さんが真っ青な顔で振り向いた。

 いや、そんな顔されましても……。


「なんでそんな勝手なことするんですかぁ」

「なんで? 何度も言ってる。夫婦なんだから妻のサポートをするのは当然だろ」

「だからっ……夫婦だから何でもアリな訳じゃないんです! 私は恥ずかしいの! 陣痛で自分がどうなるかもわからないのに、取り乱してボロボロになった姿をあなたに見られたくありません! 和樹さんに幻滅されたら嫌だもの」

「僕が君に幻滅するわけがない」

「もおぉぉっ……」


 奥さんが頭を抱える。

 もしかしなくても上司の不機嫌の理由はこれだったのではないか。

 出産に立ち会いたい夫とご遠慮願いたい妻の攻防。


 先日の大立ち回りのようなプレゼンの風景が甦る。

 すごい……この人は、立ち会い出産を断られただけで、あんな一切逃げ道のない追い詰め方をするのか。


「……和樹さん。父親学級は全部で三回あるんですよ? 妊娠中期と後期にも一回ずつ。あと二回参加しないと立ち会いはできないんです。ほんとに全部、指定された日時に参加できますか?」

「それは……」

 和樹さんがこちらを見た。

 いや、そんな顔されましても……。


「……なんとかします」

「ぜっっったい、無理です」

「そんな風に決めつけないでください。僕らの子なんだよ? 僕だって君と一緒に子どもを迎えたい気持ちがあるんです。大丈夫。僕の部下は優秀だから」


 こんな時だけこの人は……だがしかし、妻を見つめる上司の瞳は見たこともない色を湛えていた。

 そうか……この人は自分の妻となった人に、未だ焦がれているのだな。


「和樹さん。お言葉ですが、今回の件についてあなたは奥様のことをほとんど話されないので情報がなさすぎます。できる限りサポートはしますが、和樹さんからももっと現況の説明を……」

「は? なんで君にゆかりさんのプライベートな話をしなきゃならない?」

 なんでって……出産に立ち会いたいというあなたの予定の調整ができないからでしょうが。


 それにまぁ、なんだってそんなにカリカリしているんですか。妊娠してホルモンバランスが崩れているのは奥さんの方ですよね?

 私情でこちらにきつく当たるのは迷惑なのでやめて頂きたい。というか未だに奥さんに敬語を使っているんですね。我が儘放題に見えて頭が上がっていないじゃないですか。あなたを知る会社の人間が見たら腰を抜かすでしょう。

 とは、死んでも言えない。


「……勝手ながら、自分もお二人のお子様の誕生を楽しみにしております」

「……」

 和樹さんが一瞬目を見開いた。それから複雑に顔を歪ませ、奥さんの腰にそっと手を添える。奥さんは耳を赤くしてうつむいていた。

「まぁ……、生まれたら報告するよ」

 生まれたらって……この先八ヶ月、何も言わないつもりかアンタ。


「それはそうと、君はなぜここに?」

 そして冒頭に戻る。

 しおらしくしていた奥さんがばっと顔を上げてこちらを振り向いた。

 それに気づいた和樹さんが「ゆかりさん?」と訝しむ。


 自分は上司の質問に嘘はつけないと先程言った。

 さてどうするべきか。正直この夫婦のやり取りを眺めていたら、色々なことがどうでもよくなってくる。


「ええと、実は公園で足がグキッとなりました。痛くて休んでいたら、たまたま通りかかった長田さんに送ってもらって……」

 奥さんが先に口を開いた。

 この夫に隠しごとは通用しないと悟っているのだろう。潔い自白だった。

 そんな彼女を見下ろして、上司が深いため息をつく。


「喫茶いしかわに迎えに行くと言ったのにあなたはいなくて。病院に行けばまだ来てませんと言われるし、電話にも出ない。家にも戻ったし探したんですよ? 僕を避けるつもりでルートを変えましたね。まったく、あなたという人は……」

 やれやれと苦笑した上司が徐に奥さんを抱き上げた。


「ひゃああっ! 何をするんです!?」

「暴れないで。病院の前ですよ、静かに」

「むむむ無理です! おろして!」

「ダメですねぇ。だって足を挫いたんでしょう? 妊婦さんなのに。僕から逃げるために走りましたね?」

「は、走っては……いないです……。電話はマナーモードにしていたから……」

「ほぉー…、逃げたことについては否定しないんですね」

「うっ……それは……」

「じゃ、そういうことで」

「どういうことで!? いやぁぁっ! やめてください! おろして!」


 妻を姫抱きにしたまま、つかつかとエントランスに向かう上司に唖然とする。

 愉しげに奥さんの顔を覗き込む和樹さんは頬が緩みっぱなしだった。手を焼かされて満更でもないのか、そのまま頬擦りでもはじめそうな勢いで見ていられない。


「なっ、長田さん! 助けて!」

「無理です」

 思わず即答してしまった。

 キングコングの花嫁を助けることなど自分には不可能だ。


 自動ドアのセンサーが届く手前で和樹さんが振り返った。

「君の部下に喫茶いしかわにあまり出入りするなと言っておけ。そんな暇があったらまともな調査報告書の作り方でも勉強しろとな。毎回毎回、匂いの強いフードばかり頼みやがって……。ゆかりさんはつわりの真っ最中だぞ? 少しは自重しろ」

「は……ええ!?」

「誰の話……? というより和樹さんなんでお客さまの注文内容まで知ってるの……?」

「ゆかりさんは知らなくていいことです」


 和樹さんが一歩踏み出した。

 ウィィィンと開いたドアの前で、奥さんの気がまたそちらに向けられる。

 受付の女性と目が合ってしまったのだろう。

「ひっ!」と髪の毛を逆立てた。


「……立ち会い出産とどっちが恥ずかしいだろうね、ゆかりさん?」

 和樹さんが、悪魔のように微笑んで、囁く。

「わかった! わかりましたからぁっ~!」

 と、叫ぶ奥さんと共にドアの向こうへ吸い込まれていった。


 奥さんの落としていった傘が足元に転がっていた。

 水色に白のドット柄。

 どこにでもあるような何の変哲もない傘。

 それなのに彼女の持ち物だと知っているだけで、幸せのお裾分けをしてもらった気分になるのはなぜだろう。


 だがしかし、このまま持ち帰ったら間違いなく殺されるのだろうな。

 だって彼女の夫は独占欲の塊、鬼の和樹。

 妻を愛してやまない我が社のエース。


 産婦人科に踏み入るのは勇気がいるが致し方ない。

 傘をお忘れですよと声をかけた後は、直ちに部下に連絡をとって釘を刺さなければ。


 犬も喰わないやつに巻き込まれた長田さんでした。


 翌日以降に改めて、確実に父親学級に参加したいなら予定調整は必須ですから、ちゃんと情報を回してくださいとお説教。

 普通の会合や客先訪問の都合をつけるのはもちろん、部下たちが勝手に宿泊出張ぶっこまないようにとか、お偉方が集まるだけで中身のない長~い会議に強制参加させられないように根回しとか。

 どうしても外したい時間を狙ったように無駄だけど調整できない予定が入るのってあるあるじゃないですか! 知らなければ回避のご協力もしようがありません! と。


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