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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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389-1 雨上がりの虹(前編)

 ゆかりさん妊娠中の、長田さん視点のお話。

「長田、この調査報告書、書き手の主観が入ってるな。憶測も推理もいらない。僕はあくまで事実に基づいた情報が欲しい。作り直せ」

「は……」

 目の前にパサリと置かれた書類。昨夜突然、上司からこの件に関する情報をすべて出せと言われた時から突っ込まれるのは覚悟していた。


「最近、君の下についたヤツだな。僕に回す前にチェックしなかったのか? 新人じゃあるまいし、まさか報告書の書き方まで指導が必要になるとは思わなかった」

「はい……、申し訳……」

 まさかあなたがこの件に興味をもつとは思っていなかったので、指導は後回しにしていましたとは口が裂けても言えない。


 日頃から厳しいことをズバズバ言ってくるこの上司、叱責のあとのフォローも(してくれる時は)完璧なのだが、近頃すこぶる機嫌が悪い。

 そうなると的確な指導もただの八つ当たりに思えてしまい、かつその原因が掴めないこともあり、こちらはただ嵐が過ぎ去るのを待つばかりだ。


 上司の不機嫌は自然災害と同じで日頃の心構えと備えが重要となるのだが、そうか……調査報告書か……公式文書にする際は自分で作成し直すつもりだったから油断していた。

 おそらく上司が扱っている別件との繋がりを調べる目的だったのだろうが、まさに抜き打ち、石川和樹恐るべし。


「僕は帰る。明日までには手直しさせろよ」

「あ、明日ですか……。え、帰る?」

「なんだ、何か問題が?」

「い、いえ……。ではこの書類はお預かりします」

「あぁ、頼んだぞ」


 こんな状態で帰宅させて大丈夫だろうか……。

 遠ざかるグレーのスーツを見送り生唾を飲み込む。

 まさにキラーパスを渡してしまったような心持ちだった。

 自宅には最近妊娠が発覚し、つわりで弱っているという奥さんがいるというのに。


 結婚しようが子どもができようが彼の仕事内容は変わらない。

 むしろ上層部に結婚が足枷になったと思われぬよう、これまで以上に務める必要があった。


 そのような現状を、当人がどう捉えているかなど知るよしもない。相当なプレッシャーだと思われるが、自分のような凡人とは違う視点で物事を視ている人だから、余計な心配なのかもしれなかった。

 それに最近の彼は妻の話をほとんどしない。こちらが体調を気遣い密やかに声をかけても「つわりはあるけど、まぁ元気だよ」と素っ気なく返されるだけだった。


 石川和樹の妻。大変だろうと思う。

 それこそ彼の外面だけに惚れているような女性なら、さぞかし痛い目にあうだろう。

 実を言うと石川ゆかりにそれ程の気概があるとは思っていなかった。和樹さんには申し訳ないが、もって半年……一年も経てば奇跡とさえ思えるほどの推測だった。


 それでも結婚して一年が過ぎ、ようやく子どもが授かって、幸せ真っ只中と言ってもおかしくないこの時期。和樹さんもさぞかし喜ばれているだろうと思っていたのだが……。

 今日のような不機嫌さやちょっとしたしぐさの荒々しさを目の当たりにすると、思わず勘繰ってしまうのだ。

 その原因は、夫婦関係にあるのではなかろうかと。



 ◇ ◇ ◇



 草木を潤すように降り注いでいた雨が上がり始めた正午、とある公園の屋根付きベンチに腰かけている女性の姿が目に入った。


 傘をさしていたら気づかなかったことだろう。

 雨露の残る地植の紫陽花が手鞠のように咲き誇る中、白いワンピースにクリーム色のカーディガンを羽織った和樹さんの奥さんがぼんやりと景色を眺めていた。実物を見たのは数ヶ月振り。以前より髪が短くなっている。

 普段なら遠巻きに眺めて終わるところだが、近頃の上司の変化に加え、どこか憂鬱そうに見える彼女の様子を慮ると、ただ通り過ぎるのは憚られた。


「……お久しぶりです」

 正面から近づいて声をかける。

 細い肩が小さく跳ねた。いつもは表情の華やかな瞳が怯えたようにこちらを捉える。


「な、長田さん……」

 驚かせてしまった。

 そのまま距離を保つべきかと悩んだが、上司の妻を見下ろすのも心苦しい。かと言って隣に座るのは以ての外と悩んでいると、彼女の方が立ち上がった。


「いつも主人がお世話に……アイタタタ……」

「だ、大丈夫ですか?」

 目の前でよろけた彼女の肩をとっさに支える。

 思ったより華奢な骨格が手のひらから伝わった。

 それと同時に不機嫌な上司の顔が頭をよぎる。

 もしかして、今、自分は触れてはいけないものに触れてしまったのではないか……。

 どっと冷や汗が出る。

「あの、自分に構わずおかけください」

 と、再び着座してもらった。


「すみません。実はその、足を挫いてしまいまして」

「えっ」

「あそこの段差で滑ってグキッとなってしまったんです。このパンプス靴底ツルツルだったんですよねぇ……。痛みが引くまで休んでいたところでした」


 のほほんとした笑みは相変わらずだった。つわりと言っても痩せこけた印象もなく前回見かけた時とそれほど変わっていないように観察される。憂鬱な顔は単なる足の痛みからくるものだったのだろうか。思わず視線を下げるときゅっと締まった白い足首にうっすらとした血管の走行が浮かび上がっている。女性の足首とは、こんなに頼りないものだったのか……。


「……長田さん?」

「あぁいえ、失礼。腫れてはいないようですね。しかし大事をとって病院に行かれた方がいいのでは」

「あ、いえ、そこまで酷くはありません」

「ですが……」

「長田さんはその……赤ちゃんのこと知ってるんですよね?」


 突然話題が変わってぎょっとする。

「はい、六週と伺っておりました。あれから半月は経ちましたか……。この度はおめでとうございます」

「ありがとうございます」

 穏やかな微笑を浮かべる彼女は幸せそうに見える。

 先ほどまでの上司とはまるで正反対で、ますます混乱してしまった。

 が、次の瞬間彼女の顔から笑みが消える。

 困ったように眉を下げ、こちらを窺うように声をひそめた。


「もしかして、長田さんがこちらにいらしたのは、主人の命令ですか?」

「え?」

 不穏な空気が漂う。

 キョロキョロと辺りを見回す彼女は、明らかに周囲を警戒していた。

 和樹さんからは何も情報がもたらされていないが、もしや何者かに付け狙われているのだろうか?

 まさか和樹さんも気づいていない……?

 無意識にスーツの裾を握りしめる。


「自分は仕事の都合で偶然通りかかりました。和樹さんの命令とは、いったい……」

「あ、違うならいいんです。ただ……それなら私が足を挫いたこと、彼には内緒にしておいてもらえませんか?」

 なんと……彼女が警戒しているのは夫である和樹さんなのか?

 心配をかけたくないという意味なのか、不注意を責められるという意味なのか判断がつかなかった。どちらもあり得ると言えばあり得るが、残念ながら彼女と約束はできない。どんな些細なことであろうと自分は和樹さんに隠し事はしない。和樹さんからの信用を失うことは死活問題となるからだ。


 じっと見つめられると怯んでしまうが逸らさずに踏ん張っていると、彼女が諦めたように俯いた。聡い女性だ。


「……和樹さんから聞かれないうちは、黙っておきます。ただ、彼からの質問に自分は嘘を返すわけにはいきません」

「はい、それで充分です」

 緊張を解いた彼女がゆるゆると立ち上がった。

 今度はふらつくことなく頭を下げるが重心がずれている。痛む足を庇っていることは和樹さんでなくとも気づくだろう。


「それでは私はこれで」

「ちなみにどちらへ? 近くに車があります。よければお送り致します」

「いえ、すぐそこの病院なので大丈夫です! 今日は妊婦健診で、喫茶いしかわからお散歩がてら歩いて来たらドジッちゃって、嫌ですね」

「あ、仕事は続けているんですか?」

「はい」

 さすが石川和樹の妻。妊娠中でも甘えは許されないということか……。


 それにしても、昼前に帰ると言った和樹さんがこの場にいないということは、やはり夫婦仲に問題があるのでは。

 一応恋愛結婚だし夫としての義務は果たす人であろうから、時間が合えば同行しそうなものだが。

 はっ。

 まさか浮気……?

 いや和樹さんに限ってそんな……。


 だが和樹さんにその気がなくとも、女性の方からホイホイ寄ってくる現象を何度も見たことがある。

 しかも妻の妊娠中は夫の浮気率も上がるという。

 最近奥さんの話をしなくなったのはそのせいか?

 いやでも妊娠二ヶ月で浮気なんて早すぎるだろう。中期や後期ならいいというわけでもないけれど。

 自分は彼のように女性の扱いに慣れていないが、そうでもなければ、仕事でもないのにつわりの妻を一人で病院まで歩かせたりしないはず。

 ……不憫だ。


「病院の前までお供します。まだ痛いのでしょう?」

「ええっ、お忙しいのにそんな。和樹さんに叱られてしまいます」

 和樹さん……。


「大丈夫です。上司の奥方をお護りするのも自分の務めですから」

「奥方……」

 赤くなった彼女が照れ臭そうに頬に手をあてた。

 胸が痛む。


 傘を杖代わりにして歩きだす彼女の半歩後ろに付き従った。

 上司の妻とはいえ、どのように接したらよいか少々戸惑う。

 こんな時、やはり話題となるのは和樹さんだ。

 よし、少し探りを入れてみるか。


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