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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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385 ゴロゴロタイム

 例の「彼」が再登場です(笑)

 

 肌寒い日だった。

 薄手のセーターに革のブルゾンを羽織っても、開いた首元に入る風が冷たい。

 昼間は陽も出て暖かかったらしいが、あいにく前日の残業のおかげで、今日の和樹は昼過ぎまでベッドの中だった。喫茶いしかわのシフトが午後からの日はいつもそうだ。

 寝られる時にちゃんと寝てください、と元々剣呑な目付きをさらにしかめて言う長田の顔が脳裏に浮かぶ。言ってることはまともなんだが顔がなあ、とわざと呑気なことを考えて、頭のスイッチを切り替えた。


 今日の出勤先である喫茶いしかわが近づいてくると、店の軒先に誰かが屈み込んでいるのが見えた。

 背中を向けてはいるが、細い肩にかかるくせのない髪、腰の後ろで結ばれたエプロンのリボン。蝶結びが少し斜めになっている。

 屈んだその人の足元には、ふっくらと丸いものが見える。


「ゆかりさん」

 意識して、少しだけ高めの声色で呼びかけた。

 年下の先輩店員、石川ゆかりは、ゆるい風に乱れた髪を直しながら、肩越しに振り返った。寒さのせいか、鼻の頭が少し赤い。

 その隣に、一緒になって屈み込む。

 ゆかりの前、というより、彼女が置いた皿の前に蹲った、黒地に白い靴下模様の猫は、ちらりと顔を上げただけで、すぐにまた食事を再開した。とはいっても、残りはもう二、三口というところに見えるが。


「和樹さんナイスタイミング! ちょうど靴下にゃんこくんのゴロゴロタイムです」

「え、今触っても大丈夫ですかね」

 和樹は自分で、わりと器用で様々な物事を知っているほうだと考えている。

 だが猫の扱いに関しては完全に素人だ。手を出す前に屈んで視線を低くしたのも、ゆかりに「猫は上から声をかけられたり触られたりするのが嫌なんです!」と言われたことがあるからで、それ以来従っているのだ。


 膝に置いていた腕を伸ばす。

 靴下にゃんこにじっと見られているのですぐに引っ込めたくなったが、ゆっくりと近づけると、自分から鼻先を寄せてきた。熱心に匂いを嗅がれるのが少し落ち着かない。猫チェックです、触ってもいい人かどうか審査してるんです、と、昔実家に猫がいたというゆかりは言っていた。


 彼女は年下だが、喫茶いしかわでは先輩だし、猫に関しては大先輩だ。職場では他の追随を許さない成果を上げるほどなのに、女の子に言われるままハイハイと猫の撫で方を教わっている。

 なんだか意味がわからなくて面白いが、少し、こういうのも嫌いじゃないと思う。なにしろ仕事に戻れば考えて手を動かすことが山積みで寝る間もない。気を抜ける隙など一瞬もないと思うほどに。

 散々匂いを嗅いでようやく許可をくれた靴下にゃんこの顎の下に指先を潜り込ませながら、「癒やされるなあ……」とつい声に出していた。毛並みももちろんだが、この空間や環境にだ。


「ふふ、ご満悦ですね」

「あぁ、でもそろそろ中入らなきゃ」

「もうちょっとくらい大丈夫よ」

「せっかく時間通りに来たのに」

「今日は……許可します! 靴下にゃんこくんが」

「そんな権限持ってたんですね、この子」

 首だけを伸ばして窓から店内を覗くと、テーブル席には誰もおらず、カウンターをマスターがゆっくり拭いているところだった。


「ゆかりさん、休憩中ですか?」

「いえ、お客さんが途切れたので、外を掃きついでに」

 最後まで言わずに、靴下猫の頭をぽふぽふと撫でる。ついでに靴下にゃんこのご飯を持ってきた、ということだろう。

 猫の心地よい触り方を心得ているのか、意外と雑な手付きにも、彼はご機嫌に目を細めた。頭を上下からサンドされたままだが、それがいいらしく、顎を撫でる手に喉の振動が伝わってくる。


「今日、少し風あるし、結構冷えるよねえ」

「そうですね。靴下にゃんこ、寒くないのかな」

「こんなにもふもふだし、暖かい場所も知ってるんじゃないかしら」

 ねー、と猫の顔を覗き込んで、ゆかりが言う。


 話しかけられた、と思ったのか、目を開けて鼻を上げた靴下にゃんこが、ずっと丸めていた体を持ち上げた。自然と顎から手が離れたので、ちょうどいいかと、一緒に立ち上がる。

 だが、とっくに空になっていた餌皿に手を伸ばしたゆかりの膝に、靴下にゃんこは前足をかけて、そして。


「えっ、ちょっと、靴下にゃんこくん?」

 しゃがんだゆかりの膝に飛び乗った靴下にゃんこは、すばやく腰を落ち着けて、前足を畳んでしまった。

 彼女の細い膝にはお尻が収まりきっていないが、顔は満足げにすましている。まるで、「もう落ち着いちゃったからね」と言わんばかりの頑なな表情だった。


「そこで寝ないでよぉ」

 ゆかりがふわふわの背中をつつきながら言う文句に、思わず「ふ」と笑いが漏れる。


「ほんとだ、靴下にゃんこ、暖かい場所知ってるみたいですね」

「ここはだめよ、仕事戻らなきゃ」

「ちょっとぐらいサボっても大丈夫なんじゃないですか? 今お客さんいないし、靴下にゃんこのお許しも出てるし」


 先ほどのゆかりの言葉を引き合いに出せば、「もぉ」と呟きながら、立っているこちらを仰ぎ見るように顔を上げた。それがあまりに困った顔で、ハの字になった眉と、赤くなった鼻と、狼狽えた垂れ目が見上げてくるのが、あまりにかわいくて。

 ゆるみまくっているのを隠すように、握った手を口元に持っていく。

 笑ってしまっているのはバレているだろう。唇を尖らせたゆかりの顔に、「ニヤニヤしてないで助けて」と書いてあるようだった。


 あぁ、もう、癒やされる。

 靴下猫の丸すぎる座り姿にも、ブレンドコーヒーの香りにも、この穏やかな空気にふさわしくない心臓の動きにも。

 泣きたいぐらい緊張が解されて、何も言わずに笑ったふりをしながら、勤務時間ぎりぎりになるまで、ゆかりに手を貸せずにいた。




 ゆかりがやけに外を気にしていると気付いたのは、カウンターに入って二時間ほど、おやつ時とディナータイムの間の、一日のうち最も客足の引く時間帯だった。

 テーブルを拭きながら、汚れた食器を下げに戻って来ながら、厨房でグラスを磨きながら、窓の外にちらちらと視線を送っては困ったような思い詰めた表情を浮かべるのだ。

 気にかけつつもディナータイムの忙しさにままならず、そのまま閉店時間になってしまった。


 レジ閉め作業をするゆかりに声をかける。

「ゆかりさん、看板しまってきますね」

「おねがいします、……あ!」

 カウンターにいた彼女が、切羽詰まった小さな悲鳴を上げた。


 振り返るのと同時に、背中に軽い衝撃を感じる。走り寄った勢いのまましがみついたのだとわかったのは、旋毛を見下ろしながら三秒も考えてしまってからだ。

 その頭が動き、上を向いて、上目遣いに見上げてくる。


「和樹さん、だめ、待って」

「え、あの」

「行っちゃだめ」

 泣きそうな顔をしていた。

 ほとんど囁くような頼りない声。

 縋る手に、きゅ、と力がこめられる。

 情けないことに、心臓が燃えそうなほど逸っていた。


「ゆかりさん」

「今開けたら……」

 ゆかりがゆると視線を和樹から外し、シャツを握っていた手を上げて、窓の外を指差す。「え?」と声が出た。


「今開けたら、そこにいるおっきな蜂が入ってきちゃう!」


 肩を抱きかけた手を抑え溜め息もこらえ、苦笑いを貼り付けて蜂をやさしく追い払った演技は過去最高の出来だったと自分で思った。そういう子だとわかっているのにまんまとときめいてしまった間抜けさを差し引いてもだ。

 ついでにぐずぐずに緊張が解けてしまったせいで、夜間に控えていた本業の中でもかなり大きな現場に気負わずに臨むことができ、すべて滞りなく成功させることができた。


 そのまた翌日の昼にゆかりからの電話で起こされ、「大変なの! 出勤前にベーキングパウダー買ってきて!」という声に、事後処理に追われ三時間しか寝ていない疲れを大いに吹き飛ばされた話は、またそのうちに。


 和樹さん、ゆかりさんはこういう子だって、何度も思い知ってるはずなのにね(苦笑)


 それでもゆかりさんに頼られたシチュエーションはさぞかし妄想を滾らせるきっかけになったのではないかと。

 和樹さんの脳内がとっても忙しそうです(笑)

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