384 シーソーゲーム
和樹さんとゆかりさんがお付き合いを始めてわりとすぐの頃のお話。
日が暮れて間もなく、閉店間際の『喫茶いしかわ』に立ち寄った和樹は、コーヒーをテイクアウトで注文しつつ、ゆかりが一人で店を回していたらしいことに気付く。
「ゆかりさん、もう上がり?」
「はい。マスターってばわたしだけ残して自分は寄り合いついでに麻雀なんですよ。というか麻雀ついでに寄り合いなのかも。和樹さんも叱ってください!」
「僕で聞いてくれるかなあ」
「そこはチャレンジあるのみ!」
拳を握るゆかりも、あまり改善は期待していないのだろう。怒っているというより拗ねている、もしくはむくれている、という言葉が似合う表情は、相変わらず年齢より少し幼く見える。
和樹がかつて気分転換も兼ねてたまに働いていた喫茶店に客として足を運ぶようになったのは、昇進しデスクワークと現場の調整で会社へのカンヅメが増える中、知ってしまったコーヒーの味にとうとう我慢ならずふらりと立ち寄ってしまってからだ。
元店員ではあるものの、ただの常連客に戻った和樹へのゆかりの気遣いにわざとらしさはない。共に働いていた頃の接客態度や、和樹との会話のテンポを考えると、元々頭の回転が速いことは知っていた。相手への踏み込み方も彼女が纏う柔らかな空気も、計算ではなく自然とこなしてしまうゆかりの姿は同僚の頃からとても好ましいものだった。
だから、ここまで来てコーヒーを飲みたくなったのだと気付いたのはいつだっただろうか。
和樹は会計を済ませ受け取ったコーヒーに口を付けつつ、通りに面した喫茶いしかわのガラス窓を見た。ビルの間から見える空は、あっという間に夕陽の色を濃紺で塗りつぶしてしまっている。
「帰るなら送っていくよ。外、もう暗いし」
「大丈夫ですよ、和樹さんお仕事の途中なんじゃないですか?」
「いや、今から帰るところ」
ゆかりが問うのはもっともだと、和樹は片方の肩を竦める。
和樹が喫茶いしかわに立ち寄るのは大抵昼間の自主的な休憩の間、もしくは徹夜明けの夕方という睡魔に襲われる時間に備えて、眠気覚ましにコーヒーを飲みに来るときだ。だがそれも会議に次ぐ会議と、書類の山を片付けてひたすら判を押す作業を繰り返し、今日で一段落した。二、三日もすればまた状況は変わるだろうが、和樹が手を出さねばならない段階ではない。
ゆかりは勝手知ったるとばかりに前に立つ和樹に構わずレジを締めながら、眉尻を下げた。
「えー、わたし今日傘持ってないのに」
「あのねゆかりさん、僕もたまには常識的な時間に帰宅します」
「普段人間の時間じゃないって自覚してたんだ……」
「こら」
和樹が半眼で告げると、えへへ、とゆかりはいたずらを見つけられた子どものように笑う。この子が男に媚びるような笑みを浮かべることはあるのだろうか、と、和樹の胸中にそんな言葉が過ぎった。どうやら疲れが緩やかに頭を支配し始めているな、と和樹は息を吐いた。
和樹がねだられたものといえば、遠方での会議で土産はいるかと連絡した際に「おいしいお酒!」と元気良く返ってきたことくらいだ。おそらくゆかりが感じているだろう和樹に向ける親愛が心地よく、または少し居心地が悪いまま、『ただの元同僚』というにはゆかりの部屋に上がり込み、友人の真似事までしていた。
始めは心地良かったはずの『友人』関係は、和樹が一方的に落ち着かなくなっていった。それでも自分の方は何でもないように装っていて、結局ゆかりのあり方と自分の根底はまったく異なるのだと思い知らされた。
紆余曲折あってようやく彼氏彼女と呼ばれる関係を手に入れたわけだが、今のところ非常に残念なことに、彼女の気持ちの面はあまり以前と変わっていないような気がする。
……まあいい。今はわずかであっても彼女との距離を詰めていくことが肝要だ。
「どうせ車はいつものところに駐めてるから、ゆかりさんと方向は変わらないし」
「でも、今から片付けしますよ?」
「送られてくれないなら手伝ってから送るけど」
「なんですかその二択は! んもう……分かりました、ちょっぱやで終わらせるので座っててください」
和樹さん実は全然譲りませんよね、とやはりむくれながらゆかりが指さしたカウンターの端の席に和樹は再び腰を下ろし、密かに笑った。
喫茶いしかわで同僚の立場にいた頃から時おり使用するパーキングは、ゆかりの住むマンションからほど近い。ちょうど水曜ということもあってか、定時退社を義務づけられているサラリーマン達が普段よりも早く居酒屋に向かう流れに逆らい、和樹はゆかりと並び歩みを進める。
同僚の頃は共にクローズまでのシフトであったときに、スーツを着て再び常連客として喫茶いしかわに出向くようになってからは本当に稀に、こうしてゆかりと歩く。
いつもならばゆかりが最近の出来事や喫茶いしかわのことについて、にこにこと和樹へ楽しさを分けようとでもするように話すものだが、今日はゆかりが片付ける合間に話をずっと聞いていたせいだろうか――隙を見て手伝おうとした和樹に、ゆかりは目ざとく「ダメ!」とガードし尽くしたので大人しくその日最後の客として振る舞った――ふと、沈黙が落ちる。しかしゆかりも賑やかではあるが騒がしい娘ではないし、沈黙が気まずい関係でもない。
無理に話題を探すでもない、と和樹もゆるりと足を運んでいたその隣で、ゆかりが和樹を見上げ目元を緩めた。
「そういえば、お疲れさまです和樹さん」
いらっしゃいませ、しか聞いていなかったと気付いたのは、ゆかりにそう告げられたからだ。緩やかな空気の中で当たり前のように口にされた言葉に、和樹はありがとう、と反射的に応じる。続いた言葉は無意識だった。
「ゆかりさんのそういうところ、好きだな」
口から滑り出した、無自覚と自覚の間を漂うそれがぽろりと口をついたことに和樹は驚き、腕時計のある左手で口元を覆う。だが言葉は引っ込められるはずもなく、ゆかりは驚いたように目を丸くして、朗らかに笑った。
「わたしも和樹さん好きですよ」
ばしばしと背中を叩いてくるそれは親愛からのものだ。常連客や元同僚という立場以上に、ゆかりもまた和樹に気を許していることは判っている。例えば、彼女の兄や、友人のように。
じわりと染みのように広がった感情に、和樹は手のひらで覆った口の中で知らず奥歯を噛んでいた。
ああ、やはり疲れているのかと他人事のように思う。だから今の距離がゆかりを煩わせることがなく、一番良いことなのだと理解していても体が動くことを止められないのだろう。
手を放し、代わりにもう一方の手も持ち上げて足を止めた和樹を見上げるゆかりの両頬を覆った。男の手にすっぽりと収まってしまうつくりは柔らかく頼りないが、びっくり箱のような中身はもう知っている。
ゆかりのマンションに向かう細い路地は先ほどまでの通りと違い、行き交う人の姿はない。そのため一人歩きは危険だと送っているのだが、今はそれが好都合なのかその逆なのか、和樹にも判らなかった。
見開かれる瞳を見据えたまま、軽く身を屈める。瞳が大きく見えるのは黒目がちだからだろうと、口付けながら考えた。好きなものを見つめるときには瞳孔が開くのだと、知ったのはいつだっただろうか。
柔らかな唇を己のそれで食んで、離れる。やってしまった、と思う反面清々しくもあったが、ぽかんと自分を見上げたままのゆかりがじわじわと薄暗い街灯でも見えるほど赤面し、そのまま見つめていた瞳にあっという間に張った涙の膜がぼろりと崩れ落ちるところまで見つめて、血の気が引く音を聞いた。
「……すみ、ません」
みっともなく掠れていた自分の声に構う余裕もなく、和樹が怯えられるか、と内心危惧しながらゆかりの涙を拭うために伸ばした手に、ゆかりはまばたきをしただけだった。
「え、あれ!? わたし泣いてます!?」
「えっと、はい」
「うわー、ごめんなさい!」
ごめんなさい。とやはり内心動揺するが、ゆかりはまばたきをしながら拭われた目元を自分でも拭い、大きく息を吐く。
「びっくり涙出ちゃった」
「びっくり涙」
「出ません?」
「いや、僕はないけど」
一気に霧散した空気に安堵すればいいのか計りかねるまま、だが有耶無耶になることもここまで来ると本意ではない。軽く咳払いをして、ゆかりの目尻に残る涙の滴をもう一度親指で拭う。
「……つまり、僕の好きはこういうこと」
「えっ大丈夫ですか?」
「その反応は傷つく」
頭が。とでも言いたげな声に低く応じると、ゆかりはぴゃっと身を縮めた。つい先日、結婚を前提とした交際を了承させたはずなのだが。まったく、ゆかり相手では上手くいかない。
前髪を握りつぶすようにかき混ぜて、和樹は一歩ゆかりから距離を取った。マンションまではもう一分も掛からない。このままここで、帰る背を見送るつもりだが、その腕をゆかりが慌てた様子で掴む。
「ゆかりさん?」
「わたっ、しもですね。こういう意味です」
と、腕から離れた手が和樹のネクタイを掴む。そのままぐい、と引かれて和樹は再び身を屈めた。その唇の端にぎゅっと閉じられた唇が触れて、今度は和樹が目を見開く間にゆかりは手を挙げると、茹だった顔で踵を返した。
「それでは!」
「逃がすか!」
逃亡しようとした華奢な背中を咄嗟に捕らえる。
ぎゃあと色気どころか子どもでも上げないような声を上げるその口をまずはしこたま塞ぐことにした。
ゆかりさんはゆかりさんなりに、とってもがんばったのです(笑)




