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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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383 花散らしの雨

 喫茶いしかわの仲良しコンビな頃のふたり。

 今年の春は雨が続いている。

 春と初夏の間の、微妙な季節だ。

 白くて儚いソメイヨシノはとうに散り、遅咲きの八重桜がぼんぼりとした鞠のような花房を重そうに垂らしている。


 喫茶いしかわの前の通りは薄暗かった。雲が厚いのだろう。

 昨晩遅くにやってきた雨雲は、気まぐれに止んだりしながらもずっと糸雨を散らしている。

 そんな天気のせいか、喫茶いしかわの閑古鳥はぴいぴいと鳴くかわりに長い長い溜め息をついた。

「はーーーーーあ……雨だぁ」


 客が一人もいなくなってしまったので、カウンターの中でゆかりはスツールに腰掛けていた。手にはアイスミルクティーの入ったグラス。つうっとグラスの表面を伝ってエプロンに水滴が落ちる。

 淡いピンク色のエプロンにぽつんと染みができる様子を目で追ってしまってから、和樹は口を開いた。暇である。


「ゆかりさん、雨が嫌いなんですか?」

「ううん、雨は嫌いじゃないですよ。新しい傘も買ったし……」

 そういえば朝彼女と店の前で鉢合わせした時、窓越しに見えたレモンイエローとスカイブルーのストライプの傘に、さわやかだなあと思ったの覚えている。


 ゆかりは続けた。

「でも桜が散っちゃう」

 低いすねた声で唇を尖らせるゆかりを見下ろしながら、和樹は笑いを噛み殺した。

 店一番のちびっこ常連客な少女が、雨で動物園に行けなくなったとぶすくれていた時の顔と似ている。

 たしかあの時もこんなじんわりとした雨模様で、ケーキでもサービスしてあげようかと考えていたら、迎えに来た母親の「マフィンが焼けたからお家に帰ろう」という言葉にすっかり機嫌を直して帰って行ったのだ。

 そんな場面を思い出させるような表情だった。

 まったくこのひとは、一秒ごとにおもしろくて、目が離せない。


「お花見してないんですか?」

「まだ一回しか」

「一回したなら別にいいんじゃ」

「え? 全然足りませんよね」


 なにを当たり前のことを、とでも言うような顔で見上げてくる。そんな常識は今はじめて知った。

「三回はしないと」

 と首を傾げる姿に今度こそ吹き出しそうになったが、今年の彼女の花見が不十分な理由はこの雨のせいだけではないことに思い至る。


 マスターもバイトもなぜかしばらくシフトに入る都合がつけづらく、彼女一人に丸投げのようなシフトになっていると聞いていた。そういえば和樹自身も、本業が立て込んでいてこのひと月ほど店の手伝いはまったくできなかった。たまたま買い出し帰りのゆかりを見つけ、ぜひと愛車に乗せて店まで送ったことが一度あるだけだ。

 開店から閉店まで働いていることも多い彼女の休みをさらに減らしてしまったのは、他でもない和樹なのだ。


「花見、します?」

 ゆかりがあまりにうらめしげに雨を眺めているのと、そんな負い目もあって、気付けば口にしていた。

「今日の帰りにでも、二回目行きませんか」

「今日ですか?」

「川沿いのほうに、遅咲きの桜並木がありますよね。たしか夜十時までライトアップされてたはずです。満開はもう過ぎてるかもしれませんけど、この雨で散ってしまってないか確認しに行きましょう」


 顔を上げてきょとんとしたゆかりが、ほとんど間を置かずに「いいですね!」と言った。

 普段ならばプライベートな誘いをかけるなんてご法度だ。彼女は僕との関係を常連客に疑われるのをことのほか気にしているから。帰りに通るだけ、散っていないか確認するだけというのは、言い訳だった。


 それに、ごく普通の女性である彼女を、雨の降る暗い夜に一人で帰らせるのは気が引けるではないか。

 これならさり気なく家のすぐそばまで送ってあげられるし、桜並木のほうから帰ればコンビニが二件ある比較的明るい道を通らせることができる。

 本当は普段からその道を通ってほしいところだが、ゆかりによると距離が長く信号も三箇所多いので、いつもの道より十分近くも余計にかかるのだそうだ。途中にある公園を突っ切れば早いかも、たまに酔っぱらいの喧嘩とかあるけど、なんて言い出したので遠回りを勧めるのは諦めた。




 鍵をかけてキーケースを鞄にしまったのを確認してから、差し掛けていたゆかりの傘を渡した。

 今朝窓越しに見た、下ろしたてらしいレモンイエローとスカイブルーのストライプの傘だ。

 全面模様入りだと思っていた傘は少し変わったデザインで、傘の半分は透明素材の窓になっていた。傘を差して見上げると、雨が降ってくるのが見えるのだ。


 雨でも下を見ないなんて彼女らしすぎると思いながら、足元にも気を配ってくださいね、と言った。さすがに子供扱いしないでと(大人ぶる小学一年生を彷彿とさせるような仕草をしておいて)怒られるかと思ったが、「レインブーツも新調したから大丈夫!」と足元を指差した。ブーツはネイビー地にレモンのイラストがついている。

 黄色が好きなのだろうか。そういえば、好きな色を尋ねたことはない。


 二人並んで雨の夜道を歩く。

 街灯や信号や車のライトが濡れたアスファルトに反射して、傘の中以外の視界のすべてがきらきらとしていた。

 目に痛い、と思いながら、傘をゆかりの反対側に傾ける。

 ゆかりも同じように傘を偏らせていた。和樹のちょうど頭のあたりに彼女の傘の露先があるので、うっかりぶつけてしまわないよう気をつけているのだろう。


 なにしろ傘と雨音と街の雑音に邪魔されて、傘がぶつかるほど近付かなければ会話がスムーズにできないのだ。

 ゆかりがなにか言って、和樹が聞き返して背を丸めて、ゆかりが上を向いて言い直す。和樹が返事をするときも、ほとんど彼女の傘に入るほど近付いて答えていた。

 まどろっこしいと言いながらゆかりの顔は笑っていた。

 この子はたんすの角に足の小指をぶつけてもつい笑ってしまうタイプだろうなあと、なんとなく思った。和樹にも少しそういうところがある。


 やっと賑やかなバス通りを逸れて住宅地に入った。途端に車の通りが激減し、傘に隠れるように言葉を交わし合わなくていいくらいに閑静になる。信号を渡って公園の周りを半周ほどすれば、件の桜並木が現れた。

 角を曲がった瞬間にもう、遠目に見える鮮やかな桜色に、ゆかりの歓声があがっていた。なんなら少し小走りになっている。


 ぱしゃぱしゃとレインブーツが崩す足元の水面にも、絶景が広がっていた。

 雨の夜桜というのは、こんなふうになるのか。

 大きくて厚みのある花弁の八重桜を、暖色の灯りが下から照らし出している。

 白と桃と薄紅の混じり合った丸い花が、ぽうっと照らされている。

 濡れた道路が水鏡のようになって、その花盛りの桜を地面いっぱいに映すのだ。

 二人の他には誰もいない。


 この世のものとは思えない景色だった。

 その真ん中には、ゆかりが立ち尽くしている。


「うわあ、和樹さん和樹さん! 見て和樹さん!」

「……すごいですね」

「本当に……きれい」


 くるくる回って視点を変えては感嘆の声を漏らしている。傘で顔が見えないが、きっと口が開きっぱなしだろう。

 その傘が、ば、と翻って、ゆかりが和樹に振り向いた。


「和樹さん、すごいです! 知ってたの?」

「いえ、並木があるってことだけ……こんなに」

 なぜかその瞬間言葉に詰まった。

 桜色のトンネルの中にゆかりが立って、微笑んで、こちらを見ている。

 誘い込まれるようだった。ゆっくりと中に入る。


「こんなに、綺麗だとは」

「ね。和樹さんが言ってくれなかったら、こんな道があるなんて気付かなかった、ありがとう!」

 絶景に高揚した表情で和樹を見上げる。

 自分に言い訳をしてまで公私混同を通したようなものなのに。挙句今、そうまでして来てよかったと思っている。目に焼き付いた景色を、この先忘れることはないだろう。


「カメラ持ってたらなぁ。明日持って来ようかしら」

「カメラ、好きなんですか?」

「本当にただ好きなだけで、あまり熱心じゃないんですけどね! あっでも明日じゃ散っちゃってるかな」


 足元に目をやって言う。多少散ってはいるが、咲いている花はそれほど傷んでいないし、今晩急に散るということはないだろう。

 ゆかりのレモン柄のブーツの横に、花ごと何輪か落ちていた。彼女もそれに気づいて、拾い上げる。


「鳥がつついて落としたんですね」

「そうみたい……美味しそうだもんね」

「美味しそうですか」

「あっ、あらら」


 花びらを撫でると思いのほかがくが弱っていて、ばらばらと茎から外れてしまった。

 濡れた花びらはゆかりの手に貼りついて、振り払ってもなかなか取れない。手間取る彼女の手を思わず捕まえていた。

 指先から花びらを剥がす。ゆかりの黒い目にも、紅色が映りこんでいた。

 ゆかりの目を通すだけで、さらに綺麗なもののように思えた。


 傘がぶつかった。

 ゆかりの光が入り込むさわやかな新品とは違う、なんの変哲もない紺色の傘だ。それを、そのへんに放り投げるか、畳んでしまうか迷って、数秒動けなくなった。

 そうするとゆかりの傘に入り込むことになって、それは傘がぶつかるよりももっと近くに行きたいということで、つまり、要するにそれは。


 桜の花びらはゆかりの指先から和樹の指先に移っている。

 二人の肌に水分を奪われた花びらが、ひらひらと地面に向かっていく。この手には残ってくれなかった。

 ゆかりの目がその動きを追おうとしたので、握ったままの手をわずかに引いた。

 再びこちらを向く。それが満足で、次の行動を起こしそうになった時だった。


「桜の匂いがする」

「……しますね」

「桜餅食べたくなるね」

「絶対に言うと思いましたよそれ」


 傘の柄を握り直した。

 霧散していく。

 自分の行動と、自分の行動力のなさを少し恥じた。




 夜遅くに一度止んだ雨は、翌朝になってまたも降り出していた。昨日よりはほんの少しだけ空の向こうが明るいが、相変わらず街は灰色である。

 その中で窓越しの黄色の縞々に目を引かれる。ゆかりの傘だ。

 時間通りの出勤、と思って入ってくるのを待ったが、からころとドアベルを鳴らした彼女は、なぜかなかなか声を発しない。


 なにかと思って出入り口のほうを見れば、ドアを開けたまま外に立って、目が合った和樹を手招きした。不思議に思って近づく。

「おはようございます!」

「おはようございます、どうしたんですか?」

「朝もあの並木道を通って、少し撮ってきたんです! せっかくなら朝も夜も撮ろうと思って、ほら、カメラ」


 朝から元気が良いゆかりは首からストラップでぶら下げたカメラケースを指して「写真あとで見てくださいね」と言い、そのまま続ける。

「でね。昨日、帰ってから気付いたんだけど」

 そこでゆかりは唐突にくるりと後ろを向いた。というより、傘をこちらへ向けた。


「ほら!」

 ゆかりの傘の透明な窓部分に、桜の花びらがたくさん貼りついているのだ。

 傘の下で振り返ったゆかりと、傘と花びら越しに目が合う。嬉しそうな顔をしている。

 ああ、こんな些細なことに気づいて幸せになってしまうこの子の、なんと愛おしいことか。まるで平和そのものだ、感動すら覚えた。


 傘の向こうで、ゆかりの口がむにゃむにゃと動いた。なにか言ったようだ。眉を少し上げて、身振りで聞き返す。

 傘がまたくるりと回った。ゆかりが向き直ったので、少し屈んで、傘の下に頭を潜ませる。

 至近距離で目が合った。それがゆるりと細められる。


「花散らしの雨も、悪くないですねって、言ったの」


 実際には、今はまだソメイヨシノ散りきってませんし、八重桜の満開は、もう少し先ですけれど。

 ますますゆかりさんお気に入りになったレモンイエローとスカイブルーの傘ですが、黄色一色ならこれに近いデザインの傘ありますよね。子供向けに(笑)

 自動車事故予防で目立つ黄色を使ってて、前が少しでも見やすいように一箇所だけ透明ビニールになってる傘。


 ということで!(何が?)

 のんびりちまちま進めておりましたが、このお話で150万字到達です。わーい!



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― 新着の感想 ―
[一言] デートというより、引率? まあ、このころはそういう感じだったんでしょうねw 150万字、おめでとうございます!
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