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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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380-1 大事件の予感(前編)

 まだまだ和樹さんが喫茶いしかわを掌握しきれていなかった頃のおはなし。

 初夏のとある日。平和の象徴たる喫茶いしかわで、事件が発生していた。


 といっても、もちろんミステリ定番の殺人事件や強盗事件ではない。

「これは大事件ですよ、和樹さん」

「そうですね」

 早朝午前七時。ゆかりと和樹は喫茶いしかわ店内で、深刻な表情で顔を見合わせていた。


「──まさか、エアコンが壊れるなんて!」

「由々しき事態ですね」

 本日一番に出勤してきたゆかりは、いつも通りエアコンのリモコンのスイッチを入れた。が、作動しなかった。正確には、動くには動くが、いつまでたっても冷気が出てこない。その後到着した和樹も、リモコンの設定を変えたりフィルター部をいじってみたりしたものの、どうやってもエアコンからは常温の空気しか排出されなかった。


 二人で手分けして、修理業者と今日は休みのマスターに連絡したが、業者から返ってきたのは、需要ピークのこの時期、修理に対応できるのは早くても明後日の午後、という無慈悲な返答だった。

 マスターとは電話で臨時休業にするかどうか話し合ったが、今日の最高気温の予想がそこまで高くないことから、とりあえず開けておいて客足次第で途中で閉めるか二人が決めてよい、ということになった。

 ということで、やや蒸し暑い喫茶いしかわの中で、ゆかりは腕を組み、和樹は腰と顎に手を当てて、この状況の対応を考えていた。


「お客さんには、エアコンが壊れてしまって、って最初に説明するしかないですね。入ってくれるかなぁ」

「今日はそこまで暑くならないみたいですけどね。とりあえず、水出しコーヒーは多めに作っておきましょう」

「そうですね。あと、熱い料理はあまり出ないだろうから、サンドイッチとかデザート優先で仕込んだ方がよさそう」

「じゃあ僕はフードをやるので、ゆかりさんはドリンクをお願いします」

「はい!」

 分担を決めて、二人は動き出す。予想外の事件だが、何とかするしかない。

 実際の客の数がどうなるか読めないので、相談しながら仕込む量を決めていく。


 水出しコーヒー用のポットをセットしながら、ゆかりは本日何度目かのため息をついた。

「お客さんに申し訳ないなぁ。せっかく喫茶いしかわに癒されに来てくださっているのに」

「ゆかりさんのせいではないですから」

「それはそうですけど……体調悪くする方が出ないといいんですけど」

 別に自分のせいではないのに申し訳なさそうに言うゆかりに、さすが看板娘だな、と和樹は思う。

 和樹もそれなりに誠実に喫茶いしかわの仕事をしているつもりだが、それでも所詮腰掛けアルバイト状態の自分とは、店に対する思い入れも違うだろう。


 彼女の常連客に愛される所以は、こんなところにもあるのだろうな、と感じる。

 心配そうなゆかりのために何かしてやりたくなってしまうのは、常連客が彼女に勧められると一品多く頼んでしまう心理と似ているのかもしれない。

「……そういえば」

 ふと、あることを思い出して、呟く。

「ちょっと待っててください」

 和樹は、店の奥の、電球や洗剤などの備品が置かれている倉庫へ向かった。記憶が正しければ、たしかあの奥に……。


 しばらくして、がさごそと、大きいものを抱えて出てきた和樹を見て、ゆかりは目を丸くさせた。

「え、それって……」

 どんっ、と床に置かれたのは、少し古い型の大きな扇風機だった。

「扇風機まだあったんだ!」

「前、倉庫を掃除したときに見た気がして。何もないよりはましでしょう」

 カウンターの脇に設置し、コードを繋いでスイッチを押す。ブィィン、と小さな音を立てて、羽が回り始めた。涼し気な風が、店内の空気を循環させる。

「いいですねぇ。ありがとうございます、和樹さん!」

 笑顔で振り向いたゆかりを見て、彼女目当ての常連客の気持ちが分かった気がする。やっぱり、看板娘は笑っていた方がいい。


 開店時間になり、モーニングを求めて続々と常連客がやってきた。来店した客に、エアコンが壊れてしまっていることを伝えるが、今日の気温がそこまで高くないせいか、あるいは看板娘に上目遣いで謝られて出て行けるほどの薄情者がいないのか、引き返す客はほとんどいなかった。

 二人の読み通りに、アイスコーヒーとサンドイッチ類が続々と注文される。昨夜仕込んだ水出しコーヒーは午前のうちに売り切れてしまいそうだったので、朝に多めに仕込んだ作戦は大当たりだった。


 しかし。

 エアコン故障事件を凌ぐ大事件が、平和な喫茶いしかわに発生してしまった。

 

 つい先ほど。作戦通りに回っているほぼ通常通りの店内の様子に、和樹は安堵していた。この分だと、午後も臨時休業にせずにすみそうだった。

 野菜の仕込みをしながら、客席で注文を取っているゆかりの方を何気なく眺めて──目を見張った。目に飛び込んできたものに、手の中のレタスを落としそうになる。

(ちょ、ゆかりさん……っ!)


 ドアを開け放して扇風機も回しているため、風が通って客席の方はそこまで暑くはない。

 しかしキッチン側は火を使うため、多少熱気がこもっている。そんな蒸し暑いキッチンで調理をしたり、料理や飲み物をのせた重いトレイを持って何往復もしたりすれば、汗もかく。汗をかけば、服が湿る。服が湿れば、体に張り付く。


 そう。ゆかりの服が、汗で、ぴったりと、肌に、張り付いているのだ。

 くっきりと、下着の線と色を、露わにして。


(これは大事件ですよ……ゆかりさん……)

 若い女子の間では、わざと下着を透かして見せるという和樹には信じられないファッションも流行っているらしいが、ゆかりの普段の服装の趣味からいっても、彼女の性格からいっても、違うだろう。

 というか、さっきまではまったく見えなかった。これは間違いなく、エアコン故障がもたらした、突発的なハプニングだ。


 和樹は全力で頭を回転させる。もちろん、仕事の手も休めない。素早く、次々とレタスを剥いていく。

(エプロンをしているから、前は見えない。問題は背中だ……)

 ゆかりの今日の服装は、白いノースリーブのシャツに、膝丈のペパーミントグリーンのスカート。彼女らしい、そして接客をするウエイトレスらしい、シンプルな服装だった。そこまで薄い素材でもなさそうなので、こんなに汗をかかない普段の日だったら、シャツ一枚でも平気なのだろう。それにしてもインナーの一枚くらい着るべきだろ、と年頃の女性らしからぬ無防備さに危機感と苛立ちを感じるが、とりあえず今は置いておく。


 目下の問題は、背中にぴったりと張り付いたシャツに、くっきりと浮かび上がる薄い水色と、それを縁取っている白いレース。薄い色ほど逆によく透けるらしい、と昔悪友の誰かが言っていたのを、こういうことかと実感する。変にどぎつくない、彼女らしい清楚なデザインであったことに、ほっとするような、少し意外性のあるものも見たかったような……いや、そんなこと考えてる場合じゃないだろ! と和樹は頭を思い切り振る。


 今はまだ午前中で、近所のお年寄りが客層の中心だ。

 ゆかりの下着についても、気付かないか、たとえ気付いたとしても、そこまで害はない。

 しかし、あと一時間もすればランチタイム。近所のサラリーマンやら学生やらが押し掛ける。彼らの中には、確実にゆかり目当てで、彼女を性的な目で見ている輩がいる。そんな奴らがゆかりのあの姿を見たら、鼻の下を伸ばしまくってニヤニヤして嫌らしい目付きを向けるに決まっている。いや、もしかしたら今の自分と同じように、動揺して、狼狽える奴もいるかもしれないが。

 とにかく、そんな奴らに、彼女のあられもない姿を見せるわけにはいかない。

 なんとしても、ランチタイムまでには、この状況をどうにかしなければならない。喫茶いしかわの大事な看板娘を守るために!


「……和樹さん、レタス全部剥いたんですか?」

 不意に声を掛けられて、和樹は、はっと顔を上げた。

 置いておいたレタス三個は、すべてバラバラに剥き尽くされ、葉の山ができていた。

「たしかに今日はサンドイッチよく出てますけど、こんなに使い切れるかなぁ」

 不思議そうに首を傾げるゆかりに、和樹は慌てて笑顔を浮かべて誤魔化す。

「今日はサンドイッチとサラダのレタスを多めにしようと思いまして。暑いですからね」

「ふーん。あ、ミックスサンドとホットサンド、お願いします」

 我ながら相関関係の分からない言い訳だと思ったが、ゆかりはそれ以上は特に追求せず、注文を告げた。そのまま和樹の横で、コップに氷を入れ、ポットからアイスコーヒーを注ぎ始める。

 横に立つゆかりの動きに視線を向ければ、どうしたって、彼女の脇から背中が目に入る。


 二の腕の下からも透ける水色のラインが、ゆかりが動くたびに、揺れる。

 そのラインが、エプロンに隠されて途中で切れるのも、その先を想像させてもどかしい。

 下着が少し肌に食い込んで段差ができているのは、華奢な体に似合わず、肉感的だった。

 近くで見れば、下着だけでなく、シャツの下の素肌まで、淡く透けている。

 要は、一言でいえば、とんでもなく、エ──

(いやだから、何を考えてるんだよ!)

 たかが下着に興奮するなんて、中学生じゃあるまいし。自分自身に喝を入れ、とにかくこの状況を打破するための作戦を、高速で頭の中で練る。手も、注文の入ったミックスサンドを高速で作成している。


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