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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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377-2 if~エイプリルフールのおわびごはん(中編)~

 喫茶いしかわの閉店作業を終えて店を出た二人は並んで歩いていた。

 いつの頃からか、シフトが同じラストまでになると和樹はゆかりを家まで送ってくれるようになっていた。一時期は炎上が嫌でそれはもう丁重にお断りしたのだが折悪く回覧板で町内の不審者情報が届いてしまい、それ以降和樹は頑として譲らなかった。

 仕方なく和樹と一緒に帰るようになったが炎上を気にしていないわけではない。とはいえ距離を取って歩けるはずもなく、結局仕事中と変わらず他愛もない雑談をしながら気が付けばいつも楽しく、ほんの十数分の道のりをゆっくりと歩いていた。


 ゆかりのマンションまで着くと和樹はいつもエントランスに入るまで見送っていてくれる。いつもと同じくエントランスの前でゆかりは立ち止まって和樹の方を向いた。

「今日も送ってくれてありがとうございます」

 じゃあまた明日、と踵を返そうとしたのを和樹が呼び止めた。


「ゆかりさん」

「なんですか?」

 和樹はいつもと同じ優しい笑顔でゆかりを真っ直ぐ見つめていた。一瞬、時が止まったかのようにその瞳に吸い込まれる。はっとした時には和樹は眩しそうに目を細めていた。


「僕はゆかりさんのことが好きです」

「え…………」

 今、目の前の男はなんと言ったのか。いや、似たようなことを今朝も言われた。それは嘘だった。だって今日は四月一日だから。そう四月一日だ。


「も、も~! 今朝の続きですか? 同じ嘘に二度も騙されませんよ!」

 ゆかりがそう言うと和樹は顔を背けて小さく吹き出した。

「な! なんで笑うんですか!」

「ゆかりさん知ってますか。エイプリルフールに嘘を吐いていいのは午前だけなんですよ」

「えっ。午前だけなの?」

「そう午前だけ。だから今の僕はもう嘘は吐けない」

「…………」

 嘘は吐けない。エイプリルフールの嘘が午前だけなんて知らなかった。今はもう夜だから、もう嘘を吐いてはいけない。もう嘘は吐けないと和樹は言った。つまり今の告白は嘘じゃない……?


「え……と、ほ、本当に私のこと……?」

「本当です。僕はゆかりさんのことが好きだ。一人の女性としてずっと前から好きだった」

 和樹の瞳は凪いだ海のように静かで、それでいて強い意志を感じる眼差しに嘘ではないのだと感じた。

 嘘じゃない。本当に。和樹さんが、私を。私を? なんで? 一体私のどこを?

 驚きと信じられない思いが頭を駆け巡る。ああ頬が熱い。きっと顔は真っ赤なことだろう。鏡を見なくたって分かる。心臓の音もうるさいし、もう卒倒しそうだ。


 和樹さんは黙ったまま私を見つめている。どうして何も言わないの? あ、違う、黙っているのは私だ。和樹さんは返事を待っているんだ。返事? 返事って何を言えばいいの? そういえばちゃんと告白されたのって初めてだ。どうすればいいの? 私、私は和樹さんのことどう思ってるんだっけ? 炎上は怖いけど、嫌いなわけじゃない。じゃあ好き? そりゃ一緒にいれば楽しいし落ち着くし料理はおいしいしシフト以外では頼りになる人だし、でも恋愛感情じゃなくて、だってこんなイケメンで優しくて頼もしい人なんて今までの私の人生にいなかったしなんていうか別世界の人っていうか、好きになるだけ無駄っていうか、だから、だから。


「あ、あの、かず、──ンぐ」

 返事をしなきゃとやっとの思いで声を出したのに、和樹の指に唇を押さえられてしまった。

「返事は今じゃなくていい。次会うときに聞かせてください」

 和樹はにっこり笑うと指を離した。

「つ、次って明日シフト一緒じゃないですかぁ」

「そうですね。でも今は聞きたくないんです」

「な、なんで……」

「次会ったときがいいんです。……約束ですよ」


 訳が分からず戸惑っていると和樹の顔が近付いてきた。呆然と動けずにいると額に柔らかいものが触れた。ちゅっと音がして離れると今度は骨ばった大きな手が優しく髪に触れる。

「じゃあまた。ゆかりさんおやすみなさい」

 そう言うと和樹は踵を返し走り出した。

「あ、和樹さん!? ちょっと……!」

 和樹はゆかりの声に振り向くことなく、あっという間にいなくなってしまった。


 なぜ返事が今ではいけなかったのだろう。明日と言っても喫茶いしかわで会うまで半日も変わらない。今と明日でそんなに違うだろうか。

 でも、よかったのかもしれない。あのまま返事をしても気持ちは纏まらなかっただろう。だって突然の告白で本当に本当に驚いて正直目が回りそうだ。きちんと考える時間の猶予を与えられて助かったのは私かもしれない。


 ゆかりは部屋に入ると一目散にベッドに突っ伏した。

 私はどう返事をしたいだろう。彼を嫌いなんてことは一切ない。じゃあ好きか。でも恋愛感情じゃない。じゃあ好きでも嫌いでもないただの同僚枠だろうか。でもそう言うには仲が良すぎる気がする。

 じゃあ友達? それも違う。だってプライベートでは会ったことがないし、彼自身のこともあまり知らない。わずかばかりの表面的なことしか知らなくて友達だなんて言えない。


 じゃあ和樹さんは私の何?

 彼は優しい。一緒にいると楽しい。彼の作る料理がすき。すごく頼りになる。

 彼のおかげで女性客が増え、SNSが炎上なんてしていなければきっと。

 きっと? その続きは何?

 もし、和樹さんに恋愛感情はないと返事をしたらどうなるかな。気まずくなることは間違いない。仲良くしていたのに距離が開くのかもしれない。もしかしたら喫茶いしかわを辞めてしまってもう会えなくなるかもしれない。

 そんなの、やだ。


 おかしい。いつかはいなくなる、前からそう思っていたのに、本当にいなくなってしまうかもと考えただけで胸が痛い。いつかいなくなってしまう日が来るとしてもできるだけ遠い日であってほしいと願っている自分がいる。

 それくらい和樹さんと一緒にいるのは居心地が良い。傍にいてほしい。離れないでほしい。

 自分の中にこんな気持ちがあったなんて知らなかった。今まで気付かなかったなんてどれだけ鈍いんだろう。炎上が怖くて無意識にブレーキをかけてたんだ。


 でも和樹さんが告白してくれたから。自分の気持ちに気付いてしまったから。

 明日、きちんと返事をしよう。

 私も和樹さんのことが好きだって。

 ずっと傍にいてほしいって伝えよう。


 明日もいつも通りの一日だと信じて疑わなかった。




 でも翌朝、どきどき緊張しながら喫茶いしかわに出勤すると和樹の姿はなく、最近は朝番では来ることのなかったマスターがモーニングの仕込みをしていた。

「おはようございます。マスターどうしたんですか、こんな朝早く。もしかして和樹さんお休みですか?」

「おはようゆかり。……って、和樹くんから聞いてないのかい?」

「へっ? なにをですか?」

「和樹くん昨日が最終出勤日だったんだよ」

「えっ……」

 ゆかりは自分の耳を疑った。


 今、マスターはなんて言った? 和樹さんが辞めた? 嘘でしょ。そんなこと一言も言ってなかった。だって昨日私に告白してきて、次会うときに返事を聞きたいってそう言ったのだ。明日シフト一緒じゃないかと言ったらそうですねと答えてたのに。

「聞いてないんだね……。和樹くん、ゆかりには自分から言うから黙っててほしいって言ってたのに」

「……聞いてない、聞いてないですよ!」

 マスターに訴えるとゆかりは俯いた。

 胸が締め付けられるように痛い。目頭が熱くなって視界が揺れる。堪えきれず涙がぽたぽたと落ちた。


 信じられない、信じたくない。和樹さんが辞めてしまったなんて。いなくなってしまったなんて。つい昨夜のことだったのに。いなくならないでほしい、ずっと傍にいてほしいと想ったのはつい昨夜のことだったのに。どうして言ってくれなかったの? どうして告白なんてしたの? 次会うときの次っていつなの?


 泣きながらくずおれるとマスターが慌てて駆け寄ってくる。

「あ、ゆかりちゃん」

「ひどい、和樹さんひどい! 私なにも聞いてない! 突然いなくなるなんてひどい……!」

 泣き喚くゆかりをマスターは懸命に宥めたが溢れる涙が止まることはなかった。とても仕事ができる状態ではなく、マスターが一人で営業していたがランチ前に早じまいすると、ゆかりが少し落ち着いたところを見計らい家まで送ってくれた。


 部屋で一人きりになって再び涙が込み上げてきた。でも心は少し落ち着きを取り戻していて怒りが湧いてきた。そうだ、どうして辞めることを言わなかったのか。告白しておいて返事は保留にさせて自分は消えるなんて一体どういうつもりなのか。文句を言わねば気が済まない。


 ゆかりは鞄からスマホを取り出しトークアプリを開くと目を見開いた。

 二人だけのトークルームから彼が退室している。それどころかアカウントが無くなっている。アプリのIDさえ交換しておけば連絡には困らない時代だ。電話番号もメールアドレスも知らない。もうゆかりから連絡を取ることは叶わない。


「和樹さん、どうして……」

 溢れて止まない涙が次から次へと零れ落ちた。

 私を好きだと言った。嘘ではないとはっきり言った。返事を保留にさせた理由は分からないけど、次に会うときにと言った。約束だと言った。

 こんな身勝手な消え方をしておいて、彼自身は約束を守る気があるのだろうか。ちゃんと返事を聞きに来るのだろうか。


 悔しい。告白してきたのは和樹さんなのに、私に気持ちを自覚させたのは和樹さんなのに、まるで振られたのが私のような気持ちにさせてる。こんなに泣いていることも和樹さんは知らない。

 ちゃんと返事を聞きに来なかったら一生許さない。ちゃんと聞きに来たって今度はスペシャルランチプレートくらいじゃ許してやらない。

「和樹さんのばかーーーっ!」

 ゆかりの怒りと悲しみの混じった叫びをベッドの片隅のぬいぐるみだけが聞いていた。




 落ち着いてからマスターに話を聞くと、彼は本業が忙しく別の場所で勤務することになったと言っていたらしい。それにしては消え方が尋常ではないというか、怪しさ満点だ。

 マスターから住所を聞き出し家に行ってみたが予想通りもぬけの殻。彼は夜逃げでもしたんじゃないか。


 突然消えた悲しみと何も聞かされなかった怒り、夜逃げかと思ったときは心配にもなった。毎日泣いて怒って不安になって。今までの人生でこんなに情緒不安定だったことはない。それでも悲しいかな、半月もすると彼がいないことに慣れてしまった。


 居場所も分からない。連絡も取れない。ゆかりにできることはただ待つだけ。

 だが待てど暮らせど何日経っても現れない和樹に募っていくのは怒りだ。次会ったら一発殴ってやろうかと本気で思っている。


 でもそうやって感情が昂っていたのは二ヶ月ほどだった。


 会いたい。和樹さんに会いたい。

 音沙汰ない日が一日また一日と積み重なり、淋しさと恋しさが増していく。今日来るんじゃないか、今日来るんじゃないか。毎日毎日喫茶いしかわから外を眺めてばかりいる。




 いつの間にか季節は変わり、世間は夏真っ盛りだ。今年もひどい暑さで熱中症の警報が出ない日はない。

 和樹さんは今どうしているのだろうか。この炎天下の中、倒れたりしてないだろうか。今日も外はアスファルトから陽炎が上っている。


 いつまでも残暑の残った秋が過ぎ、社会現象と化したハロウィンが終わると途端に世間は冬支度だ。

 木々が赤や黄色に染まり、冷たい北風がその葉を散らす。早いところではクリスマスソングが流れ始め、みんな年の瀬に向かって段々と忙しなくなっている。


 まだ和樹さんは現れない。

 彼は告白の返事を聞く気があるのか段々疑わしくなる。


 そもそもやはり告白自体ただの揶揄いにすぎなかったのではと疑心暗鬼になる。あの日の真剣な眼差しももう朧気だ。このまま彼を待ち続けていいのだろうか。友人から何度か誘われた合コンも全て断ってしまっているが、もう待つことをやめて恋心を捨てるべきなのかもしれない。でももしかしたら今日現れるかもしれないという思いを捨てきれない。

 理不尽とも思える約束なんて残して恋心を捨てるきっかけさえ彼は与えてくれない。


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