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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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375 へたれたプロポーズ

 喫茶いしかわの常連、聡美ちゃんと鉄平くんの場合。

 鉄平が自宅の玄関を開けると、明かりの付いたタイル張りの土間にちょこんとトラ猫のじろうが座って短く鳴いた。

「ただいま。じろう、今日は聡美の家じゃなかったのか?」

 聡美と鉄平の足音を判別している鉄平不在の間の彼女の騎士は、屈んで撫でる鉄平の手に喉を鳴らしながら頭を押し付けると、満足したかのように伸びをして、じろうは靴を脱ぐ鉄平の隣にぴたりと座りなおす。数歩先のリビングのドアを見ると、じろうが出てきたらしい開いた隙間から、やはり明かりが漏れていた。


 最近微熱が出たり、食が進まなかったりするという聡美が、幾分真剣な顔で

「夏風邪引いたのかなあ、バカだったらどうしよう……とにかく病院に行くから一度自分の部屋に帰るね」

 と言っていたのは今朝のことだ。

 今朝は熱がなかったようだが、夜中も寝苦しそうにしていることがある。ここのところ泊まり込みの必要な遠方への出張もなく毎日帰宅できているため、聡美もまた鉄平の部屋に寝泊まりしている。


 半同棲状態が始まった頃、一度ご両親に挨拶に行こうか、と提案した鉄平に

「ウチの両親、多分面倒なこと言い出すのよね……結婚しないのならすぐ別れろとか言い出しかねないからこのままでいいよ」

 と聡美は難しい表情をして告げた。

 鉄平の方はいっそこのまま同棲しようかとも考えていたが、やはり結婚という話題は公私ともに充実しているという聡美はまだ考えていないかもしれない。それに自分たちの年齢では少し早すぎるだろうか、と躊躇っている部分もある。この関係になった時点で、鉄平から手放す気はくずかごに放り込んで不燃物として処理したが、それでも聡美が離れたいと感じたときに見送る程度の覚悟はしていた。自由に幸せに生きることが彼女らしいから、というのは建前で、男のくだらないプライドだ。


 もっとも大人しく指を咥えてその状況に甘んじるつもりはなく、おそらくみっともなく手を尽くしてそれでも変えられない事実に項垂れているだろう。プライドとは、と感じないこともない。それにこんなことを聡美に告げれば、不満たっぷりな顔で「自宅に帰らせていただきます」などと言われかねない。終わりや最悪な状況を考えることは許してほしい。そうならないために必死なのだから。


 じろうと並んで歩きリビングに入ると、ソファに座って映画を観ていたらしい聡美があれ、と目を丸くした。

「じろう、鉄平を迎えに行ってたの? ひとりで行くなんてずるい。鉄平、お帰り。早かったね」

「ただいま。聡美こそ今日はあっちの部屋に戻るって言ってなかった? 病院はどうだった」

 スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めながら訊ねると、聡美は照れたように笑ってソファから立ち上がる。テレビ放送の映画は手持ち無沙汰に眺めていただけらしい。

 しかし今、何か照れるような部分があっただろうか、と鉄平は首を傾げたが、思い当たる部分がない。

「ちょっと聞いてくれます~? 聞いちゃいます~?」

「……聡美、呑んでないよね?」

「はぁい、聡美さんは禁酒です」

 聡美はにこにこしながら唇の前で指をクロスし、ちいさくバッテンをつくる。


 えへへとまるで踊るような足取りでふわふわと鉄平の前に立った聡美は、両手でチョキを作った。それをはさみのように動かしてへらりと笑う。

 いつだったか、デートに水族館を選んだときに大きな蟹の水槽で「強そう! 鉄平が戦うならどうやって勝つ?」と興奮した面持ちで同じように手を構え、振り返ったときを思い出した。さすがに蟹一体を相手どるだけなら勝てるとは思うが、なんで勝負させようと思ったのだろう。謎である。


 そんな鉄平に、聡美は歌うように告げた。

「に、か、げ、つ~」

「に……。は!?」

「鉄平くんはパパになってくれるかなー?」

 にかげつ。

 二ヶ月。

 脳内でゼロコンマ一秒置いて変換できた単語に思わず声を上げる。ネクタイをぶら下げたまま息を呑み、聡美の肩を掴んだ。


「ちょっと聡美……」

「幸せにするので、結婚してください」

「俺のセリフ……!」

 二カ月の意味を確かめる前に、聡美は小首を傾げて鉄平を見上げる。諸々をすっ飛ばされて呻きながら華奢な肩へ項垂れると、聡美はやれやれとばかりに肩を竦めたようだった。

「鉄平は言ってくれないし、いつ言おうかなあと思ってたら順番逆になっちゃった」

「それは……ごめんなさい」

「どうせ幸せにする自信がないとかしょうもないことでうだうだ悩んでヘタレてたんだって判ってますけど」

「返す言葉もございません」

 ヘタレという部分には異議を唱えたかったが、告げられる言葉が真実であれば呑み込むほかない。


 そんな鉄平の大きな背中をぽんぽん、と軽く撫でた聡美はでもね、と続けた。

「……ぶっちゃけた話、わたしは鉄平相手じゃなくてもそこそこ幸せになれると思うのよね?」

 それは鉄平も何度か考えていたことだ。わざわざ鉄平を選ばずとも、聡美は幸せになれる。いわゆる平凡と言われるような、一般的で何の問題も事件も起こらない家庭の中で、笑顔の中心にいる聡美を想像することは容易い。

「でも、鉄平と一緒に幸せな方が、わたしが幸せになれるんだよね」


「……俺も、聡美といると俺が幸せになれるよ」

 聡美がわざとエゴだと呟いた言葉に、鉄平はとうとう観念して息を吐いた。聡美は幸せになれる。それを叶えるには鉄平には難点が多いが、少なくとももうこの温もりを知ってしまった以上、聡美以外との幸せに身を置くことはないだろう。

 しかし、鉄平の人生が聡美の幸福を食い潰す可能性も、聡美が幸せに生きることを想像することと同じくらいに容易く想像できる。それを匂わせたこともなかったはずだが、なぜ気付かれたのだろうかと不思議に思った。


 諦めて白状した鉄平に、聡美は幸せそうに笑いながら回した腕で抱きついてくる。

「うふふ、鉄平ひっどーい」

「聡美も、ひどいなあ」

 俺をこんなに駄目にして、とそれはやはり呑み込んだ。代わりに何度も用意しては却下していた言葉を口にする。

「聡美、俺のために結婚してくれますか?」

「鉄平も、わたしのために幸せになってくれますか?」

「はい、勿論」

 こちらの気が抜けるような笑顔で幸せをまき散らす聡美を抱えて、鉄平はソファに倒れ込む。

 泣きそう、とぼやくと、聡美は見てないふりをしてあげる、と更にぎゅうぎゅう抱きついてきた。


 幼馴染同士だからこそお互いの家族のことも知っていて、だからこそちゃんとしたご挨拶がなあなあになってしまっていたふたり。

 腹のくくり方は聡美ちゃんのほうがだいぶオトコマエみたいです。ふふふ。


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