374 惚れた方が負けなのだ
恋人関係開始後同棲前くらいのおはなし。
「僕がマッサージしましょうか?」
事の発端は、己のこの言葉だった。
◇ ◇ ◇
日付が変わる三時間も前に退勤することができた僕は、駐車場に停めている愛車へ移動しながら、浮かれた気分のままに恋人であるゆかりさんへとメッセージを送る。
『今から自宅に伺っても大丈夫ですか?』
しばらくして『もう少しで家に帰るのでそれからでもよければ!』と謝る猫のスタンプとともに返事が返ってきた。
いつもなら退勤し、とっくに自宅にいる時間だがまだ外にいるということはどこかへ出掛けているのか、と思うがすぐに頭の中に一つの可能性が浮かび上がる。
「あ、今日は商店街のイベントか」
ご近所商店街では、毎年旧正月の時期に合わせてイベントを開催していた。
一度だけ参加したことがあったが、様々な催し物や出店なども並び、とても盛況だったことを思い出す。喫茶いしかわもコーヒーや軽食のテイクアウトで今年も参加しているはずだ。
そうなると、看板娘であるゆかりさんは早朝からほとんど出ずっぱりだったはずだろうから、相当疲れているだろう。
そんなところに、滅多に連絡を寄越すこともできない、外でのデートなんてろくにできていない薄情者の恋人が家にやってくるなど、彼女にとって面倒事の極みではないか。
『今日は商店街のイベントでしたよね? お疲れでしょうから、また別の日にしたほうがいいですか?』
なんて弱々しい言葉だと、送信したメッセージを見て鼻で笑う。
今夜の予定をどうするか決定権を彼女に委ねているが、単に自分から彼女に逢える機会を潰したくないだけだ。我ながら情けない。
背もたれに深く腰掛けて彼女からの返事を待つと、思いの外すぐに手の中にあるスマホが小さく振動し、真っ暗だった画面が淡く光った。
『疲れているからこそ、和樹さんに逢いたいんです』
「あー……それはズルい」
はあと溜息をつきながら顔を掌で覆う。
こんなことを言われて、『逢わない』選択肢を選ぶ男がいたらその顔を拝んでみたいものだ。
『迎えに行くから待ってて』
そうと決まれば、善は急げ。
シートベルトを素早くつけ、逸る気持ちを抑えながらエンジンを掛けるのだった。
◇ ◇ ◇
灯りの消えた喫茶いしかわの店先で、僕の車を見つけるや否や、小さく手を振りながら笑顔を見せてくれる彼女に心臓が高鳴る。
ハザードランプをつけて店のすぐ横に車を停めれば、彼女はすぐに助手席側のドアを開けて乗り込んできた。
「こんばんは、和樹さん!」
「お疲れさま、ゆかりさん。ごめん、疲れてるところに連絡して……」
「全然いいんですよ! 和樹さんに逢えるだけで疲れも吹っ飛んじゃいますから」
えへへ、と笑顔を見せる彼女を見つめながら、本当にマイナスイオンでも出てるのではないかと馬鹿げた妄想をしてしまいそうになる。
「今日は大盛況だった?」
「それはもう大盛況! ほとんどお客さん途切れなかったですねえ。看板息子さんがレシピを残してくれたいちごのシフォンケーキ7が大好評でしたよ?」
「へえ、それは彼も喜びますね」
「ぜひお礼をお伝えください」
冗談を言いあいながら、車は彼女の自宅へ向けてゆっくりと走り出す。
チラリと横目で彼女を見れば、声は元気そうだがいつもよりも深くシートに腰掛けており、お疲れの様子だ。
「ゆかりさん、ご飯は食べましたか?」
「はい、喫茶いしかわで……あ、和樹さんは?」
「僕も食べてきました。じゃあ、あとはお風呂に入って寝るだけですね」
「ですね。今日は湯船にゆっくり浸かりたいなあ」
うーん、と小さく唸りながら彼女は両手を前に突き出して伸びをする。
「結構凝ってる?」
「かもしれないですね。いつもより重いもの運んでたし、座ってる時間もほとんどなかったから足もパンパン」
「僕がマッサージしましょうか?」
「え!?」
笑いながら自身の足を摩る彼女にそういえば、小さく驚いた声。
「お疲れなゆかりさんにマッサージのサービスです。しっかり体を解せばゆっくり休めると思いますよ」
「それはすっごく魅力的ですけど、でも和樹さんだってお疲れでは……」
「僕は大丈夫、これでも一応鍛えているから。それに、恋人に逢えて疲れが吹っ飛ぶのはゆかりさんだけじゃないよ」
信号が黄色から赤に変化し、ゆっくりと車を停止させる。
彼女が黙ってしまったのでそちらに視線を向ければ、彼女は暗闇でもわかるくらいに耳を真っ赤に染めて顔を手で覆っていた。
「うう……それ言うのズルいです」
「はは、それはお互いさま。さて、僕はゆかりさんにゆっくりしてもらいたいのですが、いかがでしょうか?」
わざとらしく畏まった口調で彼女に問いかければ、顔を覆っている指の隙間からチラリと視線が向けられる。
「よろしくお願いします……」
「はい、よろしくお願いされます」
妙にぎこちないやりとりに耐えきれず、ふは、と二人同時に噴き出せば信号は青に変わった。
◇ ◇ ◇
「あのね、マッサージをしてもらう前にこれだけは言っておこうと思って」
彼女はベッドの上で正座になり、口をゆっくりと開く。
順番に入浴を済ませ、あとはもう寝るだけになったところで、いざマッサージを始めようとすると、彼女は神妙な面持ちで僕を見つめてきた。
「私、擽ったいのが苦手なんです」
「それはもちろん知ってますよ。服を脱がせようとしたときに脇腹に手をかすめるだけでビクッとし」
「そこまで言わなくていいです!」
んん、という咳払いとともにキッと睨まれてしまった僕は口を真一文字に結ぶ。
「それでね、マッサージも体に触れるじゃないですか。多分擽ったくて変な声が出たりするかもしれないですけれど、もう気にせずガッとやってしまってください」
「ガッと」
「はい、ガッと」
マッサージをしますと言い出したのは僕だが、今になって思えば女性相手にマッサージをしたことなどないので、力加減がまったくわからない。
「あの……痛かったりしたらすぐに言ってくださいね」
「はあい」
正座を崩し、ベッドにうつ伏せになった彼女はのんびり返事をする。
加減を間違えるなよ、と己に言い聞かせながらベッド外に膝立ちになりふう、と深呼吸をした。
「では、始めますね」
「お願いしまーす」
まずは肩からと、柔らかな栗色の髪に隠れている肩を両手でそっと掴み、ゆっくり力を入れようとしたその時。
「ひゃん」
「え」
今の声はなんだ、と一つ瞬きをする。
マッサージをしている最中とは思えない声が聞こえたような気がしたが、気のせいだろうか。
僕はもう一度彼女の肩をぐっ、ぐっと揉む。
「ん、んぅ」
やっぱり気のせいじゃない。
この声は目の前の彼女が発しているものだ。
「あの、ゆかりさん……痛くないですか?」
「ふぇっ? あっ、痛くはないですよ? でも、すごく擽ったいですね」
「そ、そうですか……」
「さあ、どんどんお願いします!」
どんどん、ねえ……。
脇腹を柔く掴みながら背筋に沿うように親指でぐっと上からゆっくり押していく。
「ふっ……あっ、んぅ」
骨盤の近くを手で抑えると、彼女は小さく震えながら左手で自分の口を塞ぐ。
彼女としては必死に擽ったいのを我慢するための行動なのだろうが、僕にはそれがどうしても夜のソレを想像させるもののように感じてしまい、変な気分になってしまう。
「はぁ、んっ……んあ」
再び彼女の肩に戻り、最初よりも強めに力を入れて揉めば、彼女は我慢できないのか口から吐息を漏らす。揉む力を強めたり弱めたりするたびに、彼女の喘ぐかのような声が耳に届き、強めの酒を飲んだときのようにクラクラと視界が揺れる。
おそらくこのまま続ければ、必死に押さえつけている理性が本能に白旗をあげかねない。
今日は彼女を労ることが大切なのに、そんな無体を働くわけにはいかないのだ。
「あ、あのゆかりさんもう……」
限りなくゼロに近い、残りかけの理性でマッサージを終えようとすれば、枕から顔を上げた彼女がとろりと蕩けた視線を向けてきた。
「いやあ、まだ止めないで……」
「で、でもゆかりさんすごく擽ったいんじゃ……」
「大丈夫で、す……和樹さんすっごく上手だから、もっとしてほしいの」
彼女は確信犯なのか?
それとも、僕の脳内が最早何を聞いてもソッチに変換してしまうようにおかしくなってしまったのか?
僕は彼女に聞こえないようにぐっ、と小さく唸る。
半ばやけくそになりながら、ふくらはぎをぐっと親指で押せば「あっ」という小さな叫び声とともに彼女の体がびくんと跳ね上がった。
「あっ、そこ……ん、すごく気持ちい、です」
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
もう無理だ、もう限界。
僕の鉄壁の理性も、好きな女性の前じゃものの数分で粉々になることがわかっただけでも収穫か。
そんな馬鹿なことを頭の隅で考えながら、ゆらりと立ち上がった僕はうつ伏せになったままの彼女に覆い被さるようにベッドに乗り上げる。
「ごめん、ゆかりさん」
彼女が着ているTシャツの裾にゆっくり手を伸ばす。
――その瞬間、左脇腹に鈍い衝撃が走った。
「ぅぐっ」
「ああっ! か、和樹さん!」
衝撃の元凶・ゆかりさんがガバリとベッドから起き上がり、彼女からの強烈な蹴りによってベッドから転げ落ちた僕に駆け寄る。
「ごめんなさいごめんなさい! もう擽ったいのが限界で思わず……私、昔から限界が来ちゃうと足が出ちゃって……」
「だ、大丈夫……お陰で助かった」
「助かった?」
「い、いやなんでもないです」
「もう、ほんとにごめんなさい……」
しょんぼりと肩を落とす彼女へ「大丈夫」と頭を撫でれば、彼女は気持ち良さげにそれを受け入れてくれる。
「少しは疲れ、取れた?」
「はい、それはもうすごく! 和樹さんマッサージすごく上手ですねえ」
「はは……それならよかった」
「また疲れている時はお願いしてもいいですか?」
ぐいっと顔を近づけてきた彼女は、小さな子供が欲しいものをねだるときのように瞳をキラキラと輝かせていた。
正直、『もう勘弁してくれ』と言いたいところだが、僕は彼女のこの表情にめっぽう弱い。
惚れた方が負けなのは世の常だ。
「よ、喜んで……」
◇ ◇ ◇
翌日。
外回り中に突然の土砂降りにやられ着替えようとした和樹の左脇腹に真新しい湿布が貼られているのを目撃した部下たちが、『あの和樹さんに蹴りをいれたのは誰だ!?』と騒然とするのだった。
ひび割れまくりの理性を必死にテープ貼って修繕しようとする和樹さんとか、粉々に砕け散った理性を必死でかき集める和樹さんとか、理性は毎回そういう状態になっていることは想像に難くないなと思ってしまうのです。
今はもう、マッサージは子供たちの肩たたきとかに変わってるのかもしれませんけどね。




