372 平和そうで、そうでもないかもしれない喫茶店
長田さんから見たあのふたりの話。
珍しく、上司にコーヒーに誘われた。
仕事の途中で一緒に飯を食うことはあれど、コーヒーを飲みに行こうと言われることはなかなかない。
営業の一環か? と思いかけたところで思いあたった。
例の喫茶店だ。
ということは紹介してくれるということなのかもしれない。
上司は、ようやく腹を決めたのだ。
案の定、向かった先はあの喫茶店だった。
なんだかんだと殺伐とした日々の中で唯一、良い意味で気を抜ける場がこの店であったらしく、いや正確にはその店の看板娘の隣であったらしく、今は客としてこの店に足しげく(注:当人比)通っている。
ここで問題がひとつ。実は俺は上司の想い人と初対面ではない。
彼女を送るため閉店前にやって来て最後の客になることの多い彼は知らないだろうが、ここを憩いの場にしているのは彼の知る常連客ばかりではないのだ。
さあどんな顔をしたものか、と一瞬思案したが、まあいいかと開き直ることにした。
上司が珍しくプライベートに踏み込ませてくれる日だ、こちらのプライベートも見せてやろう。
ドアを開けると軽やかな鈴の音。
振り向いたウェイトレスは「いらっしゃいませ」と声を張り上げ、上司の顔を認めてぱっと表情をかがやかせた。
晴れやかに笑いながら「珍しいですね、こんな時間に」と言いかけて、隣の俺に気づく。
「あら」とちょっと驚いたように微笑んで「和樹さん、お友達だったんですか」と言った。
その瞬間の上司の驚愕の表情を敢えて無視する。
面食らっている上司にかわって言った。
「私は彼の部下でして。いつもお世話になっています」
「あっ、こちらこそ」
と彼女は勢いよく頭を下げたが、慌てて
「あ、違うか、私が言ったら変ですよね」
と赤くなる。それから
「こちらへどうぞ!」
と空いているテーブルを示して誘導するとカウンターの方へ戻っていってしまった。いつもながらくるくると表情の変わる人だ。
隣から感じる圧力に気づかないふりをして、テーブルにつく。
もちろん自分はカウンターに背を向ける椅子に座り、上司は自分越しではあるがくるくる働く看板娘が見えるソファー席だ。
向かい合って座った上司は不機嫌そうにこちらを見据えていた。
いや、不機嫌というわけではなさそうだ。照れ隠しだろう。
こういう顔は初めて見るから推測するしかないが。
「……よく来てるのか」
照れ隠しの低い声は問う。
「それほどでも」
「何しに来てる」
「コーヒーを飲みに。今日だってそうでしょう」
ああ、まあそりゃそうだよな、と上司は頬杖をついた。
「それに」
「それに?」
「ここのナポリタンは絶品で中毒性が高いので、通いたくなってしまうんですよ」
「……知ってるよ」
その口調が可笑しかったが、顔には出さなかった。多分。
彼女が注文を取りに来た。
看板娘にご執心の魔王様は、たった今まで山脈でも作るかのように眉根を寄せていたのに、驚くほどの、でも納得しかない早さで柔和な表情を見せ彼女に話しかける。
「ゆかりさんも人が悪いな。ここに長田が来てるなんて一言も……」
「長田さん?」
彼女はきょとん、という顔で俺を見てぱしぱしとまばたきを二回するとパッと表情を明るくし、「あなたが長田さんですか!」
と微笑んだ。
「長田です」
軽く頭を下げる。
「じゃあやっぱりお世話になってます、ですね。お話はよくうかがってます」
上司はまた驚いている。
「しょっちゅう長田さんのお名前を聞くから……和樹さん、人使い荒くないですか」
「いや、頼りになる上司ですよ。うちの課では元々……」
話しても問題のない範囲で、べた褒めしてやった。
ウェイトレスは嬉しそうに笑い、言われた本人は普段なら受け流しそうなところを「ちょっ、何言ってんだお前」と泡を食っている。
「お前なあ……」
彼女が行ってしまうと、上司は呆れたようにつぶやいた。
つい笑ってしまったが、相手も参ったというように額に手を当てて笑っていた。
「本当にただの常連なのか」
「それほど来てませんよ」
「顔見知りだろ」
「名前を覚えられるほどじゃありません」
「ああ、まあ名乗らないよな」
「名乗る名乗らないの話ではなくて」
「あ?」
「名前を覚えられるほど通い詰めて親しくなったら」
声を一段ひそめる。
「看板娘にご執心の誰かさんが黙ってないでしょう」
一瞬言葉に詰まったのに乗じて、もう一言。
「ここの常連たちは、その看板娘にご執心の誰かさんがいつ告白、もしくはプロポーズするのか気にかかってるんですよ」
長田さんならではの焚き付け方でした。
ふだん振り回されてる意趣返しもちょっぴり。
実はこれまでに、和樹さんは喫茶いしかわ(と書いて「ゆかりさんのもと」と読む)に通いたいばかりに長田さんに押し付けたあれやこれやをポロリしてしまったことが数度。
和樹さんにお手伝い(買い出しアッシーくんとか)してもらえるのは助かるし嬉しいけど、ご迷惑のかかっている長田さんに申し訳なくて、お詫びとお礼をしなければと思っていたゆかりさん。
ゆかりさんはお礼の品としてコーヒーチケットを長田さんにお渡しするものの、ゆかりさんから直接のプレゼントというのが気に食わなくて大魔王に変化しそうな上司の気配を察知した長田さんは、すっと和樹さんに献上しつつ一言。
「これは差し上げます。ただ、看板娘さんのご厚意を無碍に扱うのも良くないですから、近いうちに替わりのコーヒーチケットに交換してください」
長田さんの上司操作スキルがUP!




