371 ドラマティックをあげる
和樹さん海外出張前の、和樹さんだけ自覚し始めた頃のふたり。
石川ゆかりは絶望した。
悲しみに打ちひしがれながら、睫毛を震わせて涙をこらえた。
ないものねだり、私にはないもの。
「ゆかりさん、どうかしましたか?」
喫茶いしかわの同僚である和樹が声をかけてきた。ゆかりが具合を悪そうに、しゃがんでいたからだ。
最初は在庫管理のために考えごとをしているのかと思ったが、何かつぶやきながら目元を暗くしているのだ。
「……和樹さん、由々しき事態です」
「何か買い忘れありましたか?」
昨日買い出しに行ったばかりだった。
店はすでにCLOSEDの札をかけ閉店準備中であり、ここにいるのは和樹とゆかりだけである。
和樹はゆかりの隣にしゃがんで、再び尋ねた。
やはり、具合が悪いのだろうか。
「和樹さんには、恋人さんがいらっしゃいますでしょうか」
「――はい?」
この娘は一体何を言っているんだろうか。
石川ゆかりの悪い癖は、唐突に斜め上のことを述べてくる点。
それから良い意味でも悪い意味でも、お節介が過ぎるところ。それぐらいである。
和樹は思わず、ワントーン下げながら「はい?」と返す。
しかし、ゆかりには伝わらなかったらしい。
「ゆかりさん馬鹿なこと言っていないで、閉店作業をしてください」
「ば、馬鹿って……! お願いです、教えてください~~! 死活問題なんです!」
瞳を濡らして、上目遣いをされてしまった。
この手の技に靡かない和樹はため息をつきそうであったが、相手は少なからず好意を抱いている女性。少しだけ、胸がざわついてしまった。
(落ち着け僕。平常心を保て、平常心を保つんだ)
「僕の答えでゆかりさんは死ぬんですか? でしたら、お答えすることできません」
「そ、そんな~~」
「それに、僕はゆかりさんに生きていて欲しいから」
思わずその手がゆかりの髪に伸びてしまう。
歳下の女性は妹みたいなものだと思っていたが、思わず構ってからかいたくなる。
そして、その陽だまりみたいな笑顔は和樹にとって「普通の幸せ」の象徴みたいなものであった。
その瞬間、ゆかりは立ち上がって顔を書類で隠してしまう。
耳まで赤い様子を見ると、多少は脈があると笑みが零れてしまのだ。
「え、炎上案件! ダメ、ゼッタイ!」
「ふふっ。ゆかりさんは面白いですね、やっぱり」
「な、なんですか! こちらは真剣なんです! 和樹さんに恋人がいるかどうかで、今後の私の生き方が変わるのです!」
恥ずかしそうにこちらを見下ろす姿に面食らってしまった。
笑ってしまいそうな、心が穏やかになる気持ちが止まらなかった。
遠まわしにプロポーズされているようで、悪い気分ではなかった。
和樹も立ち上がり、徐々にゆかりに近づく。
「今はフリーですよ」
次に続く言葉を言おうとすると、ゆかりのため目が三角になってしまった。
「なんで! 和樹さんに恋人いないんですかーーーっ!」
叫ばれてしまった。
「え? なんで、ゆかりさんがそっち方向で怒るんですか。僕のときめき返してください」
「『炎上案件ダメ、ゼッタイ』です! そういうこと言わないで!」
ゆかりは書類をカウンターに叩きつけ、全身で怒りを表現していた。
いや、だから何故あなたがそこまで怒る。
和樹としては、素直にときめきを返してほしかった。
「僕に恋人がいなかったら、何が問題なのでしょうか?」
「和樹さんは格好良いです。何でもできて憧れます。コーヒー淹れるのもごはんも全部美味しいです。スタイルも良いです」
「ありがとうございます?」
褒められて悪い気はしない。しかし、ゆかりはそういう様子ではなかった。
ゆかりはまるで親の仇を討つような目で和樹を見上げる。
「そ、そんなハイスペックなイケメンに彼女あるいは彼氏がいないなんて! そしたら、何もない私に恋人できるはずないじゃないですかーーっ!」
「――はい?」
褒めて叩き落とすスタイルやフラグを折るのをやめて欲しい。
切に願いそうになった和樹はため息をついた。
「……最近喫茶いしかわにいらっしゃるお客様はみんなカップルばっかり……恋人じゃなくてもそれっぽい相手がいてお付き合い間近な人ばっかり……たくさんいる……みんな…みんな私を置いていく……」
ゆかりの瞳は震えた。
僻みで結構、飽きられても結構。
和樹のような完璧人間に彼女あるいは彼氏がいない。そうなると、とりえが喫茶店業務ぐらいしない自分には到底恋人ができない。
そう感じてしまったのだ。
自分にだって彼氏が欲しい。
息をするように誰かに愛されたい。
前はそんなことを思わなかったが、ここ最近は人肌が恋しくなって仕方ない。
胸の隙間を吹き抜ける風が空しい。
和樹に怒りをぶつければ、呆れた顔を見下ろされていた。当然である、人生勝ち組みたいな人間に自分のような気持ちが伝わるはずがない。
「……僕はゆかりさんを置いていきませんよ」
「待ってもらわなくても大丈夫です……和樹さんのようなハイスペックイケメンはよりどりみどりです…慰め無用でござるです」
「逆に僕は、ゆかりさんに待っていてほしいですけどね」
「和樹さん、情けは無用です。私に恋人ができてから、和樹さんが恋人作るとか地獄絵図じゃないですか怖い」
「そういう意味ではないです」
「あいたっ!」
思わず腹が立ってしまったので、和樹はゆかりの額にデコピンをした。
待っていてほしい――というのは、本当である。
自分がどうにかなるまで、自分が自分らしくあれる時まで待っていてほしい――そういう意味だ。
「僕はそれなりに目端がきくしミステリの推理も得意と自負してますが、ときどきゆかりさんの心を推し量りかねるときがあります」
「迷宮入りですか、探偵さん」
ゆかりは額を押さえながら、ようやく閉店作業をしようと在庫表の書類を見だした。
「そうですね――ゆかりさんは、僕が扱ってきた事件のなかでも難易度が高いです」
「……さようでございますか。和樹さんに解けない謎、ないと思いますけどね」
「簡単に暴かせてくれないじゃないですか」
和樹は笑顔の仮面を張り付けて、彼女の背後に立った。そして、耳元に囁くのだ。
「――あなたに恋人ができるまで、僕は邪魔し続けようかな」
「は、はい!?」
「それか、僕たちがお付き合いすればWin-Winじゃないでしょうか?」
「ど、どこがですか!? 炎上どころか、天変地異! 怖い! 何もWinがないですってば!」
囁いても落ちないところに好感が持てるが、全力で否定されるとなんだか腹が立つな。
「僕はゆかりさんが好き、ゆかりさんは恋人が欲しい。ほらね? 互いに利益ばかり」
「……和樹さんめちゃくちゃ怖いぃぃ。私のまだ見ぬ恋路を邪魔しようとしている」
なぜこの人は自分をはなから対象外としているのか。
苛立ちも感じたが、このスタンスすら石川ゆかりらしいと思えば可愛く思えてきた。
「――まあ、和樹さんがおじさんになって、相手がいなかったら私がお婿さんにもらってあげますよ」
ゆかりはカウンターに肘をつき、真っ赤な顔をしながらこちらを一瞥してきた。
恥ずかしそうに顔を半分隠して、手元の書類は散らばったまま。
自分の笑顔が零れ落ちるのを感じる。
「はい。自他ともに認めるおじさんになる前に、白馬でお迎えにあがりますよ――姫」
「ひ、姫って! 和樹さんやっぱり馬鹿にしてるでしょ~~! 私ちゃんと待っているから、早めに王子様来て~~~っ!」
ゆかりはカウンターに突っ伏しながら叫ぶのであった。
和樹は愉快そうに笑いながら、どうやってお迎えにあがるかその算段を頭に描いていた。
姫をお迎えに上がるときは、ドラマティックにいきたいものだ。
だからその時まで――待っていて。
今回は突撃ラブな和樹さんを叩き折らなかったゆかりさんでした。
和樹さんは子供が産まれたら今度はゆかりさんだけでなく子供に近付く不埒な輩の排除にも余念がなくなります。
旅行先で乗馬体験コーナーとかあったら白馬をチョイスして幼い真弓ちゃんと二人乗りして姫扱いとか、普通にします。和樹さんですから。
進くんはその間、大好きなお母さんを独占できてウキウキです。




