369 ミルクティー色の恋
暗闇に星が瞬く穏やかな夜だった。
「和樹さぁ~ん」
気の抜けたゆかりの声がこぼれたのは、閉店準備もほぼ終えた喫茶いしかわの店内。
カウンターに突っ伏すとは、勤務中のゆかりにしては珍しい行いだ。
少し甘えたようなくぐもった声が届き、カウンターの向こう側で食器を棚にしまっていた和樹は思わず目を細める。
「どうしましたゆかりさん」
和樹の声に導かれるように、ゆっくりと顔を上げたゆかりの眉は八の字を描く。
その様に、視線を合わせた和樹は優しく苦笑して見せた。
「和樹さんを見てたら、ミルクティーが飲みたくなりました」
「え」
予想外の言葉に動きが止まるも、へにゃり、という言葉がぴったりと当てはまるかのようなゆかりの顔。
閉店作業中に手を止めたことが申し訳ないような。
けれども我慢できなかったような。
甘えたいけれど、甘えられない子供のような。
複雑な表情を浮かべるゆかりを目にした和樹は、ゆかりの笑顔が戻るのであればそんなこと容易いではないか、と棚にある缶に手を伸ばす。
「アッサムで良いですか?」
「えっ、良いんですか!?」
「はい。ゆかりさんのお願いならいくらでも」
「やったぁ!」
心の底から嬉しそうに笑うゆかりに、和樹の心までもが温かくなる。
笑顔の威力と温もりというものを、和樹はゆかりから教えられた気がするのだ。
「ミルクは後からにしますか? 先に? それとも鍋で?」
「お鍋で!」
ゆかりはカウンター席できらきらと目を輝かせ頬に手をつく。
嬉しそうに向けられる視線を感じ、和樹は隠し切れない笑顔を見せる。
ああ、何だか尻尾が見えるな。
「薄めですか? 濃いめですか?」
「濃いめが良いです」
「甘いのと甘くないの、どちらが良いですか?」
「甘いのでお願いします」
「かしこまりました」
執事宜しく胸に手をやり丁寧に頭を下げると、それを見たゆかりが可笑しそうに笑う。
鍋にお湯を沸かしてアッサムの茶葉を煮出す。望み通り、茶葉は少し多めに。
牛乳を加えて沸騰しないよう注意を払い、ゆかりが望むよう砂糖を加えて甘めに。
茶漉しで漉しながら温めたティーカップに注ぎゆかりの目の前に出すと、再びその丸い目がきらきらと輝いた。
嬉しそうに香りを楽しみ、その後ゆっくりとカップに口を付ける。
一口飲むと、心から幸せそうな笑顔が花開く。
こんな、何気ないことでとびきりの笑顔を見せてくれるのならば、いつだってその望みを叶えてあげよう。
幸せそうに綻ぶゆかりに気付かれぬよう、和樹は揃いのカップに口を付けた。
◇ ◇ ◇
「和樹さぁ~ん」
数週間ぶりの休暇は、あまりにも穏やかに過ぎていく。
何も予定を入れずに過ごそうと切り出したのは、妻であるゆかりだ。
せっかくの休みなのだから、どこか行きたいところでもあるであろうに。
「一緒にいられるだけで嬉しいの」
と、眩い笑顔を見せられた和樹は、その笑顔を誰にも見せぬよう腕の中に閉じ込めた。
そんなゆかりがテーブルに突っ伏しながら、何とも気の抜けた声を出した。
和樹はリビングで本を読んでいた手を止め、隣でへにゃりと潰れるゆかりに視線を移す。顔はまだ見れない。
「和樹さんのミルクティーが飲みたいです~」
まだ伏せたままの体。
視線だけゆっくりと合わせ、甘えたお願い。
この休み中、ゆかりがする初めてのおねだりだった。
その仕草に数年前の喫茶いしかわでの出来事を思い出した和樹は目を細める。
「かしこまりました。お姫様」
胸に手を当て丁寧にお辞儀をしてみせると、当時を思い起こさせるかのようにゆかりの笑顔がきらきらと輝いた。
あの頃と何一つ変わらない愛らしい笑顔に、和樹は綻ぶ。
ソファから立ち上がり、キッチンへと向かう。
その手にはあの時と同じ、鍋とアッサムの茶葉。
水を沸かして茶葉を煮立たせ、ミルクを注ぐ。砂糖は多め。
頭の中に浮かぶレシピは、あの頃と何一つ変わらない手順だ。
あの頃と変わったものは。
確認をせずとも、ゆかり好みのミルクティーを作れるようになったこと。
先ほどから嬉しそうに和樹の腰に抱き付きながら、その様子を眺めているゆかりの姿があること。
待ちきれぬのか、和樹のお腹に回されたゆかりの腕に力が込められる。
お腹辺りの服をぎゅっと握り締め、そわそわと落ち着かないゆかり。
背中に心地良い温もりを感じながら、和樹の笑顔の先でアッサムの色がミルクに溶けていく。
「お待たせいたしました」
ほんのりと温められたティーカップに注がれたミルクティー。
和樹の腰に抱き付いたままのゆかりごと、キッチンからリビングのソファへと移動する最中、妙に甘えん坊なゆかりに和樹は苦笑する。
ゆかりと、自分のミルクティー。
両手が塞がっているから、抱き締められないじゃないか。
二人並んだソファでは、カップを手に持ち、ゆかりが隣であの頃のように香りを楽しむ。
心から嬉しそうに綻びゆっくりとカップに口を付けた後、和樹に視線を合わせたゆかりは幸せそうに笑った。
和樹はその細い肩を引き寄せ、額に口付けを落とす。
「美味しい?」
「はい。すっごく幸せです」
言葉を交わさずともゆかりの笑顔が物語るその様に、和樹の心は温かくなる。
「和樹さんの、濃いめのミルクティーみたいな色のお肌を見てたら、時々すごく飲みたくなるんですよね」
こくん、ともう一つカップに口付けて、ゆかりが和樹に笑いかける。
「あの時は最初、なに言われたか分からなかったよ」
ゆかりの肩を抱き寄せたまま、和樹もカップに口を付ける。
突然、ミルクティーが飲みたくなったと告げられた時の自分は、疑問符たっぷりの表情を浮かべていたのだろうな、と和樹は苦笑する。ミルクティーと肌の色が結びつかなかったからだ。
「だぁって~。いっつも綺麗だなって思ってたんですもん」
と、少し恥ずかしさを乗せた視線が和樹に届く。
「で、ミルクティー飲みたいなって思ってたんだ」
「はい。あっ、和樹さんが美味しそうだなってことじゃないですよ!?」
慌てて否定するゆかりが可笑しくて、和樹は思わず肩を震わせる。
「優しい色で、綺麗だなって思ってたんです」
カップを持つゆかりの左手には、まろく輝く自分と同じリング。
互いを繋ぐ煌めきが、和樹の心に温もりを降らせていく。
「ありがとう」
君がそれを望んでくれるのなら。
君が笑顔でいてくれるのなら。
君が喜んでくれるのなら、何度だって淹れてあげよう。これから先、何度でも。
「こちらこそ。ありがとうございます」
優しく微笑むゆかりの頬にキスを落とす。
すり、と和樹の手に重ねられたゆかりの華奢な手を和樹は握り締める。
今、言葉にできぬほどの温かいひとときをくれるゆかりへの、愛を込めて。
あの頃からは想像もできなかった、穏やかでかけがえのない優しい休日。
心から幸せそうに笑うゆかりとの、ミルクティー色の穏やかなひととき。
今日からお仕事再開のかたも多いでしょうが、ほぼ休憩のお話。
泡立てたミルクを使うカフェオレでも良かったんですが、なんとなくミルクティーのほうが休憩のイメージが強かったので、こちらにしました。
というかね。
コーヒーで休憩だと、和樹さんの場合、こっそりしっかり習得してきた高度なラテアートを披露しそうだし、ゆかりさんからのおねだりスタートにならない気がしてしまったのです。




