364 あたたかいうちに
「甘やかしてください」
久々に来店した彼は今まで見たことないほどくたびれた顔をしていた。ぼさぼさで伸びっぱなしの髪、目元の濃すぎる隈、やつれた頬、ぼろぼろのスーツと視線を下に落としていき、お疲れ以外の不調はなさそうだと確認してから私は席を勧めた。
緩慢な動きで腰を下ろした彼はカウンターに身を乗り出すような勢いで「甘やかしてください」と再度告げた。その目に鬼気迫るものが見えた気がして、私は「お疲れですねぇ」と苦笑し、既に片づけていたカップを手に取る。
「そうなんです。僕、本当に頑張ったんです、本当にお疲れなんです」
あまり自分のことを語らない彼がそんな風に言うのは珍しい。ぐったりとカウンターに頬をつけてこちらを見上げる様は怪我をした犬みたい。でも表情が欠落しているというのに目だけが不釣り合いなほど爛々と光っている。
しかたないなぁ。その姿に絆されたわけではないけど、こんなにもへとへとな彼を労ってやりたくて、私は閉店時間を過ぎた喫茶いしかわの中で久々にカフェゆかりを開店する。限られたお客さましか入店できないこのお店の会員は今のところ彼だけだ。そして、きっと今後増えることもない。
さてと。甘やかして、なんて漠然としたリクエストにどう応えるべきか。少しの間考えたふりをして、私は初めから思いついていたものの準備に取り掛かる。牛乳を温めて、粉を落として、さほど時間をかけずに完成したそれを彼に届ける。どうぞと笑いかけると頭を起こした彼が少し恨めし気な目を向けるから、私は頬が緩むのを隠さずにカップの中に白を三つ加えた。
「おまたせしました。ゆかり特製、ミルクココアです! 今日は特別にマシュマロ入り!」
甘い匂いは昔の記憶を呼び起こす。彼が喫茶いしかわの店員として隣にいたとき、嬉しいことや落ち込むことがあるとよく作ってくれた。何の変哲もないミルクココアに彼はいつもひと手間加えることで、私を労わってくれていた。同僚だったときには一度も振る舞えなかったその一杯は、再会後、ようやくごちそうすることができるようになった。それがとってもうれしいから、カフェゆかりのお客様は彼しかいらない。
浮かべたマシュマロがゆっくりと形をぼやけさせていく。その様子をぼんやりと眺めた彼は、古びたブリキのおもちゃのようにぎこちなく首を振った。
「……足りない」
いつもはもっとよく動く口は、一言発して閉ざされた。私はふむ、と考える。彼はもっと甘やかしてほしいみたいだ。そうわかる程度にはこの特製ドリンクを振る舞ってきた。それならば。
しかたないなぁ。本日二度目の感想を心の中で呟く。
だって、ふてくされたみたいな、そんな気安い感情を見せてくれる彼がかわいくてどうしようもないから。ふふっと笑ってしまうと胡乱な目つきが刺さる。それすらも今はかわいいのだけれど、それを言ったらこの人はたぶん拗ねてしまうから。私は逃げるように冷蔵庫の中を覗き込んだ。穴が開いてしまうと錯覚するくらい遠慮ない視線を背中に受けて、彼から顔が見えないところで私は口の中で言葉を転がした。
「……かぁわいい」
白くてふわふわのマシュマロに、きらきら輝くはちみつ、ふんわりなめらかホイップクリーム、カラフルポップなチョコスプレー、とっておきのぴかぴかきらめくアラザン。シンプルなミルクココアに施されたトッピングたちは絢爛豪華で、もし彼が今をときめくJKだったらスマホを片手に「映え~」とはしゃいでいたかもしれない。でも残念ながら彼はJKではないし、なんならテンションだって低いまま。「映え」の二文字すら口に出すのが億劫そうで、それどころか目を伏せることで不満をアピールしている。
「ええ? まだですか?」
そんなやりとりを何度か繰り返しているうちに、SNS映えするミルクココアはずいぶんと無残な姿になってしまった。生クリームはでろんでろんに溶けていて、鮮やかなチョコも色が混ざってなんなら汚い。かわいさのかけらもない。
甘やかしての言葉通り甘いものばかり乗せてしまったけど、大丈夫かな。見た目と味を想像して、今頃になって心配になる。男の人にしては甘いもの好きな方だと思うけれど、そろそろ四十路な人がこんな時間にこんな致死量ぐらいの糖分をとっても平気なのかしら。
三十を迎えると身体がそれまでとは変わってくるというのは、同じくその年齢の仲間入りをした時のお兄ちゃんがしみじみ言っていた言葉だ。ちなみにお兄ちゃんのその言葉は二十三歳、二十五歳、二十七歳のときにも聞いた。私もなんだかんだ実感している。
疲れたときには甘味がいいと言うけど、さすがにやりすぎかもしれない。彼は食べ物を粗末にするような人ではないが、本当に飲んでもらえるのか不安になってくる。
けど、当の本人はまだまだねだってくる。勇気を出して「もうこのくらいにしておいた方が……」と忠告したら、生気のない二つの目にじーっと見つめられた。怖かった。
だからもう私はあきらめて、彼のお眼鏡にかなうものを探している。今日の彼はほしがりやさんだ。ほしがりやかずきさんだ。そしてそういうときは黙って糖分、だ。
休憩時間に食べる用のバラエティパックのお菓子を取り出す。カップの中の試される白い大地にきのこを二本植えて、バランスを確認してもう一本追加した。どさくさに紛れて私の胃の中にも二本。目敏い彼にはすぐにばれていたようだけど、本数は彼の方が多いからセーフだと勝手に判断した。
なんとか再びかわいらしい見た目を取り戻したココアに一安心する。飲みづらくなっちゃったけど、彼はきのこ派だからこれもセーフだろう。
彼にココアを差し出してエプロンをとる。もうこれ以上何もできないという意思表示だ。
ふだんの聡い彼ならすぐに察してくれるだろうけど、今はまったく頭が回っていなさそうだからどうだろう。いつもはまっすぐ伸びている背中を丸めて、肺の空気どころか魂までも飛んでいってしまいそうなくらい重い息を吐いて彼はきのこのチョコレート菓子を一つ摘まんだ。
「……まだ足りない」
「もうなにもでませんよぉ」
駄々をこねる子どもみたい。少し尖らせた幼げな口元と着ているスーツがアンバランスだ。珍しい態度に困って苦笑いをすると、先ほどより険のとれた声が「もっと」とねだった。
「もうだめです。喫茶いしかわの食材がなくなってマスターが泣いちゃう」
「僕と喫茶いしかわどっちが大切なんですか」
「ええ? それ聞きます?」
思いもよらない問いに真顔になってしまった。言ってから失言だと気づいたように彼の視線が彷徨った。明らかなしょぼくれ顔がおもしろくて、私は笑いそうになるのを堪えて片付けを始める。やがて彼は俯くと私の立てる小さな物音にかき消されてしまうほどの小さな小さな声で「もっと」と懇願した。
「これ以上甘くしたら胸やけしちゃいますよ。せめて一口飲んでからおねだりしてください」
わざとツンとした態度をとってみせた。少し焦ったような反応がかわいくていじわるしてしまう。なぜかって、そんなの。この人のこんな姿なかなかお目にかかれないんだもの。
「だってまだ足りない」
「飲んでないのに?」
「足りない。甘くない」
「ええ?」
まじまじとココアを見る。いや、明らかに甘いと思うけど。それはもう、某コーヒーショップの何とかフラペチーノに勝るとも劣らない程度には。
「じゃあゆかりさんが確かめて」
「いやいや! 私は今甘いのほしくない」
「飲んで」
「……はい」
目が本気だった。光を宿していない瞳は、それなのにぎらついていて逃げられないことを悟る。この奈落の底のような昏い目に囚われるならおとなしく降参する方がいい。
目の前のココアはもう湯気も立っていない。甘ったるそうなそれを手にとる。いったい何キロカロリーくらいあるんだろう。明日の体重が怖い。でもそれよりもっと目の前のこの人が怖い。
覚悟を決めてカップを口に運ぶと溶けた生クリームが喉に絡まった。舌にまとわるどろりとした生ぬるい感覚が気持ち悪くて顔を顰める。甘い、というより本当に甘ったるい。それにちょっと不快。
「もうっ! すっごくあま──っ!?」
「本当だ。おいしい」
私の文句は彼の口に飲み込まれた。カウンターの向こうでさっきからぴくりともしていなかった彼は、音もなく目にも止まらない速さで距離を縮めていた。びっくりして二の句を告げられないでいると、今度は私の唇にぺろりと熱が這った。
「うん、これがいい」
私の特製ココアより甘くとろけるような声が耳をくすぐる。あんなにずっと表情が動かなかったのに、今はうれしそうな雰囲気が身体中から溢れている。
「……なにそれ」
文句の代わりに口から出たのは、先ほど飲んだミルクココアをそのまま溶かしたような声だった。
自分でもわかるくらい甘い響きを彼に全部拾ってもらいたくて、カウンターに身を乗り出す。くすくすという笑い声に乗る甘さの正体なんて、もうわかっている。
「キスがほしいなら、初めからそう言ってくれればよかったのに」
「だって、両方欲しかったから。バレンタインもらえてないし」
締まりのない笑顔なのにとってもかっこいいんだから、イケメンは本当にずるい。疲れた彼が見せるその表情は私だけに許された顔だ。あまりにもうれしそうにしあわせそうに垂れ下がる目尻に私はいつもむずがゆくなってしまう。うれしくて、しあわせで、きっと今の私は彼と同じ顔をしている。
「帰ってこなかったの、そっちでしょ?」
甘さを逃がしたくてわざと責めるような物言いに変えたけれど、全然怖くないし、怒りすら乗らなかった。彼もそれをわかっていて甘えるように口元を緩ませた。
「うん……ずっと会いたかった」
そう。この人と会うのは本当に久しぶりだった。新しく考えた喫茶いしかわのスイーツは、この人の口添えをもらう前に店頭に並んだ。この人のいない寒さの残る季節が私は寂しくてたまらなかった。
でももう大丈夫。人肌恋しい冬はもう終わった。慰めるように彼の頬が擦り寄せられる。それだけで、私の寂しさは溶けていく。やっと春が来た。
彼の瞳に春のひだまりに似た熱が滲む。そこに映る私はやわらかく笑っている。しかたないなぁ、なんて。愛おしくてたまらないというように。
さらに気持ちを込めて笑顔を向けると、穏やかな瞳が私を捉えたまま閉ざされる。カウンターを隔てているというのにさらに力強く抱きしめられた。この距離がもどかしくて、私も手を伸ばす。
「帰ろうか、奥さん」
首元に熱い息がかかる。
「明日は休みでしょ?」
そう問う声に混じる色に気付いたけれど、逃げられないことは既に身を持って理解している。焦がすほどの熾烈な熱なんてない、とろけるような眼差しに私はもうとっくの昔に囚われているから。
「ちゃんと残さず飲んでくださいね」
しかたないなぁ、の言葉に彼は楽しそうに目を細めると、一息でココアを煽った。カロリーを気にしそうになったけど、きっと明日の朝にはその分以上に消費されているだろう。
この後、できるだけ早くカップを洗って、戸締りを確認して。そしたら二人で帰ろう。私たちのおうちに。でもその前に。
「──おかえりなさい、和樹さん」
愛する旦那さんに送ったキスは何よりも甘い味がした。
遅ればせすぎるホワイトデーネタなのにチョコ(現状維持)とマシュマロ(嫌い、さっさと消えて)で書いちゃったけど、別にゆかりさんにそういう意図はないのです。
後日気付いて頭を抱えたり和樹さんに拗ねられて別のおねだりをされたりはしそうですけれど。




