359-1 おいしいしあわせ(前編)
ゆかりは悩んでいた。
うーん、と顎に手を当て、頭の中に思い描くのは、現在の冷蔵庫の中身。
「さて、どうしたもんか」
ちらりと、対面キッチンの向こう側に見える人物に、ゆかりは再度うーむ、と唸る。その人物は、ほぼ一ヶ月ぶりに帰宅した夫、和樹。
いつもよりも緩慢とした動きでネクタイを緩める姿に、はてさて、困ったなぁ、と声には出さず、ゆかりは冷蔵庫を睨み付けた。
ゆかりが和樹に出会ったのは職場である喫茶店だった。なんやかんやと紆余曲折あり――正確には、曲がりくねった道を真っ直ぐ突っ切ってきた方が正しいのかもしれない日々を過ごし、気付けば結婚し子供まで授かった。和樹との結婚に一番驚いたのは、きっとゆかり自身だろう。普通の常連客と看板娘として接していた時には一ミリも想像していなかった。
さらに言えば、和樹との結婚生活は想像していたよりも一般的とは言い難かった。けれど、結婚する前に家を長期間空けることもあるだろうということは聞いていたので、和樹が帰ってこない日が続いても、こういうことなのね、と納得するばかりで、寂しさはあれど、驚くことはなかった。生きているのか、不安になることもあったが。
和樹の帰宅率はまちまちだ。一週間、毎日連続で帰ってくることもあれば、まるっと一週間帰ってこないこともあった。けれど、今回のように一ヶ月も帰ってこないと言うのはなかなかない。
不在が十日を過ぎた頃、寂しさより不安が勝った。けれど、半月もすればしばらく帰ってこないみたいだし、まあ気長に待ちますか、といろんな感情を通り越して呑気に考えるゆかりがいた。
(だって、帰ってくる、って言ってたし)
和樹の言葉を思い出す。だったら彼の言葉を信じ、ただ待つしかないわよね、と和樹から連絡がないことに湧き上がってきそうになる不安を紛らわせた。
ゆかりは彼のいない時間をのんびりと――とはいえ成長する子供たちと忙しなくも楽しい日々を――過ごすことにした。
そんな生活がしばらく続くと、その生活に慣れていく。だから、油断していた。
夜中の十一時を回った頃。読んでいた雑誌から顔を上げ、私もそろそろ寝ようかしら、と立ち上がろうとした時だった。ピンポン、とマンションの入り口ではなく、玄関横のインターホンが鳴らされた。こんな夜遅くにインターホンを鳴らす人物なんて、一人しかいない。
慌てて立ち上がり、玄関に駆け寄る。それからドアスコープを確認することなくドアロックを外し、扉を開けた。扉を開けた先に立っていたのは、ゆかりが想像していた通り、久しぶりに見る夫の姿だった。
「おかえりなさい!」
深夜に関わらず、自分が思うより出た大きな声に慌ててはっと口を塞ぐと、そんなゆかりに和樹は可笑しそうに笑う。
「はい、ただいま」
その後、ドアスコープを覗かずに玄関を開けたことを見抜いた和樹に少しのお叱りを受けたあと、ゆかりは久しぶりに見る和樹の顔をまじまじと見た。少し疲れた顔をしているが、和樹が少し疲れた顔をしている時は、かなり疲れている時だとゆかりは知っている。いつもと変わらず綺麗に伸びた背筋だが、動きは少し緩慢でいて、スーツを脱ぐ動きにもどことなく覇気がない。
「お疲れさまです。お風呂、まだあったかいと思うので入ってきてください」
「ありがとう。ありがたくいただくよ」
「ごゆっくりどうぞ。あ、お腹減ってます? 何か食べますか?」
「うん。何か食べたい」
何か食べたい、と少し食い気味で頷いた和樹に、あら、とゆかりは何かを察する。
ゆかりは和樹に仕事のことを詳しくは聞かない。一ヶ月ほど帰宅できなかった和樹が海外に滞在していたことは知っていても、実は数日前に帰国したというのに書類上の手続きだなんだとデスクに張り付け状態で、ろくな飯にありつけていない状態だということは知る由もない。ないのだが、推理癖のないゆかりでも、現在の和樹の様子から、お腹を空かせているのは察せられた。
それなら、和樹がお風呂に入っている間に、何か作らなくては。キッチンに立ったゆかりは、冷蔵庫の前に立ち、開けようとして、顎に手を当てた。
「どうしたもんか……」
時間を見れば時刻は深夜。今日は長風呂しそうもない和樹がお風呂から上がってくるのは、多く見積もっても二十分くらいだろう。久々の帰宅に気合を入れて料理をしたいのはやまやまだったが、いかんせん時間がない。
それに加えてこの時間帯。和樹もいくら見た目が若いからと言って、年齢は余裕で三十を超えているのだ。この時間帯に、あまりがっつりしたものを食べさせるのは良くないだろう。
うーむ、と唸っているうちに、和樹がお風呂場に向かっていくのを横目に確認した。
「そうだ、着替え!」
慌てて寝室に和樹の着替えを取りにいき、和樹の後を追うようにお風呂場に入った。ゆかりがお風呂場に着くと、浴室からは既にシャワーの音が聞こえてきており、再び慌ててキッチンに戻った。
「連絡もらえたら、少しでも凝ったもの作れたんだけどなぁ」
一人ごちながら、ゆかりは腰に手を当てた。
「久しぶりなのに簡単なものになっちゃうけど……」
よし、とレシピが決めたゆかりは「いざ!」と冷蔵庫を開けた。




