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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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358 ウィンクの達人

 同棲始めてからしばらく経った頃のお話。

「和樹さんて、なんでそんなにウィンク上手いの?」

 この一言が、その日のスケジュールを決定づけてしまった。




「だめだめ、顔が歪んじゃってる」

「ええー?」

 午後三時のひだまりは、ちょうどブランお気に入りの場所を温めていた。そこで気持ちよさげに昼寝をしているブランの耳が、スマホのシャッター音に合わせて時折ピクリと動く。起きる素振りは一切なく、すぴ、すぴ、と鼻を鳴らしている。


 提示された画面を見て、ゆかりはその顔を一層しかめた。

「わあひどい顔。我ながらブサイク」

「可愛いよ」

 心から思ったことを口にしたのに、ゆかりのしかめ面は直らなかった。

「お世辞でも今は嬉しくない。和樹さん、もう一回やって見せて」

「また?」

 せがまれて、もう何回目だと思いながらも、笑顔は崩れない。要望に全力で、愛を持って応える。


 喫茶いしかわの同僚という立場だった頃はこれに一切なびかなかったが、現在、可愛い彼女は今、自分の部屋で百面相の真っ最中だ。



 今日のデートは、昼上がりのゆかりを午後は有給を取った和樹が迎えに来るという形で始まった。

 ランチタイムは混雑しており、マスターとゆかりと、最近たまに喫茶いしかわでアルバイターとして手伝ってくれる聡美と遥が、忙しそうに立ち回っている。

 そこへ現れた和樹に、四人は笑顔を見せたものの構う余裕はなかった。それは和樹も分かっているので、おとなしくカウンター席の隅に腰を落ち着けていたところ、やって来たのがサクラをはじめとする小学生常連客の皆だった。


 彼らは相変わらず仲が良さそうで、大人たちには大変微笑ましい光景である。

 それは幾度か彼らの遊びに付き合ったことのある和樹にとってもそうだった。

「やあ、元気?」

 声をかけると子供たちは破顔した。こういう反応も嬉しい。

「うおお、和樹兄ちゃんだ!」

「とっても久しぶり!」

「ゆかりお姉ちゃんを迎えに来たんだよね」

 三人三様の挨拶に笑って答えながら、サクラの言葉には、さすが女の子は鋭いと苦笑する。ゆかりとの交際をオープンにし、堂々と喫茶いしかわにゆかりを迎えに来られるのはやはり楽しく嬉しいものだった。


「そうだよ。君たちは?」

「宿題~」

 渋い顔をしながら、ノートとドリル帳を見せてくる。

「おうちだとすぐそこにおもちゃがあるから、つい遊んじゃうんです。それで喫茶いしかわに来ました。ここでお勉強してるお兄さんやお姉さんを見かけることがあるから」

「だから、あたしたちもやってみようってなったの」

「じゃあこっちにおいで。テーブル席は全部埋まってるから」

「そうみたいですね」

 そうなると、自然と勉強会が始まった。子供たちの「分からない」に、和樹は真正面から向き合い、解き方を導いた。それは存外熱中したものになり、気が付いたら、エプロンを外したゆかりが待っていたのだった。



 ノート一式を鞄にしまい、ありがとう、ごちそうさまでしたと、和樹とマスターにお礼を言って、子どもたちは店を出て行った。

「ごめん、待たせた?」

「ううん。私も今終わったところだから」

 マスターと聡美と遥に後を引き継いだゆかりと店を出る。

「和樹さん、教えるの上手なんですね。私聞きながら感心しちゃった」

「そう? でも懐かしくてちょっと楽しかったな」

「あと、褒めるのも。ああこれはモテるなあって思いました」


 ここで冒頭のセリフに戻るのだ。


「和樹さんて、なんでそんなにウィンクが上手いの?」

「ウィンク?」

「えっ、もしかして無自覚にやってたの」

「無自覚じゃないよ。でもまあ、なんかやってたね。でもそんな、回数はやってないと思うんだけど」

 頬をかく。指摘されたら、いささか恥ずかしいものがあった。

「回数じゃないです。普通の人の普通の生活でウィンクすることなんてほとんどないもん」

「そうかな」

「そうです。子供たちに、そう。そうだよ。正解。よくできたね。ぱちんって」

 それを再現しようとしたゆかりの、あまりの再現率の低さ。


 和樹は街中で盛大にツボった。進まない会話に、ゆかりが不満を言うのも当然の流れだった。

 特に計画を立てていなかったので、そのまま愛車に乗り、途中でコンビニに寄ったりなんかして、自宅に戻ってきたのだった。



「片目つぶったら、そっちの方向に唇が持ってかれちゃうの。なんとかならないかなあ。これすっごい歪んでる」

 提示された画面に幾度目かの成果を確認しながら、ゆかりは自分の顎をなでる。

「慣れだよ、慣れ」

「ウィンクし慣れるような華やかな人生歩んできてないもん。和樹さんとは違うの」

「僕だって華やかじゃなかったよ」

「本人申告は信用しておりませーん」


 生意気な口をきくので、両頬を摘まんで引っ張る。

「マッサージしたらいいかもしれませんよ」

「ぎゃー。和樹さんそれやめてえええ」

 意に反してしっかりした発音だった。

「言い方そんなに変わらないね。つまらないなあ。きゃじゅきしゃん、みたいになるかと思ったのに」

「なんでそんな残念そうなの。それに、それはこっちでしょ」

 言うと、ゆかりは自らの唇の端を広げて見せた。


「はうちはん。ほら、ね?」

 なぜか自慢げに言われる。

「学級文庫、のやつでしょ。ん? あれ、ちょっと待って。和樹さん、私に何を言わせようとしてたの」

 ぶはっと吹き出す。これだから、彼女と会話中に何か飲食するのは危険なのだ。


「他意はなかったよ。ただゆかりさんをふがふがさせたかっただけ」

「それの何をもって他意はないと言えるのか分かんない」

「学級文庫って言いだしたのゆかりさんじゃない。僕はただ、発音の違いを知りたかっただけなのに」

「へりくつー」

「はいはい。さ、頑張って」


 飽きもせずスマホをかざす和樹に、ゆかりは眉をしかめた。

「私がウィンクしたところで誰が得するの」

「僕」

 ゆるやかに笑んでみせる。目を細めて、まっすぐに、熱っぽく見つめると、さっと視線を逸らされた。その耳は赤い。はい、こちらの勝ち。

「ずるい」

 向き直る唇が尖る。

「やっぱり華やかな青春時代を送ったでしょ」

「そんなことないって。ほら、早く」


 ゆかりはいかにもしぶしぶといった態で座り直した。それから両頬をぱんぱん、と軽くたたく。なんでそんな、試合に臨むようなことをするのかさっぱりわからない。分からないが面白い。面白くて愛おしい。

「……えいっ」

 今度は両目が閉じた。またか、と思ったがその一瞬が隙だらけなので唇をさらう。驚いて見開いた顔が、やっぱり赤くなっていく。

「何するのー!」

「次から両目閉じたらこうするのどう?」

「え、でもそれって、ごほうびなんだかペナルティーなんだかわかんない」

 ああもう。この娘は。本当にもう。


「……ゆかりさんはどっちがいい?」

「どっちでもいい。和樹さんが思う方で」

 限界だった。腕の中に閉じ込める。間抜けな悲鳴も含めて。

「君は、僕を振り回す天才だよ。本当に」

「なあにそれ」

 くすくすと笑うゆかりの肩が揺れている。首筋に鼻を埋めると、シャンプーか柔軟剤か分からないが、彼女の匂いが立った。ひどく甘く感じられて、深く息を吸う。

「……押し倒していい?」

「それ、答えいりますか?」

 可愛くない口答えに、抱きしめる力を強める。ギブギブギブ! と、背中を叩かれても離してなんかやらない。


 だってこれまでの経験に基づいた、まぎれもない正論だったから。


 ウィンク、日常生活ではしないですよねぇ。できなくはないけれど。

 簡易視力測定で片目を閉じるとかはなくもないけれど、それはウィンクって呼ばないしね。

 せいぜい学生の頃にウィンクキラーってゲームした時くらいかな。わ、なんか懐かしい。


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