356-1 欲張りでしあわせ(前編)
和樹さんの自覚が進みつつある頃の話。
円を描きながらゆっくりと注ぐと、ふわりと漂う香り。少量のお湯をそっと注ぎ、全体にお湯を含ませて蒸らしていく。
最初は少しずつ時間をかけて、茶色の滴が落ちてくる様子を伺いながらもう一回し。中心でお湯を含んだコーヒーの香りがさらに店内へと広がる。数度に分けて優しく注いだお湯は、芳醇な香りと共にカップへと落ちていく。
瞬きする度にその長い睫毛が揺れ、その丸い目が細められて口の端が柔らかく上げられた。
「ゆかりさんってコーヒー淹れる時、本当に嬉しそうな顔しますよね」
「えっ、見てたんですか!?」
雲一つない澄み切った青空。喫茶いしかわのテーブルを照らす陽射しは、時間を重ねるごとにより強くなるだろう。今日は冷たい飲み物も多く出るかもしれない。
ペーパータオルを補充しながら開店準備をしていると、和樹の鼻を掠める、本来であればこの時間に似つかわしくないはずの香り。まだ開店前だ。
カウンターの先に立つ彼女の姿は真剣で、でもどこか幸せそうで。決して混ざり合わず、中途半端にこの場に立たずむ自分とは違い、彼女のその柔らかさはこの風景にとても馴染んでいる。
「そろそろ開店準備も終わるかなぁと思って。今日は私が当番ですし」
えへへ、と悪戯っぽく笑い、ドリップコーヒーの袋を顔の横に掲げてみせる。
いつだったか、買い出しの際に立ち寄ったいつもとは違う店。会計を終え、袋に荷物を詰め込み出ようとした矢先、入る時には微塵も気が付かなかった、そこに併設された新しいカフェが目に留まった。レジの前には彩り豊かな数種類の紅茶と菓子、コーヒー豆が陳列されている。
普段なら気に留めることなく通り過ぎるのだが、前日に彼女が「色んなコーヒーを飲み比べたい」と話していたのを思い出した。
同じ豆でも出している店によって味も香りも異なるだろうし、それがそのお店の持ち味にもなっている。限りがなく無謀な話かもしれないが、見つけては少しずつ購入して味わっていると笑顔で話していた。
そんなことがふと、頭を過った。
気付いた時には、その店オリジナルのドリップコーヒーをいくつか手に取り、淹れ方メモなるものまで丁寧に入れてくれた紙袋を手にしていた。もちろん、これは自分持ちだ。
その日の買い出しは、初めは少量だったのにも関わらず、後からマスターが思い出したとかでどんどんと増えていき、気付けば両手が塞がれるほどだった。彼女は休みでマスターが一人店番をしており、早く帰らなければならないのに。自分の両手を見てみればそんな余裕すらないことは明らかなのに、なぜまた自分はもう一つ荷物を増やしているのか。
自問自答したものの、この問いに対しての答えはきっと自分の中で優先順位が低いものだと判断し、車のアクセルを踏んだ。
翌日、開店準備は彼女と二人だったため、そういえばとロッカーに置いたままの紙袋の存在を思い出す。今日、マスターが来るのは午後からだ。紙袋は一つしかないから、渡すなら今だろう。
「ゆかりさん、これどうぞ」
「え? なんですか?」
僕の言葉に、モーニングの準備をしていた手を止め、目の前に掲げられた紙袋に首を傾げる。丸い目が瞬いた。不思議そうにしているその顔が可笑しくてつい笑ってしまうと
「ばかにしました?」
と今度は頬を膨らませた。
「そんなことないです。どうぞ」
まだ少しだけ頬を膨らませつつもクリーム色の紙袋を受け取り、封を止めてあったシールを剥がす。中を見た途端、今度はその目が大きく見開いた。
「昨日、買い出しに行ったら、新しくお店がオープンしていたので」
「えっ!?」
「ゆかりさん、飲み比べしたいって言ってましたよね?」
「そのお手伝いをさせてください」
と告げると、きらきらという表現はこういう時に使うんだろうなと思うほどに目が輝いた。可笑しいな、ほんと。素直で困る。
「えっ……良いんですか!?」
「はい。どうぞ」
「ほ、本当に!?」
「本当です」
信じられないとでも言うかのように、何度も尋ねては何度も目を輝かせる。
「嬉しい! ありがとうございます!」
と眩しいくらいの笑顔と一緒に。
予想以上の反応に驚くも、そんなに喜ばれるとあの時、足を止めて良かった思える。
「あのっ、今飲んでも良いですか?」
「え、今ですか?」
「はい。嬉しくって我慢できなくて」
彼女からの予想しなかった問いに、今度は自分が先程の彼女のように驚く。我慢できない子供みたいだと恥じている素振りを見せながらも、どうやら欲求には勝てなかったらしい。恥ずかしそうに頬を染めながら問う彼女に対して、反論する余地はない。
おそらく、彼女とマスターが一緒の時も、開店前の一服というのはないのだろう。準備をしてそのまま客を出迎える。自分の時もそのパターンだ。
心の広いマスターだ。それが許されていないということではなく、ただ単に今までその機会がなかっただけなのだ。けれど、初めてのことをする時は、ほんの少しだけ罪悪感も生まれる。
時計に目をやり開店までの残り時間を確認する。開店準備も数えるほどしか残っていない。十分に一休みできる時間はある。
「今日はマスター午後からですし。良いんじゃないですか?」
秘密にしておきますよ、と告げれば心の底から嬉しそうな笑顔が届いた。
「あのっ、もし良ければ和樹さんも一緒にどうですか?」
「え、でもゆかりさんにプレゼントしたものですし」
「私、これ和樹さんにもらえてすっごく嬉しかったんです。だから、嬉しいことは一緒に共有したいんです」
曇りのない目で見つめられ、純粋すぎる反応に一瞬怯むも、きっと彼女には気付かれていないだろう。
「共犯、ですね?」
意地悪そうに笑って見せると、全くそんなつもりはなかったのか一瞬呆けて、すぐさま理解したのか顔を真っ赤にした。マスターに隠れて朝の忙しい時に休憩だなんて悪いことをしてる、なんて。そう思ったのか、彼女は面白い程に動揺した。
「そ、そういう意味じゃないです!」
「仕方ないですね」
「ちょっ! ほんとですよ!? 本当にただ一緒に飲みたかっただけですからね!?」
「嘘ですよ。そんなに喜んでもらえて光栄です」
そんな数週間前の出来事が今、彼女が淹れてくれているコーヒーの香りと彼女の笑顔に導かれるように蘇った。
それからというものの、彼女と二人きりの、開店作業終了後から開店までの、ほんのわずかな時間。マスターには内緒でこっそりと持ち寄り、交代でお互いにコーヒーを淹れ合う。
嘘のような穏やかなひと時。今日は彼女が当番だ。
「今日はですね。この間カフェに行った時に見つけたやつ……と思ったんですけど。和樹さんからもらったやつにしてみました」
彼女が手にしているのは、それこそ今朝、彼女に渡した見覚えのある袋。
面倒な営業先からの帰り道。小さい、個人で経営しているようなコーヒー専門店を見つけた。
大した収穫を得られず無駄足に終わった車内。気の立った取引相手との駆け引きから解放されたためか、一つため息をついたところで赤信号に掴まる。うんざりするほどの土砂降りだった。ワイパーが拭う雨粒は止むことなく、より一層強さを増す。明日は喫茶いしかわだ。朝からシフトは入っている。彼女と一緒に開店作業をし、夕方には一度会社へ行かなければならない。
雨音越しに点滅する信号に視線を移すと、その先に淡い色の看板が立っていた。
初めて通った道ではないが、細い道にそんな店があるなんて初めて知った。気付いた時には、その光に誘われるように、ウィンカーを左にあげていた。
ふわりと微笑みながら「どうぞ」とカウンターに置かれるカップからは、コーヒーの香りが溢れる。ゆっくりと味わうことができる時間があるなんて、なんて贅沢なんだ。椅子を引いて腰掛けると、その隣に彼女がゆっくりと座った。
彼女の細い指がカップに絡められ、ゆっくりと香りを楽しむかのように目を閉じる。
嬉しそうに微笑む姿を目にして、きっとこのコーヒーは彼女のお気に入りの一つになるのだろうなと思った。
彼女にならって丸みを帯びたカップを手に取ると、香ばしさの中にも彼女のような甘い香りがした。口を付けると喉を通るのはちょうど良い温度。彼女の丁寧さを感じられ頬を緩める。彼女が入れるコーヒーは、どんな豆でもどこか少し甘さを感じられるのは不思議だ。
「美味しいですね」
ほろりと零れた僕の言葉に、彼女が隣で嬉しそうに笑った。
「はい! 私の中のトップスリーに入りそうなくらい好きです!」
ほら、やっぱり。予想通りの反応に気付かれないよう頬を緩めてもう一口。
穏やかで勘違いしてしまいそうになる一日の始まり。自分には不釣り合いなほどに、ゆっくりと流れていくひと時。ここは自分のいるべき場所ではないと頭の片隅で思いながら、この空間が当たり前にすらなっている現実もある。




