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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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354 君が見る世界

 途中で視点が変わります。

 彼女の目を通して見る世界は、どれほどの輝きに満ち溢れているのだろう。


 ◇ ◇ ◇


 はあ、と一つあからさまなため息をついて、ゆかりは曲げてしまいそうになる自分の心を強く律した。

 駄目だ、ここで折れてしまっては。

 ただでさえ彼の前では何度も自分の意見を曲げざるを得なかった。

 それは決してゆかり自身が意図したものではなかったはずだ。

 けれども、気付けば彼の掌の上でくるりと転がされ、彼の思惑通りに物事が進んでいたことは数知れず。


 だからといって、ゆかり自身が不快な思いをしたことがあるかといえばそうでもない。

 その大半が、気付けばゆかりもその状況をすんなりと受け入れ、むしろ楽しむ状況にまで持っていかれる。

 だが、今回ばかりはそれではいけないのだ。


「ねぇ、和樹さん」

「なんですか、ゆかりさん」


 意を決して発したゆかりの言葉に、和樹はいつもと変わらずごくごく自然に返答した。それがゆかりはなぜだか妙に悔しかった。

 彼はいつもポーカーフェイスだ。人当たりの良い笑顔を浮かべ、けれどもその先には入り込ませない鉄壁のポーカーフェイス。

 嫌がるのであれば無理にこじ開けようとは思わないのに。堂々と突っぱねてくれればいいのに。

 それなのに、彼は時々よく分からない行動をする。


 例えば今みたいな状況だ。まったくもって理解ができない。


 何重にも鍵がかけられ、厳重に管理されているかと思いきや、こちらが油断するとするりとその扉を開け、その中へいとも簡単に引き込もうとする。

 それがどのタイミングなのか。何がきっかけなのかはまったくといって掴めていないが、内側に入り込むのを拒むどころか、むしろ喜んでいる自分もいる。

 そして彼も同様に、喜び受け入れてくれるのを感じるからこそ、ゆかりは余計に混乱するのだ。


 だからといって、そのままにしていてはいけないという、ある意味変な使命感なるものがゆかりを支配していた。

 だって、どう考えたっておかしいのだ。


「和樹さん。今、私が思ってること言っても良いですか?」

「はい、どうぞ」

「あのですね」

「はい」


 すぅ、と一息吸って、ゆかりは先程からずっと頭を占めていたことを口にした。


「近いんですけど」

「そうですか?」

 意を決して口に出したのに。当の和樹からは、けろり、という表現がぴったりと当てはまるかのような声が耳元に届いた。一緒に届いた和樹の吐息が擽ったかった。


「そうですよ」

「そうは思わないですけど」

「もう! どうみたって近いじゃないですか!」

「ゆかりさんと同じ目線で景色を見たくなったんです」

「だからと言って。私の顔のすぐ横に和樹さんの顔がある意味が分からないんですけど」


 和樹が傍で笑ったことにより、いつもよりも近くで和樹の低く優しい笑い声が耳に届く。

 まるでその音しか受け入れる隙がないような、そんな錯覚に陥ってしまうほどに甘く届く笑い声に、あっという間に支配される。


 いつもは頭一個分以上もある身長差。いつもなら見上げるその目はきっと今、自分と同じ高さなのだろう。見た目の印象より硬めの髪が首を擽る。

 意図しているのかいないのか。こんな状況になっているのはなぜなのか。

 ゆかりの思考はもう完全に停止してうまく働かないものの、くつくつと笑いを堪える和樹に、ゆかりが「もうっ!」と怒った。


 ◇ ◇ ◇


 ゆかりの細い首となだらかな肩の間に顔を置き、和樹は一つ息をついた。

 柔らかく吐いた息がゆかりの耳を擽り、ゆかりの肩が思わず震える。身構えるように体に力が入ったのを、触れている部分から感じ取る。

 その行動は意図しているのかいないのか。それは和樹本人にしか分からないが、それでもゆかりが不快に思っていないことは明らかだ。

 触れているゆかりの体温が心地良い。

 どこか楽し気に、どこか穏やかに、ゆかりの知らぬところで和樹の目が細められた。


 少しの緊張と戸惑いと。ぐるぐるとその頭を悩ませているのか、すぐ傍のゆかりが面白いくらい動揺し、落ち着きがなくなる。

 こうして触れ合っているのだから、その振動でさえもあっという間に和樹に伝わる。それすらも和樹にとっては心地良い響きとなった。


 自分よりも少し低い目線。

 いつもより近く感じるカウンター。

 窓から零れる陽射しは、より一層輝きを増して和樹の目に届く。

 窓の外には、先ほど退店したにこやかな常連客。

 青春を謳歌する学生に混じるスーツの波。

 何気ない日常の光景ですら、彼女の目線で覗くものはすべて、眩いほどの輝きに満ち溢れている。

 彼女はこんな世界で生きているんだな、と思った。


「そろそろ解放してください、和樹さん」

「嫌です」

「い、嫌って、子供じゃないんだから」

「良いじゃないですか、少しくらい」

「和樹さんの髪が当たって、くすぐったいんですよぉ」


 そう言って少し首を竦めたことにより、和樹とゆかりの距離がまた近くなる。

 擽ったいのはこっちの方だ、と和樹は思った。

 ゆかりの長い髪が和樹の首をも一緒に擽る。


 直接触れたことはなかったが、こうして自分の頬に感じるゆかりの髪はとても柔らかくふわふわとしており、この指に絡めたい衝動にかられる。

 ゆかりが動く度に、柔らかくて滑らかな頬が触れ合う。

 しっとりと馴染んで、触れ合うのは頬だけで満足なのかは定かではない。思わず本能に任せたまま、すり、と頬擦りするとまたその細い肩が震えた。

 平常よりも少し早い、ゆかりの心拍音。これは自分のせいだろうか。

 触れた頬が離れてしまうから。その顔を覗き込むことはできないからと心の中で言い訳を重ね、少しだけ視線を移すと戸惑うように染まる頬。

 ゆかりの長い睫毛が縁取る瞳は可哀想なほどに動揺している。

 ああ、これも自分のせいなのかな。


 彼女の視線の先で色付く景色。

 そんな彼女を自分が色付けていると思うと、隠しきれない優越感に浸る。


「ゆかりさんの見る景色はとても綺麗ですね」

「私にしてみれば和樹さんの方が綺麗ですよ」


 彼女の目に、自分はそう映っているのか。


 彼女の目を通した自分は、どのようにこの世に存在しているのだろうか。

 透けることなく色を纏い、彼女の傍に立っているのだろうか。

 きらきらと輝く、世界中の色を集めたような、空をかける虹を集めたような彼女の世界。

 その中に自分も存在することができる。

 彼女の瞳に映れる、これ以上ない幸せ。


「満足しました」


 そう言ってゆかりの肩から離れると、「それはよかったですっ」と、少しだけつんとしたような声が届いた。

 その頬はまだ赤く染まっている。頬に感じていた彼女の髪の柔らかさと、触れ合った頬と。細い肩の感触が未だ残っている。離れ難くなるほどに、とても良く馴染んだ。


「今度はゆかりさんの目に映りたくなりました」


 今度はずっと見られなかったその顔を覗き込む。

 無数の光を集めた。数多の色を閉じ込めたゆかりの丸い瞳。


 その目が大きく見開いたかと思うと

「……私のことからかってるんですか」

 と、ゆかりは少しだけ拗ねたように頬を膨らませた。


 けれど、ゆかりは視線を逸らさず自分をその目に映してくれる。

 きっと今の自分は、さほど上手く笑えていないのだろう。

 時折、彼女の前では不器用な笑みになっていることは、随分前から気付いていた。

 そのことに彼女が知らない振りをしてくれていることも。


「肩、貸していただいてありがとうございました」

「……満足しましたか?」

「はい、とっても。でも……」

「でも?」

「やっぱりゆかりさんの目に映るのが一番だと分かりました」


 そう告げると、先程よりも大きく見開かれたその目。ああ、自分が映っているな。もっと近くで覗き込みたい衝動にかられるも、ぐっと堪え平常心を保ちながらゆかりを見つめ返す。


 和樹から告げられた言葉に、ゆかりは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。その後、

「今度は和樹さんの肩を貸してくださいね」

 と、すぐに困ったように笑って見せる。

「和樹さんと同じ景色も見てみたいので」

 と、ほんのり頬を染めて眩しい笑顔を見せるゆかり。


 少し照れた顔を隠すように口元を覆った和樹を閉じ込めたまま、ゆかりの穏やかな輝きを携えた丸い目が柔らかく細められた。


 ◇ ◇ ◇


(……ねぇ、聡美! あの二人、付き合ってるの!?)

(わ、分かんないよ遥! 飛鳥ちゃんどう思う!?)

(うーん。たぶん、付き合ってないし、あの二人 無自覚だと思うよ。ここが喫茶いしかわだっていうことも忘れてるんじゃないかなぁ。……和樹さんはどうか分かんないけど)


 昭和少女漫画な胸キュンの雰囲気に寄せてみたものの、なんかオチをつけたくなってしまって、最後はこうなりました。

 純愛ドキドキキュンキュンを楽しみたい方はラスト数行をなかったことにしてください(笑)


 ちなみに三人はカウンターではなくテーブル席でくつろいでいたら突如始まった距離感迷子ないちゃこら(というよりベタベタ?)に動揺しまくりです。

 マスターはちょっとそこまで買い出し中です。別にその場にいるのに空気なわけではないよ!


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