347-2 ハッピー・ハッピー・イエロー(中編)
こちら、和樹さん視点から始まります。途中ゆかりさん視点に戻ります。
店の外で待ち合わせて出かけるなんて、傍から見ればまるでデートだ。
それなのに和樹が快諾してしまったのは単純に珈琲専門店に興味が合ったのと、予定が入っていなかったこと、そして喫茶いしかわの買い出しが名目で、仕事だといえば言い張れそうだったからだ。
誰に言い訳をするのかはわからないが、ともかく駅で朝十時に待ち合わせた。
時間より早く着いたのでコンビニで時間を潰していたら、ゆかりが来て、そのまま出発することになった。そういえば彼女は何も買わずに出てしまったが、用事があったわけではなかったのだろうか。
そうして電車に乗ったら人波に押されて離されてしまって、ゆかりの様子がおかしいことにようやく気づいたのは、予定の一つ前の駅を出てすぐのことだった。
顔を強張らせたり、きょろきょろと後ろを気にしたり、肩をびくつかせて俯いたり。
心なしか顔が赤いし、体調不良だろうか。
次の駅で降りるから少しホームの端で休憩を、と考えていたら、ゆかりが顔を上げた。
こちらを見る。
ぶつかった視線は、明らかに助けを求めていた。
◇ ◇ ◇
じょきん、という音を信じられない気持ちで聞いた。
日常生活ではよく耳にするその音は、こんなところで鳴ってはいけないものである。
ゆかりは和樹と目を合わせたまま、凍りついたように視線をそらせずにいた。
しょきしょきと下から音がする。腰のあたりからだ。
服が少し引っ張られて、ぷつぷつと繊維の切れる音がする。
お尻にひんやりと冷たいものが触れた。
相変わらず振り向けないし、何をされているのかは見えない。見えないけれどわかった。
こわい。
少しの身動ぎもできなくて、腰下で服がさらに引っ張られて、びり、という音が聞こえるのを黙って感じていた。
見つめあったままの和樹が、人を掻き分けて向かってくる。
見たことのない険しい顔をしていた。
太腿に違和感。服の中に風が入っているのだ。
破られた、と認識したのと同時に、生暖かい、少し汗ばんだ、生身の人間の肌が触れた。
◇ ◇ ◇
すみません通して、と言いながら和樹は無理矢理に人混みを掻き分けた。
頭一つ分抜き出た身長はちょうど鼻や口元に他人の頭があるので少し不快だ。
だがそんなことは気にしていられず、あちこちからの非難の視線も知らないふりをして、やっとゆかりのもとへ辿り着いた。
彼女の背中にぴったりと寄り添っていた男の手首を掴んで、思い切り高く捻り上げる。
手が服から引き抜かれた瞬間、ちらりと見えた素肌の色に舌打ちをする。
ゆかりの腰を抱いて洋服の裂け目を隠した。
「痴漢の現行犯です。次で降りてくださいね」
「ハァ!?」
「見ましたよ、触ってましたね。刃物も持ってるでしょう」
「は、見たってなにを? 見間違いだろ」
ゆかりにちらりと視線をやると、困ったように眉尻を下げた。
痴漢の顔は見えなかったのだろう。
溜め息を一つついて、男に向き直る。
「わかりました、じゃあ彼女の服についた指紋とあなたの指紋、それとそのポケットに持っているハサミの指紋を照合してもらいましょう。どうして電車に乗るのに、抜き身のままの裁ちバサミをポケットに入れているのかも、説明していただけますね?」
その後警察官に痴漢を引き渡し、調書を取るだけで昼を回ってしまった。
相手方は全面的に容疑を認めていること、示談や裁判については後日連絡することを説明され、開放された二人は駅のベンチに腰掛けた。
はああ、とゆかりが大きな溜め息をつく。
「裁判やだなぁ、裁判所の雰囲気苦手なんです私」
友人が遭ったひったくり事件の時に証人として裁判所に行ったときの尋問を思い出したのだという。
和樹のシャツは電車の中からずっとゆかりの腰に巻かれている。ハサミで切ったあとに力任せに引き裂かれたようで、春物の薄い生地は二十センチ以上も大きく破かれてしまっていた。
こちらに関しては器物破損の罪になるだろう。
自動販売機で紅茶を買ってゆかりに渡す。
ぼんやりと瞼を伏せていたゆかりが顔を上げた。
「あ、さっきコンビニで買おうと思って忘れたやつ。ありがとうございます」
「ゆかりさん、お疲れさまでしたね……この後も大変ですが」
「いやあ、はは、ご迷惑おかけしまして」
手の中で揉むようにペットボトルをもて遊びながら、へらりと笑顔を見せた。
隣に腰を下ろす。
「気付くの遅くなってしまってすいません。ちゃんと隣にいればよかった」
「そんな、和樹さん頼もしかったですよ。堂々としてて」
ペットボトルの溝を意味なく辿っていた指が、それにぎゅっと巻き付いた。
まるで縋って握るものを探していたみたいだった。
さっきの、声も出せずに助けを求めるゆかりを思い出した。
「和樹さん、証拠の示し方とか慣れてるんですね」
「警察官をしている知り合いがいて、雑談の一つとして聞いたことがあって」
思わぬところであいつが披露してくれた薀蓄が役に立ったな、今度飯に誘うかと頭に過る。
冷たいペットボトルで濡れた彼女の手に、下からすくい上げるように自分の手を重ねた。
眉尻を下げて笑っていたゆかりの表情がくもる。
重なった手がきゅっと握られた。
笑顔が歪む。
もう片方の手を伸ばして、眉間に触れた。
顔を覗き込む。
「泣きそう?」
「泣きそう……」
「いいですよ」
散々泣いて、しゃくりあげるようにすんすんと鼻をならして、顔を上げて大きく息を吐いた。
鼻と頬と目の下が真っ赤だ。
小さい子の泣き顔みたいだが、泣いている間ゆかりは少しも声を漏らさなかった。
頭を抱いて引き寄せるのはやりすぎだろうか、とずっと悶々と悩んでいた和樹だったが、しかしゆかりはすっかり不安のすすがれたような表情をしている。
「あぁ、もう、腹立ってきた、ガウチョ買ったばっかりのお気に入りだったのに」
まだ握ったままの手に力がこもる。
そっちにきたか、と少し笑った。
もう胸を貸す必要はないか。
「あ、買い出し」
「取り調べの前にマスターに電話しておきました。先方に遅れること連絡してくれるそうで」
「ありがとうございます、私全然頭が回らなかった」
「仕方ないですよ。お店も全休にしちゃうから僕らは直帰していいそうです。美味しいコーヒー飲んだら、お肉食べてお笑い番組でも見てたっぷり寝てねって、ゆかりさんに伝言を」
「それ、マスターのストレス解消法ですよね?」
赤い鼻のままで笑うゆかりに、和樹は確かに安心していた。
こんな年下の女の子に泣かれて困るなんて、はじめての経験だ。
「ゆかりさん、ちょっと予定変えませんか?」
握り合った手はそのままに、立ち上がる。




