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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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347-1 ハッピー・ハッピー・イエロー(前編)

 お話はゆかりさん視点で始まります。

 なお、電車内におけるあまり気分の良くない描写がありますので、苦手な方は自衛をお願いします。


 駅で午前十時に。それが待ち合わせの約束だった。

 いつも通る道を通って、いつも入る喫茶いしかわを通り過ぎて、駅まで向かう。

 歩きながらチラリと時間を確認した。十二分前、まだ少し余裕がある。

 小さいペットボトル飲料でも買っておこうと駅前のコンビニに入ったら、十余分後に会うはずの人と出会った。


「あれっ、ゆかりさん」

「和樹さん、あは、おはようございます」

 彼と待ち合わせて出かけるなんてはじめてだったから、少しだけ楽しみにしていたのだ。

 喫茶いしかわに来るときとは違う私服で来るかな、腕時計はどんなものをつけているんだろう、顔を合わせて一言目にはなんて言うのだろうか。

 そんな予感のような期待が空振ってしまったのが面白くて、半笑いで手を挙げる。


 ゆかりの服装は仕事の時とそう大差ない、先月買ったピーコックブルーのガウチョパンツに、刺繍の入ったノーカラーのブラウス。店内ではエプロンをするから脱いでいる、ドルマンスリーブのカーディガン。模様の入り方がかわいくて買った、べっ甲色のバングル。

 和樹もシャンブレーのシャツを羽織っているくらいで、いつもとあまり変わらない。

 VネックのTシャツにジョガーパンツ。腕時計は意外にも、革ベルトのクラシカルなものだった。


 これはデートではない。マスターからの頼まれごとであり、仕事だ。だが、表情がほぐれるのを止められるとは到底思えなかった。

 デートみたいだから嬉しいわけじゃない。天気がよくて、新しいお気に入りの服を着ていて、少しだけ非日常だから楽しいのだ。


「少し早いけど会えたし、行きましょうか」

 飲みたかった新発売の紅茶のペットボトルを買い忘れたことに気づいたのは、コンビニを出て、駅構内に足を踏み入れたあとだった。

 まあいいか、ついでにほしかった期間限定のミントチョコも、また今度ということで。


 マスターが腰を痛めた瞬間を、ゆかりは見ていた。二日前の閉店間近のことだ。

 まとめて買い足した小麦粉や砂糖の整理を、重いから任せてと言ったマスターに預けて、ゆかりは翌日使うであろう食料品の補充をしていた。

 粉砂糖のポットの底が見えていることに気づいて取りに行ったときは、足元に置いた粉類を棚に上げる作業を順調に進めていたのだ。

 気をつけて、一度にたくさん持たないでくださいね、と言おうとしたまさにその時、軽い調子でマスターが「あ」と言った。

 そして中腰のまま動かなくなった。


「……これ、腰」

「……マスター?」

「やっちゃったね」

「え?」

 首だけ回してゆかりを見て、動けないねこれ、と一言。

 どうしてそんなに冷静なのかわからないが、ゆかりはぎょっとした。


「えっ、やっちゃったって? マスター?」

「あいて、いててて」

「うそ! 大丈夫ですか、救急車!」

「あーいやいや、ちょっと横に」


 その後やっぱりまずいかも、いや大丈夫、と何度かゆかりを焦らせてから、客のいない店内でソファ席に横たわった彼は妙に慣れた様子だった。

 ぎっくり腰は過去になったことがあり、一度なってしまえば癖がついてしまって再発するものらしい。

 ぎっくり腰なんて父親の世代がなるものだと思っていたゆかりは、そういえばマスターは自分の父親だったとノリツッコミのようなことを思い出した。


 とにもかくにもおろおろと肩を支えたり氷嚢を当てたりしていたゆかりだが、マスターは体のことよりも、と寝そべったままで顔をしかめた。


「明後日仕入れに行く予定だったんだよなあ」

「え、あぁ、コーヒー豆ですか?」

「清水さんのとこ、ゆかりも一緒に行ったことあるでしょ」

「はい、はい、わかります」

 記憶を探りながらゆかりは答えた。


 清水珈琲店。住宅地にある小さな喫茶店だが、質のいいコーヒー豆をまとめて自家輸入していて、近隣のいくつかの喫茶店に卸している。喫茶いしかわとも古い付き合いらしく、月に一度は仕入れついでにコーヒーを飲んで帰ってくるのが、マスターの習慣だった。

 近所でも評判の喫茶いしかわオリジナルブレンドは、清水珈琲店からの仕入れにかかっていると言えるのだ。

 先延ばしにするわけにはいかない重要案件だ。


「ゆかり、おつかい頼まれてくれるかな」

「はい! もちろん」

「お店は午後開店にするから、和樹くんつれてコーヒー飲んできなよ、僕につけておいてもらうから」

「わーい、ごちそうになります!」


 そのあとマスターをタクシーに乗せ、閉店作業を終えてすぐに和樹に連絡した。

 翌朝には店で会えるはずだったが、早いほうがいいだろうと思ったのだ。

 その日休みだった和樹から、明後日なら大丈夫です、と返信が来たのは、日付が変わった直後のことだった。


 そうして次の日店で予定を決めて、今に至っている。

 車ではなく電車で行くことになったのは、清水珈琲店が道の狭い住宅街にあるからだった。

 もちろん路上駐車はできないし、地図アプリで調べても、近くにコインパーキングもないらしい。


 和樹と出かけるときに喫茶いしかわから車で出発しないのははじめてのことで、それが新鮮だった。

 隣合って歩くことも珍しい。

 待ち合わせを約束してしまってから喫茶いしかわの女性客の目が気になったが、平日の午前中なら目撃する女子高生もいないはずだ。


 電車で二十分、歩いて十五分、ゆっくりコーヒーを飲んで戻ってきても、昼食を食べてから午後二時の開店に充分間にあう。

 久しぶりで楽しみだなあと思いながら、和樹に清水珈琲店のプレーンとコーヒーのスコーンが絶品なことや、コーヒー関連の書籍がずらりと並ぶ本棚のことなどを熱心に話していた。



 そうしながら電車に乗り込んだのだが、思いのほか混雑していて、あっという間に二人の間に人が入り込んできて、どんどん距離が空いてしまう。

 アナウンスで聞こえなくなる前にと、少し離れたところから降りる駅名を再度念押しした。

 和樹が頷いているのが見えたので大丈夫だろう。


 ドアに押し付けられるような形で、そのまま一駅をすごした。乗り降りでまた周囲の人並みが動く。

 窓の外はビルと壁面しか見えなくてつまらなくて、和樹の隣だったらなにかお喋りできるのに、と残念に思った。

 周囲から一つ飛び出た頭はどんなところでも探しやすくて助かる。五メートルほど離れたところにいた。


 そうして電車がまた動き出したころのことだった。

 隣の乗客の肘が、やけに脇腹にあたることに気づいたのだ。体があたるくらい仕方ないが、脇に添えられた肘を押し付けるような、妙な動きをしている。まるで位置を修正しているみたいな。

 まさか、気のせいだろうと思いつつも、吊革を持つ手を入れ替えた。


 それからほどなくして、今度は腰にやたらとなにかぶつかるのが気になりだす。なんとか首を巡らせて確認すると、手の甲のようだった。さっきと同じグレーの袖だ。きっと満員だから押されて重心が定まらないのかな、と思いながら、カーブを知らせるアナウンスに気を取られた一瞬。

 腰に当たっていた手がくるりと返って、手のひらで明らかに撫でる動きに変わったのだ。腰を撫で下ろされてやっと、え、触られてる、と思った。

 うわうわ、と頭の中で呟く間に、お尻、太腿をわし掴んでさするような動きで触りはじめた。


 半ばパニックになりながら振り返ろうと背中を捻る。

 声をあげるにも、痴漢の姿を確認しておかなければいけない。

 電車は駅を出発したところで、目的の駅は次だった。

 服越しの感触に首筋が粟立つのを感じる。

 あと五分くらい我慢できるだろうか。

 そう思った時だった。


 甲の厚い大きな手が腰のラインを辿るように撫で上げ、ウエストの柔らかいところに指を食い込ませた。そのつもりがなくても腰から上が跳ねて、ひっと息を飲んでしまう。

 目の前にいた乗客が訝しげにゆかりを一瞥した。

 恥ずかしくて情けなくて俯く。


 なんだろうこれは、せっかく和樹さんとお出かけなのに、和樹さんとお喋りもできずに、痴漢されてどうすることもできなくて。

 鼻の奥がつんとして顔を上げる。

 こっちを見ていた和樹と目が合った。


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