346 映画のようにはいかないけれど
好意をうっすらしか自覚してなかった頃のお話。
その日、和樹が喫茶いしかわのドアをくぐると、店内にはゆかりと、何度か喫茶いしかわで顔を見たことがある女性客がいた。
「和樹さん。おはようございます」
「おはようございます、ゆかりさん。と……あぁ、この先の邸宅レストランの」
「はい、そうです。おはようございます。あのぉ、和樹さんからもお願いしてもらえませんか?」
よく見れば、彼女はゆかりに腰を折り、両手を合わせて低頭している。
「何事です?」
和樹が目を丸くすると、ゆかりはため息をついた。
「……滝川さんが勤めてる邸宅レストラン、一昨日くらいまで工事してたでしょ? レストランウェディングができるように改築したんですって。それで……」
ゆかりがそこまで言うと、滝川と言われた女性が和樹にぱっと向き直った。
「そうなんです。うち、庭がすごく広いでしょ? 今まではガーデンパーティに使ってたんですけど、昨今は天候が安定しないじゃないですか。一番いい季節に空いてることが多くなっちゃって。だから、庭の中に小さな教会を作って、元々の建物も内装を少し変えたんです。最後の生き残りをかけてってヤツです。……でも、勝負かけたのはいいんですけど、細かいところの経費は節約しようって事になって。新しいパンフ作るモデルさん、スタッフで探そうって事になったんですよ」
「……ははぁ……それでゆかりさんに花嫁役を?」
和樹がなるほどと腕を組んだ。滝川は力強く頷く。
「そうなの! 花嫁と言えば、幸せが体からあふれ出ててフレッシュで。パンフを見た女性が、自分を重ねられるようなタイプがいいのよ。……お願い! 一生のお願い!」
「でもぉ……」
ゆかりがなんとか断ろうと口を開いたとき。滝川のスマホが鳴った。
「──はい、滝川……え、もうカメラマンさんきたの? わかった、すぐ行くわ」
手早く電話をきって、滝川は慌てて店を飛び出そうとする。
「ちょ、ちょっと滝川さん!」
ゆかりが呼び止めると、滝川は振り返り真顔でしっかりと念を押した。
「ごめんなさい、これから打ち合わせなの。だからよろしくね、石川さん。そのために、関係者の内覧会と撮影会、ここがお休みの時に組んだんだから。朝の七時にお願いします! 遅れないでね!」
そして、怒濤のように走り去っていった。
「………どうやら、はじめっからゆかりさんありきのお話みたいですね」
クスクスと和樹が笑うとゆかりはぷくっとふくれた。
「もう、面白がらないでください! はぁ~。ドレスなんて着たことないし……ていうか、せめてもっと早くに言ってくれればダイエットだってしたのにぃ~!」
なるほど、モデルになるのはやぶさかではないのか……と、和樹の笑顔が苦笑いに変わる。もちろん、そんなことにゆかりは気づかない。
「でも、いいじゃないですか。こんなチャンス滅多にないし。それにあそこのレストラン、すごく美味しいって評判ですよね」
「そうなんです! 今回の内覧会、立食なんですけど来賓に食事も出すらしくて。撮影は午前で終わるらしいので、お昼は食べていいって。それは楽しみなんですけどね」
ぱっとゆかりの顔が輝く。まったく、花より団子のお嬢さんだ。
「へぇ。ちなみに、花婿役は募集してないんですかね? 美味しい食事にありつけるなら僕もやってみたいなぁ」
心にもないことを言う。ゆかりの返事もわかった上で。
「和樹さんはお断りです! また炎上しちゃうじゃないですか-!」
いっそ清々しい悪意のない拒絶に、和樹はまた笑うのだ。
◇ ◇ ◇
「──とはいえ、だ。気にならないとは言っていないしな」
内覧会当日、和樹はレストランの前に来ていた。
けれど招待状があるわけではなかったし、少し忍び込んでゆかりのドレス姿を見たら帰ればいいか、くらいに思いながらレストランの玄関を横切ろうとしたとき。
「あら、和樹さん!」
先日の滝川が、門扉の前に作られた受付で声を上げた。
「あぁ、おはようございます、滝川さん。いい内覧会日和になりましたね」
和樹が営業スマイルで挨拶する。
「えぇ、おかげさまで。和樹さん、ひょっとして石川さんに……?」
そう尋ねられて、口がとっさに動いた。
「えぇ、すみません。忘れ物をしたようで、僕に持ってきてほしいと……」
「あら、そうだったの? いいわ。これ、来客用の入場証。ついでにご飯も食べていって。今日はデザートが目玉でね。神戸から洋菓子チャンピオンのパティシエに来てもらったのよ」
えぇ、いいんですか? なんだか悪いなぁ……などと、適度に合わせながら、和樹は難なく入場できた。さて、もう十時を過ぎている。撮影も佳境という辺りだろう。
綺麗に手入れされた芝と木々、中央には天使たちが遊ぶロココ調の噴水がある。母屋の邸宅から伸びる石畳を伝っていくと、かわいらしい教会があった。正面の位置に大きな木製の扉があり、そこにはすでにカメラマンと数人のスタッフが構えている。
「はいっ、どうぞ-!」
スタッフが大声で叫ぶと、木製のドアが観音開きに一気に開いた。
式の参加者といった風情のスタッフたちが、出てきた新郎新婦に花びらやライスシャワーを浴びせながら口々に「おめでとうー!」「お幸せにー!」と祝福する。青空に舞い上がる歓声。その中で彼女は、恥ずかしげにはにかんで笑っている。
皆に童顔と言われるゆかりだったか、着ているドレスは大人っぽいマーメイドラインのものだ。髪を結い上げ、ささやかに生花を飾っている。ヴェールもそんなに長いものではなく、美しいレースが薫風にたなびいていた。聖女のような清楚さだ。
「素敵ですよ、ゆかりさん……」
ぽつりと呟く。彼女の隣には、やはりスタッフが見つけてきたのだろう、爽やかな青年がゆかりと腕を組んで笑っている。
……自分ではない、違う男。
心に、何かが爪を立てた。うっすらとにじむこの感情は……なんだ?
微かな自分の動揺に、和樹はハッとする。
そのまま立ち去れば良かったのだ。なにも言わずに来た道を行けば、また明日には笑って彼女と話ができる。なのに、脚が動かなかった。
落ち着け、ただのデモだ。ごっこ遊びだ。
和樹は自分にそう言い聞かせ、鋭く息を吸って、目をつぶってから吐き出す。眸を開くと、カメラマンの声がした。
「はーい、お疲れさまでーす! これで結婚式の撮影は終了になります!」
「ありがとうございました!」
参加したすべての人たちが、一斉に拍手をした。ゆかりは周りの人たちに頭を下げながら、邸宅の方へ歩いてきた。そして。
「あ、和樹さん!? どうしているんですか?」
目敏く和樹を見つけ、ドレスの裾を上げて、小走りでこっちへやってくる。
「あ、ゆかりさん! 走らないでください、転んでしまいますよ!」
和樹の方が慌ててゆかりに駆け寄った。
「どうしたんですか、こんなところで?」
「昨日、喫茶いしかわに財布を忘れてしまって……取りに行ってたんですよ。買い物して帰ろうかと偶然この前を通ったら、受付に滝川さんがいらっしゃって、よっていけと……」
息をするように嘘が飛び出す。ゆかりは唇を曲げた。
「もう~、面白がったのね。あ、でも、これから立食会があるんですよ。和樹さんも一緒に行きましょう!」
こんな時でも、彼女はやっぱり食い気優先らしい。吹き出しそうになるのをこらえた。
「もちろんです、滝川さんがデザートがオススメだと。神戸から来たパティシエが作ってるそうですよ」
「えぇっ! そ、それは早く行かなきゃ……! 待っててください、すぐに着替えてきますから!」
和樹に走り寄ったときよりも更に急いで、ゆかりはドレスとハイヒールと格闘しつつ更衣室に飛んでいった。
「転びますよ、本当に!」
注意を促しつつ、ゆかりの姿が見えなくなると和樹は自嘲したように口の端を上げた。
今までの人生で、普通の幸せなど想像すらできなかった。でも……。
今日だけは、いいだろうか。
今だけは許されるだろうか。
──あ、和樹さん!? どうしているんですか?
ドレスのまま走ってくるあなたを見て、まるで映画のようだと思った。その手を取ってここから逃げ出せば、自分は何者になるだろう。あの主人公のように、彼女を奪い取ったバスの中で、静かに固まっていく己の顔が見えた。
「……困ったな……まさか……こんな……」
ゆらりと背中を壁に預ける。胸に手を当て、シャツを握った。
「……こんなに好きになってるなんて……」
声にならない言葉はただ、唇を小さく震わせただけだった。
独占欲が自覚を促すの巻。
促したところでどこまで行動に移すかはまた別の話ではあるのですが。




