342-1 給油所は冷蔵庫の中(前編)
ゆかりさんと和樹さんがお付き合いを始める前のお話。
ゆかりは軽い足取りで退勤する。朝から店は混み合い、立ちっぱなしで接客をし続けた挙句、しっかりと休憩を取れなかった店員にしては妙に明るすぎた。
「もしかしてこれからデート?」
浮き足だったゆかりを茶化すように常連客はカウンター越しに彼女へと興味本位に声をかける。
「やだなぁ、デートだったらもっとおめかししてますって。明日はお休みなので今日は家でパーっと飲むんです」
「女子会ってやつか。いいね、若いって」
「女子会じゃなくて一人飲みですよ」
ヒラヒラと手を振りながら店を出た瞬間、彼女にどっと押し寄せたのは疲労感だった。上を見れば美しい夕焼けが彼女を労るように輝いている。
(今日は稀にみる忙しさだった……)
店を出た瞬間、張り詰めていた糸が切れたように肩の力が抜ける。こういう日は飲むに限る、と彼女は今日の飲み会を思いついたのだ。
彼女がいつものスーパーでお気に入りのお酒を買う時は決まって疲労困憊に陥っている時だった。飲むと決めたらとことんまで飲む、それが石川ゆかり流自分の労り方であった。今日も数多く並んだ銘柄の中から迷わず選んだ酒類をカゴに入れる。初見の店では必ず年齢確認をされるゆかりだが、馴染みのスーパーではさすがにそれもなくなっていた。
あれよという間に保冷機能の備わったお気に入りのマイバッグはお酒と夕食の材料で満ちていく。あとは自宅に帰り宴の準備をするのみとなっていた。
ゆかりが鼻歌混じりで帰路につく中、とある場所では椅子に座ったままひとり天井を仰いでいる男がいた。
「流石に疲れた……」
溜まりに溜まった書類が大方片付き、残り数枚となった頃、彼は大きく伸びをして時計を見た。
「ここはもう大丈夫ですからお帰りになって休んでください」
「まだ十九時か…あと五時間はいけるな」
「いやいやいや、今日ぐらい早く帰ってゆっくりしてください。たまにはバラエティ番組でも観ながら世間のお茶の間気分を味わった方がいいです」
部下に半ば強制的に仕事を没収され、渋々和樹は職場を離れる。残れば残るほど、仕事は増えるだけでありキリはない。多忙過ぎる上司を思って、部下ができるせめてもの思いやりというやつだった。
愛車を車検に出してしまったがために彼は徒歩で、重い足取りで進む。この時間はまだまだ街が活気に満ちており、居酒屋のキャッチも至る所に出没していた。
「格好いいお兄さん、良かったら一杯どうですか?」
「生憎ですが、車で来ているので」
飲みたい気分だが、彼一人で飲むにはこの辺りの居酒屋は少々賑やか過ぎた。とはいえ仕事中の部下を付き合わせる訳にもいかず、彼は自宅での晩酌を決めた。仕事を詰めに詰め、休暇もままならない彼の現状。ふと、飲まなきゃやっていられないと思う時がある。それが今だった。
目についたコンビニに寄れば、冷蔵コーナーで同じようにスーツを着たサラリーマンが神妙な面持ちでビールをカゴに入れていた。さらにその向こうでは不機嫌そうにサラリーマンがワンカップを片手に「俺にも色々付き合いがあるんだよ」と電話口で誰かと争っていた。聞こえてくる会話から察するにおそらく相手は彼の妻だ。このまま帰宅した場合、彼を待っているのは修羅場であり、彼が今本当に買うべきなのはワンカップではなく機嫌取りのスイーツであることを和樹は知っている。口を出すつもりはないが。
取り巻く環境は違えど、アルコールが頑張る大人たちの癒しであることは共通なのだろうと和樹はビールのロング缶を数本手に取り、レジへ向かう。
その途中、新発売とカラフルなポップのついた可愛らしい酒のパッケージが目に入る。見た目こそいかにも女子が好みそうなジュースのようであるがアルコール分はしっかりと九%、紛れもなく立派な酒だった。
(パッケージがパステルカラーでゆかりさんっぽい酒だな)
そういえば、と彼は思い出す。今日は自分が考案した喫茶いしかわの新商品の発売日、この酒のように果実をふんだんに使ったゼリーを大々的にSNS上で宣伝したが売れ行きはどうだっただろうか。
徐に和樹はプライベート用スマホを取り出し通話履歴の一番上にあった番号に電話をかけた。呼び出し音は四回鳴ったところで途切れる。代わりに聞こえたのは柔らかな女の声だった。
「もしもし和樹さん?」
「こんばんは、ゆかりさん。今お忙しいですか?」
「ぜーんぜんです。今日はこれから家で一人飲みするので準備を始めたところです」
これは好都合とばかりに彼はたたみかける。今日は自分も彼女も飲みたい気分、誘わない手はない、と。
「僕も今日は飲みたい日なんです。もし良かったらこれから出てこられます? 一緒に飲みにでも行きませんか?」
「いいですね! でも着替えてメイクも落としちゃったので、和樹さんがうちに来ませんか? 嫌なら無理強いはしませんけど」
ゆかりからの誘いにドキリとするが、ただの同僚という関係でしかない男女が二人で宅飲みとはいかがなものか。
「それは嬉しいお誘いですけど、でもこの時間から女性の部屋に伺うのは失礼でしょう」
「何言ってるんですかー。夜はまだまだこれからじゃないですか」
電話の向こうでプシュッとプルタブを開ける音が聞こえる。どうやら彼女は既に一本以上空けている。冷静な判断はできないと見た。
「ほら、僕も男ですし」
「男ですけど和樹さんじゃないですか。天地がひっくり返っても私となんて何もないですって」
あはははは、と陽気に笑うゆかりの声に和樹の眉が動いた。この娘は和樹という男を少々舐め過ぎていると彼はスマホを握る手に力を込める。
「わかりました、では遠慮なくお邪魔しましょう。えぇ、お邪魔させていただきますとも」
「おつまみは作ってるので和樹さんが飲む分だけお酒買ってきてくれれば大丈夫ですよ」
ぽやぽやのほほんとした声が、じゃあまた後で~と通話を切る。こうなったら一分一秒でも早く! 彼はタクシーを拾い、運転手へゆかりの自宅最寄りのコンビニの場所を告げた。
せっかくだしもう少し何か買い足そうと、到着したコンビニに入りささっとスイーツコーナーへ向かうとクリームで装飾された可愛らしいプリンを手にとる。可愛い部屋着のゆかりが可愛いプリンを食べている絵を想像するとどうにも口元が緩くなる。
きっとカシスオレンジやファジーネーブルでほろ酔い気分の彼女は別腹のスイーツを食べながら、ふにゃりとした笑顔を見せてくれるだろう。その姿をひとり占めできるとは何という特権! とデザート選びにも力が入る。
今頃、彼女のテーブルの上には可愛いカクテルにチーズやサラダ、アヒージョなど、見た目にも楽しいおつまみが並んでいることだろう。
男社会に身を置いていた和樹は少なくとも女子とはそういうものだと思っていた。彼はこれから女子の実態を目の当たりにすることになるとは知らず、楽しそうに買い物を続けた。




