337-1 長田悟史の懸念事項(前編)
数年前のお話を、長田さん目線で。
優れた人間というものは極稀に存在する。
容姿端麗、頭脳明晰、眉目秀麗、冠前絶後といった言葉は、その人物が目の前に存在するしないに限らず、世の中に溢れているありきたりな表現方法だ。
まさか自分の人生において、その言葉を体現している人物に出会うことになるとは。長田は石川和樹という人物に出会うまで思いもしなかった。
幾重にも備わった知識と経験と判断力。端正な容姿と圧倒的な存在感。利用できるものは何でも利用し、そこに己の感情など一切持ち込まず遂行する様は、冷徹と呼ばれるのも頷ける。
……と、思っていたのだ。数年後にはあのように様変わりするとは考えてもいなかった。
和樹を乗せて会社へと向かうべく、長田は車のハンドルを握っていた。
後部座席では、和樹が部下から提出された追加報告書に目を通している。
大まかな点は長田から事前に報告を上げ、和樹から下された新たな指示を長田から現場へと落とし込み、既に次の段階へと進んでいる。
眉間の皺が深くないところを見ると、彼のお気に召す方向へと無事進んでいるらしい。
フロントガラスからは昇りきった太陽の塞ぎきれない陽射しが、和樹の髪を柔らかく照らしていた。
「ふむ。ま、上出来だろうな」
「そうですか。あいつも喜びます」
私情を挟む訳ではないが、和樹の告げた言葉に報告書の提出主である同期を思い浮かべ、思わず口の端が緩む。
ピリピリしていた数年前と比べ、信じられないように過ぎていく穏やかな時間。和樹が纏う空気は、昔とは比べものにならないほどに柔らかくなった。
誰よりも大きな仕事を抱え、八面六臂の活躍で難問を片付け続けては新たな難問を抱えている彼は、「当たり前の日常」というものに誰よりも浸る権利があるのではないかと長田は思う。
今日はこの仕事の鬼のような上司を会社まで送り届ければ、大きな仕事はすべて片が付くことになる。
いくつもあった懸念事項が無事に解決し、次の案件がなかなか動きを見せない今、彼の更に上から強制休暇を命じられた。そうでもしないと、ずっと詰めたままだと判断されたのだろう。
そもそもこの「移動」ですらも本当は長田一人でも良かったのだが、和樹の意向で和樹自らが課した仕事だ。それがなければ今日も彼は休みだった。とことん仕事の鬼だ。
「長田、悪いが止めてくれ」
バックミラー越しに確認すると、どこか一点を見つめる真剣な眼差し。
それをなぞるようその先を見つめると、ああ、と納得した。
安全を確認したところでウィンカーを出し車を路肩に寄せるが、その先に小さな駐車スペースがあることに気付いた和樹は、そこへ入るよう指示した。場所があるのであればそこへ停車した方が良いに決まっている。本当に気の抜けない人だな、と思った。
そんな観察眼に優れた上司のその視線は、今しがたまでの様子からは考えられないほどに優しいものへと変わっていく。
すぐに車を降りるのかと思いきや、和樹はゆっくりとスモークウィンドウを下げた。
少しだけ開いた窓からは、街中の喧騒とともに柔らかい風が車内へと入り込む。春だな、と思った。
「ねえ、ゆかりの旦那さんって全然見たことないんだけど、本当に結婚してるの?」
節操のない、どこか見下したような声が届いて、長田は運転席のドアを開けようとしたその手を止めた。下品とも言える内容。声の主が発した名前に、一瞬にして車内が凍り付く。長田は固まったまま動けずにいた。
この時ばかりは地獄耳な自分を心の底から悔やんだ。
「だってさぁ、一緒にいるところ見たこともないし。この前の行事もゆかり、一人だったでしょ?」
「そうよね。仕事もなにしてるか分かんないし。旦那さん、単身赴任とかなの?」
「……うーん、忙しくてね。なかなかお仕事休めないのよ」
苦笑しながらやんわり話を回避しようとするその背中は、紛れもなくあの人だ。
分かっているからこそ長田は今、自分が何をするのが最善なのかをこの狭い車内の中で考えあぐねていた。
後ろには尊敬する上司。空気は凍り付いたままだ。
あちらこちらを飛び回っての仕事が立て続けだった彼がなかなか自宅でゆっくり過ごせなかったのは事実。
だが、彼女を取り巻いている、馴れ馴れしく名前は呼ぶものの、恐らく「友人」ではなくただの「知人」である女性二人にはそんなことは分からない。それも仕方のないことなのだ。
けれども、時と場合というものがある。
言ってはいけないこと、というものがある。
どうやらこの二人は、その判断力が欠如しているらしい。
「ゆかりはさぁ、不満とかないの?」
「だって寂しくない? 辛くないの?」
「私なら旦那が傍にいてくれないなんて、寂しくて耐えられなぁい」
「そうよねぇ」
互いがとても幸せなことを吹聴する様は、何と醜く映るのか。
それが他人を貶める内容であるのならば尚更だ。だが、人というものはそのことになかなか気付けないものだ。
「うーん、寂しい時もあるかもしれないけど。彼が誇りを持って仕事をしているのはとても尊敬しているし。彼がとても頑張ってることも知ってるから。私はいつでも彼が帰って来られるように待っていたいなあって思うから……辛くはないかな」
「えー、でもぉー……」
これはマズいと思った瞬間。後部座席のドアが開く音がした。
「石川さ……」
と長田が視線を移した時にはもう凍り付いた空気は微塵も纏っていなかった。
いや、とてつもなく柔らかくて甘すぎる空気を身に纏った上司が、その一歩を踏み出していた。




