335 綴られた想い
『お仕事お疲れ様です。ご飯は冷蔵庫の中にあります。
新作の豚バラとキャベツのミルフィーユ煮はレンチン3分!』
猫のシルエットがワンポイントで入った小さな便箋。あの頃、よく見慣れた丸みを帯びた字がそこに並んでいた。
時刻は深夜一時。とっぷり夜も更け、大好きな彼女もとっくに夢の中だ。
以前は何時になっても僕の帰りを待とうとしていた彼女。できるだけ早めに寝てほしいとなんとか説得し、どんなに遅くとも僕の帰りがてっぺんを超える日は先に寝ることをお互いの約束ごとにした。
そして、こんなふうに帰りが遅くなった日には決まって彼女からの手紙が置かれるようになった。
なんてことない、伝言に近い内容だとしても彼女の声で再生されるそれは、疲れて帰る僕にとって一番の楽しみとなっていた。
「ありがとう、ゆかりさん」
拾い上げた紙に小さく口づけた。
◇ ◇ ◇
パタン、カチリ。玄関のドアと鍵が閉まる小さな音で、パチっと閉じていた目蓋を開く。
薄ぼんやりする景色からまだ夜があけてそんなに経ってない頃だろう。
「あ、和樹さん行っちゃった……」
寝ている私に気を遣って、起こさないよう静かに彼が出ていき、それに後から気付くのももう慣れっこだ。それでも、やっぱり「行ってらっしゃい」と見送ってあげたいという気持ちでどうしようもなく寂しくなってしまう。
「もう起きちゃおうかな」
今日はモーニングからの出勤。起きる時間にはちょっぴり早いけれど、目が覚めてしまったから朝食をゆっくりとるのもいいかもしれない。
ペタペタとキッチンへ歩を進めると、ダイニングテーブルに私が置いていた便箋とは違う便箋が目に入った。
「え、わ、和樹さんから!」
真っ白な用紙に薄く青色で罫線が引かれただけのシンプルな便箋に、見慣れた、細くかっちりとした文字が並ぶ。
『おはよう、ゆかりさん。
仕事で早く出るので直接感想が伝えられないから手紙にします。
新作とてもおいしかったです。ぜひレギュラー化を!
つけ合わせの漬物もいい味でした。
また連絡します。体に気をつけて。』
見送れなかった寂しさでいっぱいだった胸がじんわりと暖かくなっていく。
「ふふ、和樹さんこそ体に気をつけてくださいよーだ」
すん、と鼻をならしながらここにはいない彼に小さく悪態をついた。
◇ ◇ ◇
「あれ、ゆかりさんこれって」
「わあー! み、みちゃダメ!」
世の働き人が帰るには遅く、でも僕にしてはまあまあ早く帰れた今夜。
出迎えてくれた彼女はペカーっという文字と後光が背景に見えるんじゃないかというくらい眩しい笑顔を見せてくれた。
「今日はね、豚の生姜焼きなんです! つけあわせの煮卵がわたし史上最高の出来だから、和樹さんに食べてもらえるの嬉しい!」
「へえ、それは楽しみだな」
今にもスキップしながら鼻歌を歌い出しそうな様子でキッチンに入っていった彼女を口端を緩めながら見送った僕は、ダイニングチェアにジャケットをかけ、席につく。
そこでテーブルに書きかけの便箋とペンが置かれていることに気付く。
『お仕事お疲れさまです!
今日は豚の生姜焼き+煮卵! ゆかり史上最高の出来なのでお楽しみに。
いつもお仕事に一生懸命な和樹さんが大好』
おそらくあと一字だったところに僕が帰宅し、書きかけになったのだろう。容易に想像できてしまう続きに思わず顔が熱くなる。
「あれ、ゆかりさんこれって」
さも、今気づきましたという風体を装ってなんてことないように向かい合わせのキッチンにいる彼女に尋ねる。
「わあー! み、みちゃダメ!」
僕の手の中にあるその白い便箋を目にすると慌ててキッチンから飛び出してきた彼女。
その顔は桜色に染まっている。
「もしかして僕の帰りが遅くなると思って書いててくれたの?」
僕の手から白い便箋を奪おうとぴょこぴょこ飛ぶも、渡すまいと僕が高い位置に掲げたことで奪うことを諦めた彼女は視線を下に落とす。
「そうです……今日も、何時になるかわからなかったから書いていたんです……」
「もしかして、いつも?」
「え、と……はい」
「それ、見せてくれませんか」
彼女と視線を合わせるように屈むと彼女は小さく頷き、ダイニングの横にあるチェストの引き出しから小さな箱を手にして戻ってきた。
「この中にね、和樹さんに渡せなかった手紙が入ってるんです」
渡せなかった。つまり手紙を書いたものの彼女が就寝するよりも早く帰って来られた日か、僕が帰って来られなかったのどちらかだが、そのほとんどは後者だろう。
開けても? と尋ねると彼女はやや逡巡したがコクっと頷いた。
箱の蓋を取ると、そこには何百枚もの色とりどりの便箋が納められていた。
◇ ◇ ◇
私の秘密を知った彼は箱を手にしばらく固まっていた。
彼に向けて書いていた手紙は、伝言のようなものから今日みたいに普段は恥ずかしくて言えない想いを伝える、私にとっては彼と自分を繋ぐ大切なものだった。
今日みたいに彼が早く帰ってきてくれたから渡さなかったこともあるけれど、そのほとんどが彼が帰れず渡すことができなかったもの。
でも私は、それでも大切な思い出だからと捨てることはせず、すべて箱の中にしまい込んでいたのだ。
まさか彼に見せることになるとは思いもしなかったけれど。
チラリ、と彼を見ると真剣な表情で箱の中の便箋を見つめている。
彼はどう思っただろう。重いって思われたかな。そんな不安がぐるぐる頭の中を駆けまわる。
しばらくすると彼は箱の中の便箋を一枚取り出した。
「……お仕事お疲れさまです。今日道を歩いていたらなんと黒猫が横切ったんです! よく黒猫が横切ったら不幸になる、なんて言うけれど可愛い黒猫ちゃんを見られた私はとっても幸せになっちゃった♪ 和樹さんにも私の分の幸せパワー分けてあげたいなぁなんて思っちゃいました」
「ちょっと、真顔で読み上げないでくださいよ! どんな辱めですか」
「これ、僕知らない」
「その時は……えっと、和樹さんが海外出張から帰国するはずだった日に書いたものだったかな。悪天候で予定してた空港に着陸できなかったとかでお家に帰って来られなかった時のだと思います」
真顔で私の手紙を読み上げられ、顔から火が噴き出るんじゃないかと思ったが読み上げた本人はムッとした険しい顔だ。
「今日は石狩鍋に初挑戦、マスターが商店街の福引で新巻鮭を当てて分けてもらったんです、鮭がとっても美味しいですよー、ってこれも食べてない」
「あの鮭美味しかったなぁ……脂がのってて……はぁん」
「…………」
その時のことを思い出して口から涎が出そうになる私をジトっと見つめる彼。
すると彼はスタスタと自分の仕事部屋に行き、すぐにペンといつかの置き手紙に使っていた青い罫線の入った便箋を手に戻ってきた。
「え、と和樹さん何を……?」
「手紙の返事を書きます」
「え、どうして」
「だって」
言葉を止め、彼は私を見上げる。
「……悔しいんです。君からの手紙を受け取れなかった自分が、こんなに楽しそうに日々を過ごしていたことを知らなかった自分が、そこにいなかった自分が」
彼は立ち上がり、息を飲む私の両手を自身の手でギュっと包み込む。
「僕は君のことをもっと知りたい。君の日常にいたい」
射抜くような瞳でまっすぐ私の瞳を見つめる彼。吸い込まれそうな瞳を見つめながらわたしは小さく言葉を紡ぐ。
「……お返事、いつでも待ってますね」
頬を弛めながらそう呟くと、彼は小さく笑った。
さて、これはいつごろのお話でしょう。
子供たちは夢の世界を楽しんでる真っ最中のため出番はありません。
ほぼ夜中と明け方の話なので。




