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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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334 誰ガ為ニ

 喫茶いしかわでの勤務を終え、保育園に迎えに行き、子供たちと手を繋いで帰宅する。

「ただいま~ぁ」

「ただいまおかえりー!」

 疲れの隠せないゆかりと比べると、子供たちは元気いっぱいだ。


 返事の代わりとでも言うようにふわっと甘い香りがゆかりの鼻腔を擽る。その香りに首をかしげながら足元を見ると、男性物の靴を見つけた。夫である和樹の仕事用靴だ。

「あれっ? 和樹さん、帰ってきてる……!?」

 仕事でずいぶん忙しく飛び回っているらしい和樹はここのところ二、三日に一回家に帰ってくる。それはよくあることで、帰ってくる時はゆかりに連絡してくるのが常なのだが。


 ゆかりは玄関で靴を脱ぎ、そのまま一直線にリビングに向かいドアを開けると、先程までのふわりとした甘い香りが急にガツンと強くなった。

「ああ、ゆかりさんおかえり。お疲れさま」

 グレーのパーカーにデニムパンツというラフな格好の上から緑のチェック柄エプロンを着てボウルとゴムベラを持った和樹が、キッチンからひょっこりと出てきた。


「ただいま……って和樹さん、今日早かったんですね! それにどうしたの? その格好」

「仕事がおおよそ片付いてね、急に半休になったんだ。一度家に帰って着替えてから喫茶いしかわに行こうと思ったんだけど……」

 そう言いながら、和樹はキッチンの向こうにあるダイニングテーブルのほうを見た。


 そういえば、家の中をずっと漂っている謎の甘い香りの正体をゆかりはまだ解明していない。

 キッチンを通り過ぎてダイニングテーブルを見ると、ゆかりは目を二、三度瞬きしながら驚愕した。


「えっ、ちょっ、えっ!? 何これ!?」

「何これって……チョコレートだけど」

 ダイニングテーブルには所狭しとチョコレート菓子が並んでいた。トリュフにチョコチップクッキーに生チョコ。チョコブラウニー、パウンドケーキ、ガトーショコラ……玄関にまで立ち込めていた甘い香りの正体はこれらのチョコレート菓子だった。


「うわあぁ……おかしいっぱい……」

 子供たちは椅子の座面によじ登ってダイニングテーブルの上をキラキラした目で見ている。目の前にたくさんあるお菓子にそわそわし始めた。


「ちょっと作りすぎたかなぁ」

 後ろで片手にボウルを持ちながら、ははっと笑い頬をかく和樹にゆかりは振り向いた。

「いやいやいや! ちょっとどころじゃないですよこれ! 今もボウル持って何か作ってるじゃないですか!」

 ゆかりは和樹が手に持っているボウルにビシッと指を指す。


「ああ、これ? ザッハトルテだよ。後は型に流し込んで焼くだけだから。あっ、ゆかりさん、最後グラサージュしてみる?」

「えっ? グラサージュってチョコレート流すやつですよね! やってみたーい! ……じゃなくて! ちょっとストップ! いくらなんでも作りすぎですよ! どうするんですかこれ! しかも美味しそうなのにわたしたちじゃこんなに食べきれない……ん、あれ?」

 あわあわと混乱していたゆかりは、ふと大事なことに気づいた。この大量のチョコレート菓子の材料はどこから?


「ねぇ、和樹さん」

「ん?」

「この、たくさん並んだお菓子の材料ってもしかして……」

「ああ、冷蔵庫の中にたくさんあったチョコレート使ったけど? 足りない材料はさっき買ってきたんだ」

「やっぱり! もう~~! 喫茶いしかわ(おみせ)のバレンタイン販促ケーキの試作用だったのに!」


 毎年喫茶いしかわではバレンタインの日にレジで配る一口チョコとは別に、メニューでゆかりの手作りケーキを用意している。喫茶いしかわでは一大イベントの一つなので、ゆかりも力を入れて試作に試作を重ね、毎年色々なケーキを用意してきた。看板娘の手作りケーキということで、ゆかり狙いの男もこぞって注文するのだが、見た目も可愛いケーキにしているので女性からも注文が入り、あっと言う間に完売してしまうのだ。


 余談だが、以前和樹が看板息子としてバレンタインデーのフロアにいた時は、彼がバレンタイン用ケーキを作った。いつもよりかなり多く用意していたにもかかわらず爆速で完売した。分かっていたことだったがゆかりにとってちょっと悔しかった出来事である。

 ちなみに去年のバレンタインは、和樹からアドバイスを受けて完成したオレンジチョコブラウニーを作ったのだがこれまた爆速で完売した。これも少し悔しかった。

 さらに余談だが、交際を始めてさほど経たない時期のバレンタインは、なんだかんだあって二人が付き合い始めたことは知っていてもバレンタインの時期には淡すぎる希望と期待を持って注文してくれていたゆかりファンがいた。だが春先にさくっと結婚したことで陽気と反比例するようなお通夜状態だった、みんなちょっとした五月病だよはははってごまかしてたけどね、とはマスターの言である。


「あーそうだったのか、ごめんごめん。まぁ試作するまでもなくこの中から選んでもらったら、去年みたいに作り方教えるから」

 先ほどからずっと笑顔のままだ。和樹の誠意が感じられないわざとらしい『ごめん』に、ゆかりは両手を腰に当て和樹を睨みつけた。

「和樹さん、分かってましたよね? 試作のこと……本当に悪いって思ってますか?」

 ゆかりがそう言うと、笑顔だった和樹は途端にむすっと口を結び拗ねた顔をしてぷいっと首を横に向けた。


「……君こそ。こんなにチョコレート買い込んで、誰かもわからない男どものためにたくさん試作する予定だったんだろ?」

「…………は?」

 突然の和樹の変わりようと物言いに、ゆかりは首を傾げ固まった。


「ゆかりさんが独身だった時というか付き合ってもなかった時は仕方がないと我慢したさ。でも今は僕と結婚してるじゃないか」

「は、はぁ……えーっとぉ」

「今日僕が帰って気付かなかったら、ゆかりさんは知らない男のためにチョコの試作を繰り返していたんだろ。浮気だよ浮気」

「うっ、浮気!?」


 突然飛躍した内容にびっくりしたゆかりは大きな声を出してしまった。どう転がったらバレンタイン試作が浮気になるのだ。

 和樹は相変わらずむくれた顔をしながらゴムベラで生地を回している。


 子供たちは椅子の上にしゃがみこんで身を寄せ合いながら様子をうかがっている。

 どうやらお父さんがふてくされてお母さんを困らせているようだということはなんとなく伝わっているらしい。


 和樹の様子を見てぽかんとしていたゆかりは、そのまま横のダイニングテーブルに並んでいるお菓子達をまじまじ見つめた。

 よく見ると、トリュフはマーブルになっているものや宝石カットされているものがあるし、生チョコは抹茶、イチゴ、ホワイト、ビターの四種類もある。パウンドケーキはカラフルなドライフルーツが上に花柄に入っているし、ガトーショコラなんて生クリームの上にチョコ細工と飴細工がのっているのだ。

 パティシエにも劣らない一手間二手間を加えるなんて、さすがは和樹さんだと感嘆した。

 しかし、こんな可愛らしいお菓子たちを作りながらそんなことを考えて、冷蔵庫にあった大量の材料を全部……?


「ふっ……くくくくっ」

「……なんで笑ってるんだ」

「いや、だって、可愛いなぁと思って、浮気って……っ、ふふふっ」

「はぁ? か、可愛いって……」

「あ、和樹さん照れてます? うふふっ!」

「~~っ! あー! くそっ……かっこ悪……」

 少し冷静になったのか、先ほどの自分が言った言葉を思い出し、和樹は顔を真っ赤にして自身の前髪をくしゃりと掴んだ。


「あー笑った……ふふっ、和樹さんはいつでもカッコいいですよ!」

 そう言いながらゆかりはぽんぽんと和樹の胸を軽く叩いた。

「ゆかりさん、バカにしてる?」

 和樹はジトーっとした目でゆかりを見ているが、手には相変わらずボウルとヘラがある。その絶妙なアンバランスさにゆかりの胸はきゅうっと締め付けられた。


(可愛い! 私の旦那サマ、すごく可愛い!)


「バカにするわけないじゃないですかぁ。はいっ、じゃあ私は手を洗ってエプロンの用意しますから。材料全部使った代わりに、そのザッハトルテの仕上げは私にさせてくださいね! あ、真弓ちゃんと進くんはお手々洗った? まだ? じゃ、一緒に行こう」

 ぴしっとザッハトルテを指さして、持っていた鞄をダイニングテーブルの椅子に置くと子供たちを連れて洗面所に向かおうと歩き出した。


「……ゆかりさん」

「ん、なんですか?」

 呼ばれて振り向くと、和樹がバツが悪そうな顔をしていた。

「その、なんだ……ごめん。せっかくゆかりさんが仕事のために用意したのに……」

 しょんぼりとまるで親に叱られた幼児のよう(というか叱られたときの進とそれはもうそっくり)で、ゆかりはまた胸がきゅうっとなり目を閉じて胸元で強く拳を握った。


(待って無理! 私の旦那サマ、可愛すぎて無理!)


「……ゆかりさん?」

「あっ、いや、うん。反省してるんだったら許しましょう!」

 普段見れないような可愛らしいところを拝めたので、とは言わない。和樹のプライドがとてつもなく高いことはゆかりもよく知っているので(とはいえこれは和樹と付き合い出して知ったことで、最初はびっくりした)また拗ねだしてしまう。


「和樹さんの作ったお菓子食べるの楽しみ!」

 ゆかりが満面の笑みで言うと、ホッとしたのか和樹もつられて笑った。

「全部美味しい自信あるから、早く手を洗っておいで」

「はぁい!」


 ゆかりは自然と鼻歌を歌いながら再び洗面所へと向かった。

 子供たち、いきなりお父さんを叱り始めたお母さんをドキドキしながら見てるんでしょうね。

 でも、まだちっちゃいから理由はよくわかってなくて「お菓子食べ過ぎたらごはん食べられなくなるのにってお父さんも叱られてるのかな?」とか思ってそうな気がします。


 全種類の写真を撮って、子供たちには気に入ったものをいくつか一口大に切り分けて与えていたみたいです。

「ぼく、こえがいい」

「それはまだ仕上がってないから明日のおやつにしようね」

「じゃあ、んっと、こえと、こえと、こえと、こりぇ」

「まゆみも! まゆみもたべる!」

「丸ごとだと多すぎるから、皆で半分この半分こして食べようね」

「うん! みーんなでおやつ!」


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― 新着の感想 ―
[良い点] ドン引かずに「可愛い」と思うなんて、本当に菩薩のような人ですな。
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