330 罪作りな彼 口下手な彼
前半は、和樹さん長期出張前のお話です。
クッキーは、あなたとは友達でいたい。
キャンディーは、 私とお付き合いしましょう。
マシュマロは、あなたのことは好きじゃない。
マカロンは、特別な人。
「ごめんなさい、お気持ちは嬉しいんですけど」
誰からも受け取ってないんです、とこの日何度目になるか分からない台詞を和樹は申し訳なさそうに吐いた。
季節は冬。だけど今日だけは女子の熱気で気温が上昇、なんてのは言い過ぎだろうか。いつもはとうにピークを終えているはずのこの時間になっても客足が途絶えないのは、今日がバレンタインデーだからだ。
店内は女性客でごった返しており、いつもは六対四ほどの男女比は、今日は一対九(ちなみに一は何事かと野次馬に来たご近所商店街の蕎麦屋と八百屋の亭主だけ)という驚異的な数字を叩き出していた。
そんな彼女たちの目的は、もちろん、喫茶いしかわのアルバイター(仮)である和樹へチョコレートを渡すこと。しかし、未だその目的を果たした者はいない。
あ、また断ってる。これで二十一人目。
カウンター越しに、破れていく挑戦者たちを震えながら数えていたのは、年下の先輩である石川ゆかりだった。なぜ彼女が震えているのかというと。それは、彼女が今朝やらかしたことが原因する。
『いや、悪いですから』と強く断る彼に、『そんな! 日頃のお礼ですから』と、半ば押し付けるように渡したのだ、チョコレートを。
『いや、僕誰からも受け取らないようにしてるんですよ』という断り文句にも、『まあまあ、毒なんて入ってませんから!』あははー、なんて笑いながら。
そんな押し問答が数分続いて、折れたのは彼だった。渋々、と言った感じでお礼を言って、ロッカーにチョコレートをしまった彼の背中を満足げで見ていた自分を殴りたい。猛烈に。
だって、彼があんなに徹底した誰からも受け取らない主義だとは知らなかった。モデルさんみたいな綺麗なOLさんからも、ぴちぴちのJKからも。義理なんで! と主張していた女の子からも。ああまで誰も彼も断るなんて。
「和樹さんってほんと、罪作りな男だよねぇ」
やっとこさお客さんを捌ききり、グラスを洗いながらぼやく。日中とは一変、誰もいなくなった静かな店内にそのぼやきが響く、はずだった。
「それは聞き捨てならないですね」
「ひゃあっ!」
耳元で聞こえた声に驚き、思わず悲鳴を上げながら振り向くと、店前の掃除に出ていたはずの和樹がいた。
「聞いてたんですか!?」
「聞こえたんです 」
そう言って、彼はゆかりの落ちかけていたパーカーの袖を捲った。
「も、もう! 近いですよ和樹さん」
「まあまあ、そうかからずに終わるからじっとして」
ゆかりの背後に立ち、手首まで落ちていた袖を捲っていくこの態勢はまるで。抱き締められているみたい……と思い至ったらもう居心地が悪いったらない。
それでも離れようとしない和樹に、ゆかりは取り敢えず話でもして気を紛らわせることにした。
「そ、そういえば! 今朝は、すみませんでした」
そう切り出せば、和樹の動きが一瞬止まる。
「え? なんのことですか」
「チョコレートのことです!」
「ああ、そのことですか。いや、こちらこそせっかく用意していただいたのに」
「いやいや、和樹さんが嫌がってるのに無理矢理渡しちゃって。和樹さんが本当に誰からももらわないなんて思わなかったから」
口にしたら申し訳なさが増してくる。ああ、本当に今朝の私はなんて空気が読めない女だったんだ。後悔に飲まれていると、いつの間にか袖を綺麗に捲られていた。
「いいんですよ、ゆかりさんなら」
「え?」
聞こえてきた言葉に驚いて振り返ると、彼はキラースマイルで言った。
「ゆかりさんは特別ですよ」
◇ ◇ ◇
「もう! 大炎上案件ですよ!」
と青ざめて怒っていた年下の先輩を思い出しながら和樹は甘い香りを放つそれをひとつ摘んだ。
昔――それこそティーンの頃――黒魔術チョコだの調理実習で作ったクッキーだの未開封に見せかけて針で何かを注入されたパウンドケーキだのを押し付けられ続けた。そんなことが続いて、和樹は調理過程が見えないものについては徹底的に食さないようにしていた。それは、市販のものも同じ。自分で買ったものなら大丈夫だが、他人が買ったものは信用しない。そう体に刻み込まれていた。
なのに。今朝方、喫茶店の同僚にもらったチョコレートはどうにも捨てる気になんてなれなくて。彼女が毒を盛るなんて考えられない。そういう悪意などからは一番遠いひとだから。なんて、まるで客観性に欠けた考えだなと自嘲しながら丸いそれを口に含んだ。
「甘いな……」
掠れた台詞は暗闇に溶けていった。
◇ ◇ ◇
「和樹さん、進捗がありましたら連絡入れますから」
今日はもう戻られてください、と仮眠を取り少しはすっきりした様子の部下が告げる。時計を確認すると、あと数十分ほどで今日が終わろうとしていた。気遣いを有り難く受け取り、車のキーを握りしめた。
あと五分ほどで今日が、三月十四日というこの日が終わろうとしている。そんな瀬戸際で和樹は数日ぶりに自宅へと帰り着いた。
「ただいま、ってもう寝てるよな」
馴染みの台詞を呟きながら鍵を回し扉を開けると、部屋の明かりは煌々と点いていて、予想外のことに目を丸くした。聞こえるのはテレビの音。ああ、またか。
「風邪ひくよっていつも言ってるのに」
そんなぼやきもソファで熟睡してしまっている彼女には届かない。どうやらまた、お気に入りのDVD(いや、お気に入りすぎてBlu-layを買い直したんだった)を観ながら寝落ちしてしまったらしい。
一緒に暮らし始めて少し経つが、彼女のこれは一向に改善する兆しがない。休みの前の日の夜更かしは絶対に譲れないのだとか。
そんな彼女を抱き上げて寝室へと連れて行ったとき、和樹は思い付いた。そうだ。寝ている間に贈ってしまおう。起こさないように慎重に、彼女の華奢な手首にこれまた華奢な輪をはめていく。
「んぅ……あれ、和樹さん?」
起こさないようにしていたはずなのに、やはり気配で目が覚めたのか、さっきまで閉じていたはずの目と目が合ってしまった。
「ごめん、起こした?」
まだ虚ろだが、これは確実に眠りを邪魔してしまったらしい。ゆかりはむくりと上半身を起こす。しまった。起こすつもりはなかったというのに。しかし、目を覚ましてくれたことに喜んでいる自分がいたりもして。これだから人の感情は厄介だ。 久しぶりに彼女の顔が見れて、声が聞けて。そんな感慨に浸っていると、
「わあ! なにこれ! 綺麗! かわいいぃ」
手首にある存在に気付いたらしい彼女が、嬉しそうな声を上げる。いろんな角度からそれを眺めているところを見ると気に入ってくれたらしい。良かった。細いチェーンのブレスレットは清楚な彼女によく似合う。
「今日はなんの日?」
「あ! ホワイトデーですね」
まあ、もう過ぎてるだろうけど。
「でも、貰いすぎじゃないかしら? 私、今年はフォンダンショコラ作っただけだし」
「以前いただいた分も含めてのお返しです」
「以前? あ、そっか。和樹さん、長期出張前にお店のお手伝いしていただいてた時はホワイトデー迎える前に来られなくなっちゃいましたもんね」
彼女から貰ったチョコレート。結局お返しなんてできないままにバタバタと辞めてしまって、いまだお返しできてないのに一緒にいるから。せめてもの気持ちだ。
「ずっと引っかかってたんです。お返ししてないな、と」
「私は気にしてなかったのに。ほんと律儀なひとですねえ。まあ、私もあのときのことはずっと引っかかっていたんです」
「というと?」
「だってあのとき、和樹さん最初断ってたのに無理矢理渡しちゃったから」
そう言えば、ロッカールームで一悶着あったな。
「人から貰ったものは食べないようにしていたので」
「ああ、そういえばそんなこと言ってましたねぇ」
「ええ」
「妙な薬品や毒が入ってるかもしれないから、でしたっけ?」
「そう」
「私、毒なんて盛りませんよー」
そう言って彼女は楽しそうに笑った。ああ、そう言えばあのときもそう言って笑っていたな。あのときから、もう、僕は貴女に。
「盛られましたよ、毒を」
「えー、毒なんて盛ってないですよ」
「いえ、盛られました」
「えー、どんな毒?」
「んー、媚薬?」
「媚薬って、薬じゃないですか?」
「使い方次第で毒にもなるでしょう?」
「いやー、それは無理矢理感がすごいですねぇ」
「口下手なんですよ、僕は」
「そうだったかなぁ。まあ、お仕事中の手練手管と比べたら、普段はそこまで口は上手くないのかもしれませんねぇ」
となんだか面白がりながら懐かしんでいる様子の彼女を見て思い出す。
「実はもう一つプレゼントが」
忘れていたもう一つの紙袋を彼女へと手渡すと、これまた彼女は嬉しそうに受け取った。
「おお……! これはかの有名なパティスリーのマカロン!」
そう、マカロン。
「僕は口下手なんで」
その甘さで僕の気持ちを知ってくれ。
僕の、特別な人。
昔の和樹さん、けっこうひどい目に遭ってそうですけれど、今となっては和樹さんが作成する黒魔術チョコの餌食にゆかりさんが……という事態になっていそうな。気のせいかな?




