325-2 Beautiful World(後編)
名残惜しいが再び寝息を立てた彼女から離れ、一旦バスルームに向かう。
結婚後もゆかりは喫茶いしかわに勤務しているが、明日から二日休みのはずだ。いつも和樹が完璧に把握しているゆかりのシフトに変更はないはずだし、自分も明日から二日間の、確実な休みをもぎ取った。
今日は彼女を両腕でしっかりと抱いて眠ろう。そしてたっぷり朝寝をして、晴れていたら散歩にでも出かけたい。
近くの公園の薔薇が見頃だと昨日ゆかりからメールが来ていたので、一緒に見たい。
香りを楽しむなら早朝だが、まあ、そこはいい。積極的に妥協しようじゃないか。朝寝の誘惑には抗いがたい。
最近では、苦しくて飛び起きる夢をもう見なくなった。暴力的な夢も、喪失感に打ちのめされる夢も。目覚めても、呼吸の仕方を忘れるような、真っ黒な夢はもう遠い。
仕事の合間に取る仮眠はある意味「気絶」で夢も見ないし、夢を見るほど穏やかに眠れるのは彼女の傍だけだ。
そして夢の中でも、和樹の世界にはゆかりがいる。
夢の中のゆかりは、あるときは明確で、あるときは茫洋としているが、それでも彼女の存在は近く感じるし、それは和樹をこの上なく安堵させる。和樹の眠りを守り、心地よい呼吸の仕方を教えるものだ。
コルクをひねる。熱いお湯に全身を打たれながら、和樹は少し笑った。「寝ても覚めても」とはまさにこのことだ。彼女の居ない、世界では。
「もう、息もできない」
数年前の自分がこれを聞いたら、「正気じゃない」というだろう。
「それはとても正気じゃない。まったく認められない」
と、心底軽蔑し、そしてこの上なく怯えた顔で。
全く同意だ。
視界の端に、緑が映る。
このバスルームには、アグラオネマが飾ってある。マンションだから窓がないバスルーム。ここでも育つ、耐陰性の強い植物をゆかりが選んだ。深夜に帰宅することが多い和樹の心を、少しでも癒すように。
夜目の効く和樹は、ゆかりの就寝後に帰宅すると電気をつけずに部屋の中を歩き回ることも多いが、浴室ではさすがに明かりをつける。
だから浴室にも緑が必要だと、ゆかりが主張したのだ。
ゆかりはなるべく和樹がリラックスできるようにと、心を込めて部屋を整えてくれている。
観葉植物やルームフレグランス、ささやかな花などで。
和樹が一人で生きていたころ、この世界に無いも同然だったものだ。
いつか彼女に「いいお嫁さんになる」と言ったが、予想以上だ。彼女は、和樹には過ぎた妻だった。
浴室を出ると、消えた明かりの向こう、浴室の鏡に自分が映っている。
ぼんやり古傷を見ていると、昔の自分が嗤っているような気がした。
それが、お前だよ、と。
妻という他人がいる箱庭を手に入れ、不似合いな場所で浮かれている和樹を蔑んでいる。
無表情で、それを見返す。濡れた前髪が額に張り付いて鬱陶しい。
黙って見てろよ。
和樹はかすかに口角を上げて、浴室のドアをバタンと閉めた。
女一人にほだされ守られ生かされて、呼吸の仕方まで教えてもらう。そんな今の己を嘆く、過去の和樹を、そこに閉じ込めるように。
「……う……ん?」
いつもより苦しい。なんか、重い。
でもすごく、すごくすごく、好きなにおい。世界で一番、いいにおいがする。
ゆかりがゆるゆると目を開けると、目の前に長いまつ毛があった。
カーテンの隙間から溢れる陽光が眩しくて、目を細める。
いつの間に、ベッドに来たんだろう。
数日前にシネマチャンネルで放送していたから迷わず録画した、一番好きな映画を見ながら、懐かしい思い出に浸っていたはずなのに。
疑問に思うと同時に答えも出た。
今、自分をがっちり抱き込んで静かな寝息を立てている彼が、運んでくれたんだろう。なんだか、ぼんやり記憶しているような気もするけれど、あれは夢だったのかもしれない。
恋しくて恋しくて仕方ないから、夢に見てしまったのかもしれない。よくある、ことだ。
多忙を極める和樹と、ゆかりの時間はなかなか重ならない。
時計を見ると、朝八時前。いつも起床は五時、遅くても六時だから、随分と寝過ごした。
日当り良好のこの部屋で眠っていて、寝過ごすことはなかなか珍しいのに――結婚して知った、休日はすこぶる寝起きの悪い和樹は別にして。
ゆっくりと身体を起こすと、腰に巻き付いて居た和樹の腕がずるりと落ちた。
端正に整っているが、あどけない寝顔に笑みが溢れる。
彼を起こさないよう、ずるずると尻を引きずって移動していたところで、伸びてきた腕がゆかりを捉えた。
「いやだ」
「……わっ」
ゆかりの膝に頬をつけて、うつ伏せの和樹が腰に抱きついてくる。目は伏せられたままだった。
「和樹さん」
「いやだ。いかないで、ゆかり」
その広い背中を、ゆかりは控えめにぽんぽんと叩く。
「……寝ぼけてます?」
「起きてるよ。いかないで」
大腿にぐりぐりと擦り付けられる頭を、ゆかりは困ったように撫でた。
「和樹さんはもう少し寝ててください」
「一人寝は嫌だ」
「でも、ブランくんにご飯をあげないと」
うん、と、寝起きでかすれた声で和樹はしばらく逡巡しているようだった。
「だったら、あげてすぐ戻ってきて。今日は、ゆかりさんと朝寝をするって決めたんだ」
よしよしとなだめるようにアラサー男の頭を撫でながら、ゆかりは「困ったなあ」と眉毛を下げた。
彼のお願いならなんでも聞いてあげたいけれど――お腹をすかせたブランがへそを曲げるのも時間の問題だ。洗濯もしたい。
「じゃあ、あと五分」
「……厳しくない? 四十分」
「十分」
「…………」
膝の上の後頭部に向かって、ゆかりは「いいお天気ですよ」と告げた。後頭部は沈黙を返す。
「いいですか、和樹さん。結婚とは、妥協の連続なのです」
「誰の格言……?」
「んん? ワイドショーかなぁ」
それから、しばらくうじうじとゆかりの膝の上でぐずっていた和樹だが、三分位で観念した。
「わかったよ、僕のお姫様」
観念すると、和樹はゆかりより早くベッドから降りて、手を貸してくれる。
ふふふと笑って、ゆかりは差し出されたその手に自らの手を重ねた。
この後はたぶん、バラの香りを楽しみながら朝のお散歩した後パンの美味しいサンドイッチをテラスで食べるデートして和樹さんがでれでれに溶けるとか、スーパーで存分にいちゃつきながら買い物して夕食の支度を二人でするとか、そういう一日を過ごすんじゃないかな。
きっとこれでもか! というくらい全力バカップル(いつも通りゆかりさんは無自覚で和樹さんは牽制込みの確信犯)を周囲に見せつけてくれてると思うよ。




