325-1 Beautiful World(前編)
ゆかりさん新婚当時の、五月頃の話。
ふう、と和樹は軽く息をつき、車のキーを手の中でくるりと回す。深夜のマンションの廊下に、カチャリと音が響いた。時計を見ると午前一時半。
夕方送った「帰宅はできそうだが、日付は変わると思うので寝ていてほしい」というメールには、愛する妻からすぐに「了解」の旨の返信が来た。
さすがに、もう寝ているだろう。
「……ただいま」
自宅のドアをくぐるのは三日ぶりだ。一応そっと帰宅の挨拶をしてみるが、予想通り室内は暗い。
シューズボックスの上に置かれているシンプルな真鍮のトレーの中に鍵を入れ、隣の小さなランプの明かりを消した。これは、帰宅する和樹のために彼女がつけてくれていたものだから。帰宅が済むと、もう不要だ。
このマンションは、同棲を始める時に移り住んだ。
閑静な住宅街、緑地のそばに立つこのマンションは南向き。リビングの窓は天井まで伸びており、日当たりを重視する彼女は一目で気に入ってくれた。お眼鏡にかなってほっとした。最高級とはいかないまでも、それなりに眺めもいい。
ふたりでの生活を始めるにふさわしい家だ。
玄関の小さな明かりを消すと、リビングから微かに明かりと音が漏れてきているのに気付く。
ドアを開ければ、大型テレビから流れてくる控えめな音量のイタリア語――『ニュー・シネマ・パラダイス』。彼女が好きな映画。
そして和樹が初めて飲食以外の理由で、プライベートで彼女を連れ出すことに成功した口実。「デジタル・リマスター版が一日限定で上映される」と、半ば強引に連れ出した。
なので、和樹にとっても意味深い一作である。
テレビに映るのはちょうどラストシーンだった。映画館で、彼女が大号泣していたシーン。
ああ、あれ、そういえば僕、あの時苦情言われたんだったっけな……と、エンニオ・モリコーネの音楽を聞きながら思い出す。
情感に溢れたフルートの独奏。胸に染み入るヴァイオリン。
あの日、隣の席でしゃくりあげている彼女の手を握った。たぶん、彼女は泣くのに夢中で気づいてなかった――当時の和樹には結構、勇気のいる行動だったのだが。
ゆかりとのデートは初めてだったし。手が早いと思われたくなかったし。なにより、信頼されたかった。どうも、ゆかりは和樹のことを「ちょっとチャラい」と認識していたようなので、それをまずは全力で払拭しなければならなかったのだ。
映画が終わったとき、彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃで
「初めてふたりで行く映画なのに、泣く映画って……! ひどいです、メイクが」
とかなんとか、映画館を出てそうそう鼻声で苦情を言われた。
泣いて赤くなった鼻も潤んだ瞳も、彼女曰く「どろどろメイク」でさえも可愛かった。
レイトショーだったので外に出たら商業施設の明かりも減って暗くて、そのまま少し車を走らせて海に向かった。しばらく泣きじゃくる彼女の手を引いて、遊歩道をぶらぶら歩いた。映画のこと、喫茶いしかわのこと、今までのことを、ぽつりぽつりと話しながら。
華奢な手を握りしめて、「ああ、抱きしめたいなあ」と思っていた。慰めて、キスをしたいと。
でもその時は、できなかった。繰り返しになるが、チャラいやつだと思われたくなかったから。
リビングのフロアランプは一つだけ灯されていて、控えめな暖色の明かりに彼女の頬が照らされている。
和樹は目を細め、腰をかがめて手を伸ばした。指の腹で、頬を撫でる。今は、その頬に涙はなかった。エンディングを見る前に、眠ってしまったのだろう。
「ただいま。……ゆかりさん」
額に、キスを一つ。妻からは、すうすうと健やかな寝息が返るのみだ。
ソファにことりと横たわる彼女の頭のそばには、ブランが丸まっていた。和樹がリビング入ってきたときに、首を伸ばしてこちらを見ていたが、鳴くことはしなかった。
彼の寝床はリビングの窓の近くにあるのだが、和樹不在のときはいつもゆかりのそばにいるらしい。しつけが行き届いているから、ベッドの中には来ないが。
「おまえも、ただいま。ブラン」
顎を指先でくすぐれば、ブランは目を細め、そのまままた眠る姿勢に入った。
ああ、本物だ……と、三日ぶりの妻にしみじみ感動して、ゆかりの額に自分の額をくっつける。髪の間に手を差し入れると、清潔な香りがした。
改めて喫茶いしかわに通うようになってから、なかなかゆかりは和樹のアプローチに気が付かなった。
彼女はある意味、どんな商売敵よりもライバルよりも強敵だった。
だから、彼女の興味を引くものが必要だったのだ。
以前通っていた頃に得た彼女に関する知識を総動員し、その中から一番口実に使えそうなものを選んだ。それが『ニュー・シネマ・パラダイス』。絶妙なタイミングでデジタル・リマスター版が上映されることを知ったとき、和樹はまだ見ぬ神に感謝した。柄にもなく。
「でも……だって、知らなかったんだ」
妻の寝顔に向かって囁く。
彼女が好きな映画を餌にして連れ出したけれど、それがどんな内容なのか、和樹は知らなかった。見たことがなかったし、今までは興味もなかった。
告白すると、映画館に行ったのも、あの時が初めてだった。そんな人生を、歩んでこなかったので。
だからあんなに泣かれるとは、夢にも思わなかったのだった。
眠る彼女の髪を撫でて、指を絡める。
白いサテンのナイトウェアからすんなりと伸びる白い足に舌を這わせたかったけど、流石に今はやめておこう。
ラグの上にあぐらをかく和樹のそばに落ちている足首を軽くつかむ。
ゆかりの足の指先を彩るのは、恋人になってすぐに和樹が贈ったネイルポリッシュだった。
喫茶いしかわに勤務するゆかりの手の爪に色が乗っているのを見たことは一度もないが、足の指はいつも綺麗に彩られていることを知ったからだ。
コーラル・ピンクのネイルポリッシュは、『マイ・ダーリン』というコレクション名だった。
ゆかりの小さな足の指をひと撫でして、そこで視線に気づく。じっと和樹を見つめていたのはブランだった。
「……やらないよ」
これ以上は、もう。起こしたくないし。跡をつけて、のちのち彼女に叱られるのも嫌だ。ホールドアップして、非難してくるブランに降参の意を示す。ため息を付いて、和樹はそっと彼女を抱え上げた。
「ん……」
腕の中で小さく彼女が息を漏らし、長いまつげが震える。
「かずき、さん……?」
「いいよ、寝てて」
「おかえりなさい」
「ん、ただいま」
もう一度額にリップ音を立ててキスすると、ゆかりがくすぐったそうに笑った。
少々足癖が悪いが、スリッパのつま先でリビングの扉を開ける。完全に閉まっていないが、ゆかりを抱えて通るには少し狭かったからだ。
寝室のベッドは、和樹が選んだクイーンサイズのもの。マットレスも上質だ。ゆっくりと華奢な肢体を横たえると、ピローミストの香りが鼻孔をくすぐった。
「シャワーに行ってくる」
耳元で囁くと、ゆかりが腕を伸ばして和樹の頭を抱いた。
「よしよし。お疲れさまでしたね」
半分寝ぼけた、舌っ足らずの声に、和樹は笑う。
「……まったくだよ」
ゆかりは、和樹の髪を撫でながらくすくすと笑った。
そこそこ歳上の男を捕まえて(正確には捕まって)彼女は時々、なんというか世話を焼きたがる。
この上なく、和樹を甘やかすのだった。年端もいかない少年を、腕の中で庇護するように。
面倒見が良いのはもともと知っていたけれど、こういう方向で自分にも発揮されるとは思わなかった。
たまに天然から外出先でやられるとさすがに苦言を呈すけれど、二人きりのときはゆかりの好きにされている。なにせそれが、けして嫌ではないから参っているのだ。
自分でもときに辟易するほどプライドの高い、この、僕が、まんざらではないのだから。
名残惜しいが再び寝息を立てた彼女から離れ、一旦バスルームに向かう。




