312 ブランくんからのご挨拶
前回の続きかもしれないし、そうでないかもしれないし。
ふと意識が浮上してまぶたが震える。半目に映ったのはぼんやり浮かぶ、寝室とリビングを隔てる障子。何度か瞬きをすればカーテンの隙間から伸びる一筋の光も見えて、朝だなあと頭の片隅でぼんやり思った。
気怠げな体で寝転んだまま、散乱した衣服ときっちり閉まった障子をぼうっと見つめる。朝ごはん作って洗濯して掃除して、とあれもこれもしなきゃと思うだけで体は動かない。それだけではなくまぶたも重たくて動ける気がしなかった。
だって昨日はフルタイム勤務で五連勤の最終日。そこから夜も軽く運動を……あれを軽いと言っていいのかわからないけどたぶん彼にとっては軽い運動だった。なんて、そこまで考えて瞬きをひとつ。やめよう、思い出すと恥ずかしくて居た堪れない。背中側にいる彼もまだ規則正しい寝息を立てているし、今日は休みと言っていたから急いで起こす必要はないだろう。そう思ってまた意識を手放そうとした、のだけど。
彼と自分以外誰もいないはずなのに障子がすすっと動いた。続いてふすふすと空気の漏れる音が聞こえてくる。何だろう、何の音だろうか。気になる気持ちに反して閉じようとするまぶたを無理にでも持ち上げたのは不審者なら寝ている場合じゃないから。まあ本当に不審者であれば、なんだかんだと警戒心の強い彼がいち早く反応するだろうから大丈夫だと思うけど。
そんな心持ちで見つめていれば、障子から黒い点がにゅっと突き出てくる。その奥には白いもふもふが見えた。
「あ、ブランくん……!」
頭の後ろに温かな寝息がかかっているので、できる限り声を抑えて名前を呼べば器用に足をかけて障子を開ける彼の愛犬、ブランの姿。いつもは大人しく自分の寝床で彼がリビングへ行くまでは寝ているみたいだけど、こうやって朝になると彼とゆかりの様子を見にやってくることがある。
散歩とかご飯とか言いたいことがたくさんあるのかもしれない。けれどブランがいつも強請ってくるのは挨拶だ。その姿が可愛らしくてつい甘やかしてしまうが、こんな風に甘えてこられたら誰だってそうなると思う。ゆかりだってあんな甘えた姿を見たら全力で構いたくなってしまう。
そんなことを考えつつブランを見つめていれば、小犬が通れるほどの隙間を開けて前足だけを寝室に踏み入れてきた。でもそれ以上は進もうとせず、なぜかそこで立ち止まる。まだ廊下にあるしっぽを千切れんばかりに振って、ゆかりを見つめ返したまま可愛らしいピンク色の舌を見せていた。
(いい子だなあ、本当に)
そう、そういう躾をされているのだ。寝床をきちんと分けているのでブランはあまり寝室に入ったことがないし、とくに夜は入っちゃだめだよと言われている。たしかに今は布団も敷いてある状態だから彼はだめというかもしれないけど、こんなにかわいい顔を見てしまったゆかりには、だめなんて言えそうにない。少しだけならきっと許してくれるだろうとゆかりはシーツに肘をついて上半身だけ起き上がった。
しばらく立ち上がれない、まだ寝ていたい、と思っていたはずなのにその姿を見ていたらさっきまで纏わりついていた眠気が飛んで少しだけ体が軽くなったような気がする。小さく伸びをしてから大きく両手を広げて、おいでと音もなく唇を動かせばブランがうれしそうに近寄ってきた。
「ん~、ブランくんおはよう」
前足をゆかりの太ももにかけて顔を近づけてくるブランに、ゆかりもまた顔を近づけた。添えるように背中に手を置いてやさしくハグをしたらぺろっと頬をひと舐めされる。ゆかりもお返しとばかりにふわふわのほっぺに唇を寄せれば。
ふにゅ、ぺろ。
ふわふわの毛に顔が埋もれる感触ではなくぬめりと湿り気のある何かが口にくっついた。あれ思ったのと違うなと、ぱちぱち瞬きをした先で。真ん丸の黒い目とばっちり目が合った。
「あはは、ちゅーしちゃった」
そういえば顔を近づけるといつも口を舐めようとしてきてたっけ。それがブラン流の挨拶なんだなとくすくす笑っていれば、お腹に筋肉質の腕が巻き付いてきた。
あまりに突然で思わず肩がびくんと跳ねてしまう。そんなゆかりの様子を気にすることなく、そのままぐっと抱き込まれて体が少しだけ後ろに傾いた。
ちらりと視線だけ後ろに向ければ、彼の頭が肩に埋もれている。いつの間に起き上がったのだろう。音がなかったのはゆかりと違って肘をつかなくても腹筋だけで起き上がれるからかな、なんて呑気に考えていれば。ぐりぐりと額を押し付けられ首に擦れる髪の毛が擽ったくて笑ってしまう。
「ぼく、ちゅーしてもらってませんけど。ゆかりさんの浮気者」
最後の言葉だけ何だか力強かった気がするけど気のせいかな。ちょっと拗ねたような言い方にお腹の中がくすぐったくなる。ゆかりはことんと首を倒して彼の頭にもたれかかり、お腹に巻き付いた腕に手のひらを重ねた。
「えー、昨日たくさんしたでしょ」
「昨日たくさんしたのはえっ、いてっ」
「痛くないくせに!」
この人は何を言うんだ。こんな朝から、しかもブランくんの前で!
そう抗議するように視界の隅にある髪をわしゃわしゃかき混ぜれば、ぐんと背中側に引き寄せられてシーツにまた寝転んでしまう。わ、と声を上げればまだ抱きついたままの彼が後ろで楽しそうに笑っている。
「彼氏にもおはようのちゅーしてください」
まだ諦めていなかったんだ、と言ったら本当に拗ねてしまいそうなのでゆかりは首だけ彼の方へ振り向いて頬に手を添える。そして首を伸ばして触れるだけのキスを送った。その至近距離のまま、おはようと挨拶つきで。
そうすれば彼がくしゃりと目じりを下げて笑う。あまりに幸せそうな顔をするので、愛おしくてほっぺにも唇を寄せた。もうひとつ、おまけのキス。そうすれば、そのままとろけてしまいそうな瞳があわく色づく。
さすがに首だけ後ろに回すのは限界だなと寝返りをうって彼と向き合えば、彼の瞳にまつげが被さりお腹に回っていた腕が離れた。今度は背中を撫で上げられ首の後ろに大きな手が添えられる。
ゆかりはそれを受け入れるようにまぶたをゆるりと下ろしたところで。感じたのはふわっふわの気持ちいい毛玉の感触。あれ、また予想と違う。ぱちりと目を開けてみれば視界いっぱいに白いモフモフがあって。
「ブラン、こら。ちょっと。順番だって」
「ふふ、ブランくんも挨拶したかったんだね」
アンッ! と控えめながら嬉しそうに聞こえるお返事がひとつ。
どうやら熱烈な挨拶を彼にも送っているらしい。可愛らしい攻撃に彼もまた抗えないようで。あらあら、彼女へのおはようのちゅーを取られちゃった。そう冗談まじりに笑い声を落とす。
ブランのやわらかな体を二人で抱きしめながら、ひとしきりじゃれ合ったのだった。
健全方向に全力でぶん回してくれるブランくん、いい子!(笑)




