309-1 真になっていく嘘(前編)
和樹さんだけが自覚してた頃のお話。
さて、どうしたものか。
にやにやした笑顔で見つめてくる男性を前に、私はこっそりため息をついた。
今日は喫茶いしかわの定休日。高校時代に仲の良かった友人たちと女子会をした、その帰りだ。ほんのりお酒も入って、実にいい気分で帰り道を歩いていた。ここまではいい。
街灯の少ない、やや暗い通りを通ったところで。
「お姉さん、一人?」
暗がりの公園から突然、声がかかった。びっくりして振り返ると、年は私と同じくらいだろうか、背の高い男性が軽薄そうな笑みを浮かべていた。私は思わずぎゅっと鞄を握りしめた。
「……何か?」
「そんな警戒しないでよ」
くすくす笑いながら、男が近づいてくる。つん、と煙草のにおいが鼻をついた。
「もう夜も遅いのに、一人で帰るなんて危ないよ? この辺、不審者だって出るんだから」
何を言われるかと思えば……なんだ、いい人じゃないか。私は肩の力を抜いた。見た目で判断するなんて悪いことをした。男は赤みがかった金髪という派手な髪色をしているけれど、チャラそうに見えて実はいい人かもしれない。
私はにこりとよそ行きの笑顔を貼りつけて、頭をさげた。
「ご心配、ありがとうございます。でも、家まですぐそこなので大丈夫です」
そう言って華麗に去ろうとしたのだけれど……。
「ちょっとちょっと」
がし、と腕をつかまれた。突然のことにびっくりして、酔った身体がぐらつく。
「あの、まだ何か……?」
「これも何かの縁だし、送っていくよ」
「いえ、そこまでしていただくわけには……」
「どのあたり? 一人暮らし?」
困った。善意なのだろう、笑いながら問いかけてくるけれど、正直ありがた迷惑というやつだ。
どうやって傷つけずに断ればいいのか……そうだ! これなら!
素晴らしい断り文句を一瞬でひらめいた私は、こほん、と咳払いをして唇を開いた。
「ごめんなさい、私にはめちゃくちゃイケメンだけど嫉妬深い彼氏がいるので……」
「ははっ」
男が鼻で笑う。どういう意味だろう、ちょっと傷ついた。
男はわざとらしい仕草で前髪をかきあげると、言った。
「大丈夫、俺、そういうの気にしないから」
ぎらり、と一瞬、男の眼が光ったような気がした。怖い。背中にひやりとしたものが流れた。何だろう、相変わらず軽薄そうな笑みを浮かべているけれど、先ほどまでとは何か違う。逃げろ、と本能が告げていた。じり、と後ろに下がるが、腕をしっかり掴まれているため、逃げられない。振り払えない。怖い。男の髪が、ぱさぱさに傷んでいるものだと、今更ながら気付いた。
「……あ、の。腕、放してください」
勝手に震える唇を何とか動かし、口にする。もっと毅然とした声が出せたら良かったのに、出たのは馬鹿みたいに弱々しい声だった。それでも放して、と伝えたのに。男の力はますます強くなるばかりだ。こくり、と目の前で男の喉が上下した。
「あはっ、そんな怖がんないでよ。大丈夫、痛いことしないって。気持ちイイことしか、しないからさ……」
きゅうっと、男の眼が細まる。あ、この眼、見たことがある。野良猫が捕まえた雀を喰らう直前の眼だ。
ひ、と喉から引きつれた息が漏れる。逃げなきゃ、と思うのに身体が動かなかった。
「ゆかり」
その時。背後から、突然声がかかった。耳に心地よい、落ちついた低音。
ゆっくりと、でも確実に近づいてくる靴音。ふわりと漂う、石鹸とベルガモットが合わさった爽やかな香り。まさか、いや、でも……。
振り向くと、そこには完璧としか言いようのない笑顔を浮かべた美しい青年……和樹さんが立っていた。
「……和樹さん」
「こんな所にいたのか、迎えに行くって言っただろ?」
にこり、と和樹さんが笑う。薄暗い街灯の明かりでもはっきりと分かる、その整った顔立ち。モデルでも十分通用する抜群のスタイル。和樹さんも今日はオフのせいか、喫茶いしかわに来てくれる時とは少し雰囲気が違う。闇に溶け込んでしまいそうな、ひと目で一級品だと分かる黒の上下で、かっちりとした服装だった。
「飲み会、楽しめたか?」
「え、はあ……それは、まあ」
「じゃ、帰ろうか。……こちらの方は?」
ぴりっと、空気が震える。一段、低くなった声でそう言うと、和樹さんは男の方を見た。鋭い眼光が夜の闇を割く。まるで抜き身の刀でも首筋に押し当てられているかのような、圧迫感だ。男が野良猫だとしたら、和樹さんは狼とかライオンとか、そういう大型肉食獣。食物連鎖の頂点だ。格が違う。
先ほどまでぽかんと口を開けて和樹さんの美貌に見とれていた男は、和樹さんに睨まれた瞬間、まるで焼いた栗にはじかれたがごとく、私の腕から手を放した。
「……めちゃくちゃイケメンだけど嫉妬深い彼氏……」
顔面蒼白の男はぼそり、と呟くと、あとは後ろも振り返らず逃げ出した。速い。見る見る小さくなっていく後ろ姿に呆気に取られていると、背後からはぁ、と重いため息が聞こえた。
「何をやってるんですか、ゆかりさん……」
「和樹さんこそ。こんな所で奇遇ですねぇ」
「別件の仕事帰りです。それより、こんな暗い道を女性一人で酔った状態で通るなんて、危ないでしょう」
和樹さんの声が厳しい。じと、とした目で私を睨んでくる。
「よく私が飲み会帰りだとわかりましたね。さすが和樹さん」
「随分かわいらしい格好をしてますし、頬も赤くなってますから分かりますよ。今の男性は、顔見知りというわけでもなさそうでしたが、ナンパですか」
「心配して声をかけてくださったように見えたんですけど……やっぱりナンパですかね?」
「ゆかりさん……あなた今、本当に危ない状態だったんですよ」
くしゃり、と苛立った仕草で和樹さんが髪をかきあげた。眉間にはしっかり深い皺が刻まれている。
「そこの公園に無理やり連れ込まれでもしたら、どうするんです。僕が今、たまたま通りかかったからいいようなものを……」
珍しいことに、和樹さんが怒っている。注文を間違えても皿を割っても口元に笑みをたたえている、和樹さんが。それが、本当に私を心配してくれているからだというのは容易に分かって、私はなんだか申し訳ない気持ちになった。
「あの、和樹さん。ご心配おかけしてすみません。次から気をつけますから」
しゅんと反省して言うと、和樹さんはまたため息をついた。
「分かってくだされば、いいんです。僕こそ、ゆかりさんが悪いことをしたわけじゃないのに、きつく言ってすみません。仕事帰りでちょっと気がたっていて」
「いえ。彼氏のふり? までしてくださって、ありがとうございました」
ゆかり、と名前を呼んだ低い声を、今更ながら思い出して、ほんの少し頬が赤くなる。
「私ももっと話を合わせれば良かったです。すみません、気がきかなくって」
「そこまでの機転は求めてませんよ。バレなかったんですし、いいじゃないですか」
「さすがですね、和樹さんは……」
「え?」
こてり、と和樹さんは首をかしげた。
「顔色が変わらない。……私は駄目です。ゆかりって呼び捨てで呼ばれるだけですぐに照れてしまって」
言ったそばから、かぁっと頬が熱くなるのが分かる。うん、やっぱり下手な嘘はつかなくて良かった。ぱたぱたと手で顔をあおぐ私を見て、和樹さんはふっとやわらかく笑った。張り詰めていた空気がほどけていく。ようやく、いつもの和樹さんに戻った気がした。うらやましいくらい長いまつ毛を伏せて、和樹さんは静かな声で言った。
「そうですね、ゆかりさんは嘘が下手ですから」
「……ひょっとして馬鹿にしてます?」
「まさか。いいと思いますよ、とても。この世の中には稀有な存在だ」
「そんなことないと思いますけど」
「ゆかりさんの世界では、そうなんでしょうね」
くすくすと、和樹さんは笑う。それはまるで、自分の世界は嘘つきだらけだと言っているようではないか。私はその時、和樹さんがふとした折、底なし沼みたいに暗い目を見せる理由を、垣間見たような気がした。けれどもその闇に、和樹さんは私を触れさせない。いつも上手に笑顔で隠してしまう。
話をそらして、いつも通りの、軽口の応酬をする。
私も、無理には触れない。言いたくないことは、言わなくていい。私たちはただの常連客と看板娘。だから、これでいい。
ほんの一瞬だけ、ふ、と。和樹さんの眼が遠くなる。普段のにこにこ愛想のいい和樹さんとは、まるで別人みたいに見えて、私はびくりと肩を震わせた。今にもふっつり、夜の闇の中に消えてしまいそうだと思った。
でも、それも一瞬のこと。和樹さんはまた、いつもの笑顔を浮かべてしまった。まるで手負いの野生動物みたいな人だ。濃い血の匂いをまとっているくせに、平気な顔で笑って、絶対に傷は見せない。
いつもなら、「なんですかそれ」って言って、私も笑って。流して、深くは追わない。
和樹さんも、それを望んでいる。
……本当に?
薄暗い街灯のせいだろうか。闇にぽつんと照らされる和樹さんは、いつもよりほんの少し疲れていて、どうしようもなく、寂しそうに見えた。
私の酔いはこれまでのあれこれですっかり醒めてしまっている。




