307 長針と短針
途中でちょっと艶っぽいお話が入るので、苦手な方は自衛してくださいね。
伸ばした指先の奥に見えたのは、私より色の濃い肌とほんの少しだけかさついた唇。
私が手を伸ばしていることに気付いた彼はその手に擦り寄り、撫でられている猫のように目を細める。
「ゆかりさんの手、ひんやりしてるね」
「そう?」
「うん、気持ちいい」
そっと頬に両手を添えれば彼の唇がゆっくりと降りてくる。緩やかに瞼を閉じれば真っ暗な世界。でも、彼の汗ばんだ匂いがすぐ傍に感じられるから怖くはない。
ほんのひと匙の淡い期待を胸に待っていれば、彼の唇が落とされたのは思っていた場所から僅かに右ずれたところ。考える間もなく、それは微かに鼻先を掠めながら今度は左頬に。ぴくりと小さく肩を揺らしながらも、薄く唇を開いて「ここよ」と示してみるけれど、彼はそのまますぐ上の閉じられた瞼に唇を落とした。
「意地悪しないで」
キスを合図に瞼を開けば、彼の瞳が真っ直ぐこちらを捉えていた。口を尖らせる私にふっ、と微かに吐息を漏らして口端を緩めた彼は「ごめん」という言葉とともに、額に口付ける。全然わかってないじゃない、とさらに文句を言いかけた唇はすぐさま彼に塞がれ、伝えるはずだった言葉は彼の舌にするりと絡め取られてしまった。
どちらからともなく堕ちる夜。
ふたりだけの空間には衣擦れの音と唇が触れる音だけが聞こえ、それが鼓膜を揺らし、ジリと体の芯を熱く、甘く痺れさせる。
ベッドの上の私たちはぴったり重なって、まるで針のない時計みたい、とぼんやり考えていれば、彼が「何を考えているの?」と首元から顔を上げる。前髪に隠れた瞳の奥に熱を灯している彼を真正面から見つめながら、私はぽそりと言葉を落とす。
「時計のこと」
「時計?」
「うん。もし、私と和樹さんが時計の長針と短針だったら時計としての役割は果たせないなあって……だって、ぴったりくっついて離れない」
ふふ、と笑えば彼もまた「そういうことか」と小さく笑う。
「可愛いこと言ってくれる」
「可愛いんですか? 我ながら何考えてるんだ、って思いましたけど」
「だって、それってつまり僕から離れたくないってことでしょ。可愛いし、嬉しいに決まってる」
口角を上げた彼はゆっくりと後退りし、私の腰のあたりに膝立ちになると、私の着ているTシャツの裾をたくし上げる。剥き出しの肌がひんやりとした外気に晒され、思わずピク、と震えてしまった。
それに気づいた彼は人差し指でちょん、と臍をつつく。擽ったさに「ちょっと!」と抗議の声を上げるも、彼は私の反応の良さに気を良くしたのか、その指をすーっと谷間まで滑らせる。かと思えばUターンし、今度は臍を通り越してショーツの際まで指を滑らせた。肌に触れるか触れないか、ギリギリのところを遊ぶように行ったり来たりする指に無意識に体は震えてしまい、私は擽ったさを逃すために唇を噛んでしまう。
「我慢しなくていいのに」
ふいに暗闇の中で彼の声が聞こえ、自分が瞼を閉じていたことに気がつく。声が聞こえてきた方向を辿れば、私の腰を両手で緩く掴んでいる彼が、下から覗き込んでいた。
「だって、もう無理……」
「今から我慢していたら、もたないよ」
小さなリップ音とともに下腹に柔らかく落とされた唇に腰は戦慄く。彼はそのまま臍より下の下腹にばかり、這うように丁寧に、隙間なく唇を落とし続ける。指先は触れていたショーツのラインには絶対に触れずに。それがどうしようもなくもどかしくて、落とされる唇がやっぱり擽ったくて、私の感情はぐちゃぐちゃだ。
「ふ……ふふ」
擽ったさの限界を超えた私は、吐息混じりに笑い声を溢す。私が震えながら笑っていることに気づいた彼は体を起こし、ギッとベッドを軋ませながら私の正面に戻ってきた。
「笑っちゃうくらい擽ったかった?」
「うん、もう限界。あーあ、雰囲気壊しちゃった」
止まらない笑いに涙まで浮かんできてしまい、私は笑い混じりに溜息を吐きながら、指先で目尻に溜まった雫を掬い取る。
「まあ、僕ららしくていいんじゃない? 緊張しているより」
垂れている目尻をさらに垂れさせながら、彼は自身が纏っている白いTシャツを脱ぎ、パサリと床に落とす。鍛え上げられた身体の、その肌の中に、肌の色と少しだけ色が違ういくつもの切り傷を見つけ、その一つにそっと指を這わせれば、彼が小さく肩を揺らした。
「どうしたの?」
「うん……あのね、この一つ一つの傷が今の和樹さんを作り上げているのかなって。ほら、“傷は男の勲章”っていうでしょ? 怪我をして良いことなんてないし、できれば和樹さんには怪我なく帰ってきてほしいけど……でも、どの傷にもそれぞれできた理由とか、そこから得た経験があるでしょ?良いものも悪いものも。それがいっぱい積み重なって、今の貴方に……私の大好きな和樹さんになっているのかなって」
なんてね、と小さく笑う私とは対照的に、彼は驚いているような困っているような、感情が定まらない不思議な表情で私を見つめる。
しばらくすると突然深い溜息をつき、かと思えばぐっと勢いよく寝そべる私に顔を近づけてきた。
「本当にそういうところ」
「え、なに?」
突然の言葉に訳がわからず目を白黒させている私に、彼はくしゃりと破顔した。
「僕も大好きだよ、ってこと」
視界いっぱいに映る子供のように無邪気な笑顔に、胸がどうしようもなくいっぱいになる。
余裕があって甘やかしてくれる大人な彼も大好きだけれど、私の前だけで見せてくれる少年のようにあどけない笑みもまた、彼らしくて愛しい。
「嬉しすぎて泣いちゃいますよ」
と不恰好な笑顔を見せれば、彼は私の髪をふわりと撫で、
「泣かれたら困るなあ」
とやっぱり笑った。
今だけは。この時だけは。彼と肌を重ね、すべてを曝け出し、不安も何もかもを飲み込んで想いのままに溶け合うこの一瞬だけは、ふたりだけの『真実』だ。
彼の耳元に唇を寄せて吐息混じりに囁けば、それが私たちの『はじまり』の合図。
さあ、興味深い時間のはじまり。
こういうじゃれ合いは普段からたくさんしてそうなふたりですよね。
リア充爆発しろとしか言えねぇ……(苦笑)




