302 その手はやめましょう、その手は
和樹さんがお手伝いを始めて、少し(?)距離が縮まった頃のおはなし。
「手ブラってどうなのかなあ」
「は?」
突然耳に入ってきた言葉に、和樹は思わず食器を洗う手を止めて彼らしからぬ声を出していた。聞き間違いであっただろうか、今しがた「今年の夏は海に行けるかなあ」と言うゆかりに相槌を打っていたはずだ。
「……はぁ?」
「手ブラです。昨夜会ってた友だちがね、彼氏にしてほしいって言われたとかで、そんな話になったんですよねぇ」
聞き間違いではなかった。それとも和樹の知らないうちに同じ言葉が違う意味を持ったのかとも思ったが、隣に立つゆかりはそんな和樹の様子を気にすることなく、てきぱきと洗い終えた食器類を拭いている。
「別の子は、それよりも彼シャツの方がいいって言われたらしくて。それで男の人ってどっちが多いのかなあって気になったんですけど、そもそもそういうの、萌えるものですか?」
「僕に聞いていますか」
「だって和樹さんも一応男の人でしょ」
困惑する和樹に、ゆかりは何の他意もない目で首を傾げる。アラサー男が、適齢期手前の女の子に一応、などと評されるのはどうなのかと思い、さすがにその点は指摘することにした。
「一応ではなく、男ですが……。僕は特に、気にしたことはありませんね」
「ふうん、やっぱり人によるのかしら。ああ、でもそうですよね。手ブラも彼シャツも、わざわざやらないと、見る機会だって雑誌のグラビアくらいしかありませんよね」
これは昼間にする話題、もとい喫茶店の同僚という立場でする会話だろうか。ゆかりのことであるから、特に意味はないのだろうが話題のチョイスがそれこそ同性の友人に対するもののように感じてしまう。間違っても二十代前半の女性からアラサー男に振られる話ではないはずだが、そこは石川ゆかりである。
結果、和樹の模範回答でもゆかりはやはり気にしていない。何でグラビアの内容まで知っているのかという問いは飲み込んだ。おそらく、お兄さんに借りた少年誌や青年誌に載っているものでも見たことがあるのだろう。
「彼シャツなら判らなくもないけど、手ブラなんて手がふさがっちゃうし……そもそも手からこぼれちゃいますよねえ」
和樹が洗い終える皿を待ちながら、右手に布巾をスタンバイさせているゆかりは、左手をおもむろに喫茶いしかわのエプロンの上から自分の胸に当てた。胸の膨らみは華奢な白い指では覆いつくせずあふれているのが服の上からでもたしかにわかる。
「――ほう。……違う。ゆかりさん、その手はやめましょう、その手は」
「やだ、服の上じゃない」
「そうですけど、そうではなく」
一瞬、バカ正直にそちらを見た上嘆息が漏れたが慌てて首を振る。しかしゆかりはからりと笑うだけだ。
いや、男はそう言われると間違いなくその服の下まで想像するのだと、『人畜無害そうな和樹』のままどう伝えたものか、真剣に頭を悩ませた。
おバカ話でした。
ゆかりさんの距離感って一体……と遠い目をしたくなってる頃の和樹さんです。
さすがにゆかりさんも誰彼かまわず聞いていいことだとは思ってないはずなのですが(苦笑)
1話としては短いですけど、こういうバカ話はあんまり引き延ばすものでもないので、このくらいで。




