31 カレシャツ
「18 きもだめし」のカレー屋さんデートからの彼シャツの顛末をもうちょっと詳しく。
「いや~楽しみですね、インドカレー屋さん」
「そうですね」
すこぶるご機嫌な和樹さんに、相槌のような返事しかできない。
いや、それはいい。それはいいのだが。
一体なぜ自分は、お化け屋敷を出てもがっちりと肩を抱かれ、ぴたりと密着され、指を絡めた恋人繋ぎをされているのだろうか。
指を離そうとしても、肩に置かれた手を外そうとしても、びくともしない。むしろ拘束が強まった気がする。なぜ?
「あの……和樹さん。お化け屋敷はもう出ましたよ?」
「はいそうですね。カレー屋さん、美味しいといいですね」
な、なんか微妙に会話が噛み合ってない。
「いえ、そうですけどそうではなくて。もうお化け屋敷は出たんですから、わざわざ私と手を繋がなくても大丈夫ですよね?」
彼の弱点をストレートに言うのは憚られたので、言外に怖くないでしょ? を含ませる。
「いやいや、まだ落ち着かないんですよ。ぜひこのままカレー屋さんまでエスコートさせてください。ねっ!」
笑顔の圧が強すぎます!
あれよと言う間に馥郁たるスパイスの香りの大元、インドカレー屋さんに着き、メニューを広げていた。
「ゆかりさん、こちらのセットはどうですか?」
「たくさんの種類が食べられるのは魅力的ですけど、私さすがに、こんなには食べられないかと」
「大丈夫ですよ。もし食べられなくても僕が責任をもって食べきります。お残しは嫌なんでしょう?」
「はい」
「僕、ゆかりさんと違う種類のカレーを頼みますから、交換しましょう。ああ、どうしても量が気になるならこちらの“あっつあつカップルセット”を……」
「……! いえ、さっきのセットでお願いします!」
食い気味に伝えると、少し残念そうにしていた。だからなんで残念そうにするの?
手早く注文を済ませて、和樹さんと会話しながらカレーが届くのを待つ。
……あれ? 何か忘れているような。なんだろう?
「ゆかりさん、どうかしました?」
「いえ、何か大事なことを忘れているような気がして」
「え? 何か注文忘れたメニューでもありましたか?」
「まあ! 私のことどれほど食いしん坊だと思ってるんですか!?」
「あはははは。食後に飲むラッシーの注文忘れたなあと思っていたところだったので」
「え? あっ、それは確かに忘れてました」
慌ててセットの内容を再確認する。セットにはミニラッシーが付いていた。
「なんだ、セットに付いてます。大丈夫ですよ?」
「そうでしたか。それは良かった」
お互いににこりと笑顔を交わし、会話の続きを始めた。
忘れていた“何か”の正体が判明したのは、カレーに舌鼓を打っている最中だった。
スパイスの効いたカレーのあまりの美味しさに、ついついナンにカレーを乗せすぎてしまい、ポトリと一滴。
「あ……」
視線をやった先には、自分が選んだ覚えのない空色のシャツ。
そうか! 忘れてたのは和樹さんに借りてたシャツだ!
気付いて蒼白になる。人様の洋服を借りておきながらなんということを!
慌ててナンを皿に置き、深々と頭を下げる。
「和樹さんごめんなさいっ! お借りしていたシャツにカレーを垂らしてしまいました!」
「ゆかりさんご自身が火傷したり可愛いお洋服にシミがついたりするのでなくて良かったです。洗えば落ちますから大丈夫」
にこやかにそう言われても、やはり気になる。なんてことをと頭がぐるぐるしてパニックで涙目だ。
「でも……」
俯いていた顔を上げると、和樹さんにふわりと頭を撫でられる。
「本当に気にしなくていいから」
和樹さんはにこりと笑うと頭を撫でていた手で私の唇の端にちょんと触れる。その手はすうっと彼の唇に。指先をペロリと舐めるとニヤリとして言い放つ。
「ああ、ゆかりさんの食べているカレーも美味しいですね」
「和樹さんっ!?」
違う恥ずかしさで熱く赤くなった顔は、両手で覆うしかなかった。
店からの帰りはさすがに、肩を抱き寄せられることも手を繋がれることもなかったが、私の荷物は彼の手の中にあった。
ふわりとした羽根を手のひらに乗せて運ぶかのような丁寧なエスコートをされると、自分がどこかのお嬢様やお姫様になったのではないかと錯覚しそうになる。
助手席の扉を開けられて、ちょっぴりしり込みする。
「わ、私、彼女さんじゃないですし、やっぱり後ろの席で……」
和樹さんがムッとする。
「さっきは助手席に乗ってくれたじゃありませんか。それとも、本当は僕が運転する車の助手席はそんなにお嫌いでしたか?」
捨てられたチワワみたいな目で見られてウッとなる。
「きっ、嫌いじゃ、ない……です」
「なら問題ありませんね。さあ、どうぞ」
だから笑顔の圧が強いってば!
大丈夫、暗いから周りからは私たちが見えない。よし!
そう割り切ってしまえば、あとは和樹さんと楽しい会話をしながらのドライブだ。
「うふふ。今日のお店美味しかったですね~っ」
「お眼鏡にかなってなによりです。次もまたふたりでデザートの美味しい所でもいきましょうか」
「……次、ですか?」
「ええ。喫茶いしかわ新メニュー開発のために敵情視察しませんか?」
「え、えーっと」
和樹さんが同僚なら、敵情視察と言われればすんなりOKしていただろう。けど、でも常連とはいえお客さんだしなぁ。
と言うか、サラッと次の約束なんて言ってるけど、誘いなれてるみたいで……なんかやだなぁ。断ったほうがいいかなあ。
チラリと運転している彼の様子を見ると、穏やかな表情でアルカイックスマイルを浮かべている。
断られることなんか、ひとつも想像してなさそうに。
信号で停まったとき、窓ガラスに写る彼に気付く。私に見せる穏やかな彼ではなかった。
ちょっと照れてて、ピリピリと緊張した顔をしている。
「……っ!」
意表を突かれ、軽く目を見張る。
もしかして、こちらが本来の表情、というか本心なのだろうか。
初めて見る表情に、胸がきゅうっとなる。なんだろう、これ。もっと、見てみたいな。
「……行きます。そのとき、このシャツも洗ってお返ししますから」
「良かった! いいお店探しておきますね!」
それはそれは晴れやかな笑顔を向けられた。
その向こう、ゆかりからは見えないと思っているであろうハンドルに乗せられた右手が、ガッツポーズのかわりとでも言うように、グッと握り込まれるのが見えた。見えてしまった。
ここで青信号に変わったので、和樹さんはすぐに正面を向いてしまったけれど、先ほどより笑みが深くなっている。
今までなら気付けなかったことに気付いてしまった自分が、とても不思議だった。
◇ ◇ ◇
後日。
「ゆかりちゃん、ついに和樹くんと付き合い始めたって本当かい?」
「ええっ!? なんですかそれっ」
常連さんが見せてくれた携帯画面には、しっかりと和樹さんに肩を抱かれ、明らかにサイズの合ってない、いかにもな彼シャツを来ている自分の姿が写っていた。
呆然と固まるゆかりに、さらに衝撃の事実が告げられる。
常連の間でその写真(ほか数枚)が出回り、「ついに交際開始した証拠写真」という噂がまことしやかに伝わっている。
そう言われて頭を抱える。
「ち、違っ、付き合ってません! そんな根も葉もない噂立てたら和樹さんにご迷惑ですよ! それは、なりゆきでたまたま……」
とはいえ和樹に苦手なものがなどとは話せず、しどろもどろになり、噂に信憑性を与えてしまった。
洗濯したシャツを返すための敵情視察の約束があることは、もう誰にも言えなかった。
ということで。
和樹さん的「ガンガンいこうぜ!」なカレー屋さんデートでした。
嘘だろ……このふたり、まだ付き合ってないんだぜ?(笑)
いや~っ、途中苦しんだけど、なんか書いてて楽しかった。
これ、2プラン考えたうちの1つです。もう1つは、
思惑に気付かずさっさと返却し「えー?」と残念そうにされる
→帰宅後「仕事で汗かいてたのに……」と思い出しニオイ移りがすっごく気になる
→でもそんなこと聞けなくて、のたうちまわりながらおろおろする彼女
→ニオイは当然移ってたけど制汗剤とか彼女の服の柔軟剤のニオイだったので……
(以下変態ちっくになる可能性を自主規制)
って感じのを考えてました。
どっちを選ぶにしろ、このボリュームで書くと本編がふらふらするので1本の中にぶちこむのはやめちゃいましたけど。