301 のぼせやすくて
和樹さんとゆかりさんがまだ恋人だった頃のおはなし。
和樹にとって、休暇とは何らかの事情で大怪我して病院にカンヅメにされる場合か、部下を持ってからは「周りが休めないので休んでください」と部下や同僚に進言されて渋々取るものだった。
一日や二日ならまだ、じっくりとトレーニングするとか、普段は時間がなく取りかかることのできない部分の掃除をするとか、あるいは積み上がった小説や映画を消化することができる。ただし映画などは二倍速で見る。
いつだったかそんな話をゆかりに告げたところ「ウソでしょ信じられないもったいない!」と三段階で否定された。小説も速読だとは告げなくて良かったと思っている。
とにかく職務に就いて以降、毎年消えていく有給休暇を純粋に自分の都合で消費したことはなかった。だが、と和樹は大浴場のたっぷりとした湯に身を沈めながら深々と息を吐く。
こうして、ゆっくりと身を休めることも悪くない。
――観光シーズンからやや外れた閑散期、それも平日の温泉宿は客もさほど多くない。思い立ってすぐに都合をつけ予定を立てたため、上ランクの宿の部屋を取ることは叶わなかった。だが控えめなゆかりはきっと「気後れしちゃう」と言うだろうからちょうどよかったのだろう。
それに、予定を出した際は数人に二度見された上に、部下の長田にはああ、と察したように「楽しまれてきてください」と平坦にだが告げられたため、もう少し休暇を覚えることもいいのかもしれない。休む度に周りにああいった反応をされるのは心外だ。
とにかく、ゆかりは連休からほど遠い平日こそ休みを取りやすい仕事であること、和樹は休日出勤の振替休日が溜まっていたことが幸いした。
ゆかりがソファの上で眺めていた雑誌を偶然後ろから覗き込み、ちょうど開いていた温泉宿のページに「今度行こうか」と提案したのは偶然だった。本気ですか、と大きな目を更に丸くしたゆかりに自分の職務について詳細を告げたことはないが、端から一泊とはいえ旅行じみたことを諦めている節はさすがに申し訳なくも感じたため、やはり休暇は大切だと思う。
我ながら珍しく感じるだらだらとした思考を続けながら、和樹は疲れた体に染みわたる湯の熱さに顔を覆って、喉の奥からあー、と声混じりの息を再び吐いた。一般的な男と比べて不誠実な男な自覚はある。
ありきたりな反応をする女性なら、あまりにも仕事を優先しすぎる和樹に愛想を尽かして離れてもおかしくないだろう。仕事上のこととはいえ女好きのする男らしく振る舞ったことも一度や二度ではない。管理職として昇進してからもプライベートの人間関係までややこしくしたくない思いがあった。
それでもこうして共に過ごす時間が重ねられるのは、単にゆかりがそれを気にしない――もとい、納得しているからに他ならない。
あまりにも会えないことにどうしても納得できなければ、会ったときに「どうなの?」と職務に関わりない程度に問うために多少のケンカらしきものはありつつも深刻な状態に陥ったことはなく、居心地が良かった。報連相は社会人の基本だ。そんな彼女の、自身も相手も無理をしない自然体の距離感に、知り合った頃からどれほど助けられているか。
もう手放せないよなあ、と思考が惚気に突入したところで、和樹は湯船を出た。
お風呂の種類がたくさんある! と宿のホームページを見てはしゃいでいた、今女湯に入ってるゆかりも長く入浴時間をとるだろう。ならばいいか、と一度水風呂に入ってから、和樹は併設しているサウナにも目を向けた。
◇ ◇ ◇
たっぷり一時間近く温泉の泉質を楽しんで、火照る体に浴衣の袖を行儀悪く肩まで捲って和樹はロビーに向かった。入浴前にここで待ち合わせで、と言葉を交わした休憩用のベンチには、和樹の予想に反して既にゆかりの姿があった。ついでに、その前には二人連れの大学生ほどの若い男の姿がある。
「……は?」
素足にスリッパでのんびりと歩いていた和樹は、自分の口から漏れた低い音を聞いた。
「だから、わたし連れがいるんです」
「その子も一緒でいいからさ、ここに泊まってるならいいじゃん」
「恋人だって言って……」
「男で長湯はないでしょ、それか部屋教えてよ。一緒に遊ぼうよ、ね」
漏れ聞こえた声に、ずかずかと早足で歩み寄ると、先にこちらを向いていたゆかりは和樹の姿を見てほっと肩の力を抜く。
「ゆかり、待たせてごめん」
二人の男を押し退けるように和樹がゆかりの前に立つと男たちは一瞬気色ばんだが、それが自分よりも上背のある男だと気付くと、言葉を呑み込んだ。この程度で引くならば旅行先で女を引っ掛けようとするなよ、と内心舌打ちをしつつ和樹は横目で男たちを見遣った。
「……僕の連れに何か?」
「あっ、いえナンデモアリマセン」
絶対零度の視線に、あっという間に去っていく男たちを尻目にゆかりはふにゃりと柔らかく笑みを浮かべた。
「良かったぁ。あ、お風呂良かったですよね」
「ゆかりさん、いつから待ってた?」
一瞬絆されそうになりながらも問いかけると、ゆかりの視線が泳ぐ。手を取る和樹に促されて立ち上がるゆかりの髪はきちんと乾かされているが、普段のように背中に流すのではなく緩く結んだ髪が片方の肩に流されており、きちんと羽織を着たほっそりとした白い首筋が湯上がりらしくしっとりと火照っていた。だが、その手にあるミネラルウォーターのペットボトルの中身は半分ほど減っている。
ペットボトルをゆかりの手から取り片手で蓋を開けて飲む和樹。それを見上げながら誤魔化しは効かないという空気を察したのか、ゆかりは微妙に和樹から視線を外したまま渋々口を開く。
「ごふ……すみません十五分くら、い?」
「早く上がるなら言ってくれたらいいのに。何かあった?」
ゆかりは普段、自宅の風呂では長風呂と言わずともきちんと湯船に湯を張り、浸かるタイプだ。早風呂が身についている和樹にきちんと入るように促しているのもゆかりである。それが、今回に限って早く上がったのかと和樹は不思議に思う。一気に飲み干して傍のゴミ箱にペットボトルを放る和樹の問いに、ゆかりの声が続いた。
「……わたしね、大きいお風呂だとちょっとのぼせやすくて」
「あのね、そういうことは先に僕に教えて」
「だってそうしたら、先に上がっちゃうでしょ。せっかくのお休みだし大きいお風呂だし、ゆっくり入ってほしかったんです。だって和樹さん温泉好きでしょ」
告げたことはないはずだがゆかりの声は確信に満ちていた。なぜ、と問う前に勘です、と胸を張られる。和樹のことをある意味判りやすいと評するのはゆかりくらいだ。
その勘に当てられたこともあり、和樹が部屋の方に戻ろうと歩き出すと、その手を握るゆかりの手にふと力がこめられた。
「きっとそうだろうと予想はしてたけど……なんで和樹さんの方が色っぽいの。ゆるせない」
「それを今ナンパされてたゆかりさんが言いますか?」
「だってわたしが先じゃないと、絶対和樹さんが逆ナンされるって思ったんだもん」
口元を引き結んで拗ねたように告げられて、和樹は空いた手で顔を覆った。くそ、可愛い。
「ああもう……部屋の風呂なら平気?」
「うん、多分? でもたくさんあるお風呂にも入りたかったんです」
「判ってるから。メシ食ったら休んで内風呂に入りましょう」
「はあい」
夕食は部屋にそろそろ準備がされているはずだ。普段より早めの夕食を取って一休みして、風呂の前に一汗かいても許されるかな、と時間を計算する和樹のことなど知らずに鼻歌交じりに歩くゆかりを見下ろして、和樹は指を絡めるように手をつなぎ替える。一瞬驚いたように和樹を見上げたゆかりがすぐにまた、へにゃ、と頬を染めながら顔を緩める様子を見て、下心は引っ込めたまま和樹も眼を細めて口端を上げた。
この和樹さん、おそらく普段は「十秒エナジーを愛用するんじゃなくちゃんとごはん食べて」とか「目の下にまっくろクマさん飼ってないで寝てください」とか言われてるものと思われます。
それから「自分を大事にしない和樹さん、キライになっちゃうかも」とか「和樹さんがいなくなってわたし一人になったらさっさといい人見つけて結婚しますから、他の人に渡したくなければちゃんと長生きしてくださいね?」とか伝えられるんじゃないかしら。
そうやってあれこれ考えた結果、「ゆかりさんの笑顔を護り幸せにするために~健康で文化的な生活を送る和樹への道」の一つとして旅行で身体を休めるというプランになったのかな……と。
「休む」とか「癒し」の概念が和樹さんとゆかりさんで違う気もしますけどね。




