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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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298 なれますよ、あなたなら。

 お付き合いなんて夢のまた夢だった頃のふたり。

「いらっしゃいませ」

「あの……この子もいいですか?」

「もちろんです! わあ、可愛い。どれくらいですか?」

「ちょうど半年になるんです」

「そうなんですね。ふふ、いい子にしてるねぇ。あ、こちらにどうぞ」

「ありがとうございます」


 ランチタイムを終えて人もまばらになった頃、ちょうど半年になるという赤ん坊を連れた母親が来店した。先程まで寝ていたのか、少し寝惚けた様子だ。女の子だろうか。つぶらな瞳をゆっくり瞬かせ、ぼんやりと宙を見つめている。まだ眠いのか、目を擦る姿は庇護欲をかき立てられる。

 平和の象徴とも言える光景に和樹の口元にも笑みが浮かぶ。


「可愛い子ですね」

「本当に! 小さくてぷにぷにぷくぷくしてて、守ってあげたくなっちゃう」

「ゆかりさんは子供好きなんですか?」

「好きですよ。いつかお嫁さんになるのが夢なんです。今時古いかもしれませんけど」

「そんな事はありません。ゆかりさんはいいお嫁さんになりますよ」

「……和樹さん。軽はずみな発言は避けてください。以前、軽はずみ発言はSNSの炎上に繋がるってあれほど言いましたよね」

「それはそれは。すみません」

「心がこもってない」

 軽口を叩きながら、ランチタイムの片付けを手分けして進める。食器を洗う和樹の後ろを通りつつ、ゆかりは母親の女性の手が上がるのを視界に捉えた。


「あの、注文いいですか?」

「あ、はーい」

 パタパタと軽い音を立てながら去っていったゆかりを見送り、和樹は密かに嘆息した。

 和樹は、子供は個人的に好きでも嫌いでもないが大事にしなくてはならない存在である、と認識している。未来を背負うのはこれから産まれてくる子供たちだ。彼らが大人になり社会へ踏み出す頃、今より少しでもいい環境を残してあげたいと願っている。


「ハムサンドとオレンジジュースをお願いします」

「かしこまりました。少々お待ちください。ふふ、まだおねんねしてる。可愛いなぁ」

「……ありがとうございます。食べ終わるまで寝てくれてたらいいんですけど」

「和樹さん、ハムサンドお願いします」

「了解です」


 洗ったお皿を水切りカゴに移動させ、念入りに手を洗った和樹は早速ハムサンド作りに取り掛かった。

 同じ手順のはずなのに和樹さんほど美味しいハムサンドが作れないと珍しく悔しそうな顔のゆかりに言われたのは記憶に新しい。

 和樹のスピードを横目で見ながらゆかりはグラスとストローを用意した。コーヒーや紅茶と違って前準備が少ないオレンジジュースは、ハムサンドができあがった後に淹れても十分間に合う。

 別の用事をしようと動き始めたが、何やらいつもとは違う手順の和樹に気付いて不思議そうに覗き込んだ。

「和樹さん? 何してるんですか?」

「ちょっとね」



「お待たせしました」

「ありがとうございます。……え?」

 テーブルに優しく置かれたハムサンド。いつもは四等分にカットしそのまま出しているが、母親の前に出されたのはコーヒーなどの柄がプリントされたペーパーに包まれまたハムサンド。持ちやすいように置き方も工夫され、母親は少し困惑しながらハムサンドと店員二人を見比べた。


「あの、これ」

「小さなお子さんがいたらゆっくり食べられないでしょうし、そのまま召し上がられるんですよね? いつ起きられるか分からないようなので、なるべく食べやすい形を取らせて頂きました」

「他にお客さんいらっしゃいませんし、ゆっくりしていってくださいね! 何なら赤ちゃん起きたら抱っこしますので」

「そこまでご迷惑をお掛けする訳には……」


 和樹とゆかりが互いをじっと見つめ、そして同時に頷いた。

「遠慮なさらないでください。ではごゆっくりどうぞ」

「そうですよ! ごゆっくりどうぞ」

「……ありがとうございます」


 ランチタイムのお客はお会計を済ませて喫茶いしかわを後にした。現在店内にいるのは和樹とゆかり、そして先ほど来店した母子だけだ。

 アイドルタイムを迎えた今、しばらく新規のお客は見られないだろうし、たとえ新規の客が来店しても客はみな平等、子供に理解のある常連客も多いため退店を促すようなことにはならないだろう。



「ふえ……」

「あっ」

「ふえっ、えっ、ふえっ」

「どうしたの? お腹空いた? オムツかな?」

 中盤までは上手くいっていたものの、眠さが限界だったのかあるいはお腹が空いたのか。小さな不満を皮切りに女の子は本格的に泣き始めてしまった。

 慌てて立ち上がってあやすも効果は見られない。みるみるうちに母親の顔色が悪くなっていく。


「大丈夫ですか?」

「す、すみません、うるさくして……」

「いえいえそんな! 気にしないでください!」

「ふえぇ、ええ、ふええっ」

「よしよし、大丈夫よ。オムツも綺麗だし、まだ眠いのかな?」


 オムツを確認した母親は授乳の線を疑ったが、来る前にあげてきたのでその線は薄い。オムツが綺麗でお腹いっぱいで、たとえ眠くなくても、泣く時は泣くのが赤ん坊だ。とはいえそれに二十四時間振り回される母親の疲労は到底計り知れない。

 八の字眉で肩を落とした彼女にゆかりがおそるおそる声を掛けた。


「あの、その子人見知りとかありますか?」

「いえ、それはまだ……」

「良ければお食事が済むまで抱っこしときましょうか? そのままだとお母さんも食べられないでしょうし」

「いえ! そんな! そこまでご迷惑おかけする訳には」

「大丈夫ですよ! あ、もちろんお母さんが良ければですが。ぜひ抱っこさせてください!」

「……いいんですか?」

「もちろん!」

「……じゃあ、申し訳ないんですが少しの間でいいのでお願いしてもいいですか?」

「分かりました! いいですよね? 和樹さん」

「もちろんです。ごゆっくりどうぞ」


 恐縮しっぱなしの母親にゆかりは女の子を受け取りながら「いいんですよぉ、困った時はお互いさまですから」と返した。

 ああ、やはり彼女はいいお嫁さんになりそうだ。和樹は内心深く頷いた。この場合「お嫁さん」ではなく「お母さん」が正しいが、どのみち言ってしまえば「炎上発言は謹んで!」と悲鳴が返ってくるだろうから大人しく飲み込んでおく。


「本当にありがとうございます。すぐに食べるので……」

「ゆっくりでいいですよ。じっくり味わってください。ほら和樹さん見て。可愛いでしょう」

「ええとっても。ゆかりさんの抱っこに彼女もリラックスしてますね」

「もしかしてわたし、お母さんの才能あります? なんちゃって」

 ええ、それはもちろん。

 言葉に出さず深く深く頷いて見せた和樹に気付いたのは母親だけで、びっくりしたような顔で和樹とゆかりを見比べていた。


「和樹さん片付け終わりました? すみません、ありがとうございます」

「いいえ、大丈夫ですよ」

「では今はお手隙ですね」

「え? ええまあそうですが」

「ほら! 和樹さんも抱っこ!」

「えっ、いえ、僕は……」

「可愛い女の子ですし、和樹さんも役得ですよ!」

「そういう問題でなく」


 見ず知らずの男に抱っこされるなんて女の子も母親もさぞ不快だろう。しかも相手は小さくとも女性だ。扱いはさらに慎重になる。ありとあらゆる可能性を考える和樹を尻目に、母親は嫌がるどころか満面の笑みだ。早くも裏切りが出てしまい、和樹は小さく息を飲んだ。


「和樹さんみたいなイケメンさんならバッチコイですよね!」

「もちろん。娘はイケメン好きなので」

「ですって! 和樹さん」

「ええ……」


 押しつけられるように渡されれば受け止めざるを得ない。下手に拒否して万が一落とすようなことになれば賠償ものだ。賠償どころか一生ものの傷をつけてしまう可能性だってある。

「え、ちょっと、あの、ゆかりさん、ちょ」

 彼の仕事仲間が聞けば仰天して倒れてしまうような情けない声を上げながら、小さな命を受け取った和樹は、できるだけ力を込めないように抱き抱える。

 するとゆかりの腕の中で機嫌よく笑っていたはずの女の子の表情が固まった。みるみるうちに強張り、三人が「あっ」と声を漏らす間もなく甲高い声を上げながら泣き出してしまった。


「ふえええっ~! ええっ、ふえっえっ、ぅえぇえええ~~~っ」

「あら」

「まあ」

「……」

「和樹さんにもできないことがあったんですね」

「……独身の男が赤ちゃんを抱っこするのに精通しててもおかしくないですか」

「和樹さんなら慣れててもおかしくないかなぁっていデデデ」

「ゆかりさん? それはどういう意味ですか?」


 とはいえ、和樹は負けず嫌いだった。激しく泣き続ける子を前に慌てる様子もなく、たしか以前読んだことがあったなと頭の中にある教科書を開いて抱き方を変えた。小さな体を優しく撫でて緩やかに揺れる。心拍数に連なってポンポンと叩けば、激しかった泣き声も段々勢いをなくし、最終的にはトロンとした目で指しゃぶりを始めた。

「ウソでしょ」

 ゆかりは思わず呟く。目を見張るしかないほどの手管だった。


「もうリラックスしてる。さすが世の女性を虜にするテクニシャン」

「ゆかりさん? 人聞きの悪いことを言わないでください」

「本当のことですよぉ」

「なお悪いじゃないですか」

「あの、ご馳走様でした。本当にすみません……! サンドウィッチ、とてもおいしかったです」

「お粗末さまです。ではこちらお下げしますね」

「ありがとうございます。あの、本当にご迷惑おかけして……」

「いえいえ。可愛いお嬢さんを抱っこさせてもらえて役得です。ふふ。少しはゆっくりできましたか?」

「おかげさまで、久しぶりにゆっくり噛んで食事ができました」


 母親が身支度を終えたのを確認してから、女の子を返す。やっぱり何を置いても母親が一番だ。世界一安心する腕の中に戻ったことで緊張は完全に解けたのかうつらうつらし始めた。

 そんな様子を女性二人が優しい目で見守る。母親とゆかりはおそらく年が近い。感じるものも近いのだろう。


「小さい赤ちゃんがいるとゆっくり食事するのは難しいですよねぇ。もし良ければ、また喫茶いしかわへお越しください。僭越ながら、不慣れではありますがゆかりお母さんと和樹お母さんが対応いたしますので」

「そんな! そこまでご迷惑をかける訳には……」

「大丈夫ですよね、和樹さん」

「もちろん。それに至らない僕では不安かもしれませんが、ここには優秀なゆかりお母さんもいますし」

「えっ、もしかして二人のご関係って」

「ええ、もちろ」

「違います! ただの同僚です! もっと言えばただの先輩後輩です! 不用意な発言は避けてってあれほど! SNSが炎上する!」

「やだなぁ。ゆかりさんから振ったんじゃないですか。それに僕はお母さんじゃなくてお父さんですよ」

「……仕返しですか」

「どうでしょう」


 期待に満ちた母親のきらきらした目に気付いたゆかりがぶんぶんと大きく手を振って否定する。

「全然違いますからねっ!」

 その背中を和樹は優しい面持ちで見つめていた。


 世間はクリスマスイブだというのに、なんでこんな話になったんでしょう。


 とはいえ赤ん坊を抱っこしてるゆかりさんとそれを見守る和樹さんの図が「いつのまにか産んでた!」という噂になって駆け巡ってもおかしくないなとは思っております(笑)

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