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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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297 if~ゆかりさんらしくないサイレント・イヴ~

 クリスマスだ。だから? だからなに? なんなの?

 ゆかりはモップでゴシゴシ床を磨きながら、心の中で叫んでいる。


 皆、浮かれちゃって。

 クリスマスだからって、何がめでたいんだか。

 ええ、ええ、せいぜいご馳走食べて、ケーキ食べて、プレゼント交換すればいいじゃない。

 はいはい、メリークリスマ~ス! とか言っちゃって、バカみたいに白いポンポンがついた赤い帽子被って、トナカイの角付けて、高いワインでも飲んでちょうだい。


 長い時間、中腰の姿勢でいたので、腰に痛みが走る。いたたたた……。

 腰をさすりながら、思う。

 もう! 私、喫茶店の看板娘なんだけど!

 可愛くて、明るくて優しくて、しかも料理上手のうら若き看板娘!

 引く手あまたの崇拝者の中から、一番素敵な彼と一緒に、夜景の見えるホテルのディナーを堪能して、オープンハートのネックレスもらって、スイートルーム――までは望まないけれど、デラックスツインにお泊りしてもおかしくなくない?

 それが、どう? 何が悲しくて、イヴの夜に、勤め先の大掃除しちゃってるの?

 いや、職場をきれいにするのは、職業婦人として正しい。労働者の鏡!


 モップを止めて、柄に手をかけ、ふーっと息を吐く。

 ……分かっているの。

 私、モップに八つ当たり。クリスマスにも八つ当たり。世界中の幸せな恋人達にも八つ当たり。

 たった一人のイヴが、こんなに哀しいなんて、辛いなんて、昨年までは考えもしなかったのに。


 昨年もほぼ今日と同じイヴを過ごした。

 つまり、ランチ前から、ディナータイム、閉店作業まで。イヴだから混んだのも同じだし、ケーキがよく出たのも同じ。

 大きく違っているのは、今年は、彼がいないこと。二足の草鞋を履いた年上の後輩。女性客の比率を一気に上げた彼が、今年はいない。


 ゆかりは、ノロノロと掃除道具をしまい、ようやく帰る気になった。既に二十一時を回っている。

 ディナータイム前に、軽食はお腹に入れたけれど、さすがにガス切れだ。

 バックヤードでエプロンを外し、カーディガンを着て、マフラーを巻き、コートを羽織る。スニーカーを脱いで、ショートブーツに履き替える。

 最後に手袋を…と探したけれど、ない。ああ、今朝、忘れてきちゃったんだと思い出した。

 外へ出て、裏口のドアをきちんと施錠して、歩き出す。


 イヴの今日、お昼はぽかぽかと暖かかったけれど、さすがにこの時間は冷え込んでいる。アスファルトの足元から冷気が伝わって来て、ブーツの踵がコツコツ立てる音が、いつもよりもずっと硬く聞こえる。

 吐く息が白く、ゆかりはマフラーに鼻先まで埋めて、足を速めた。

 お腹空いたな。帰ってからご飯作るの面倒だから、コンビニでおでんでも買って帰ろうかな。

 ふっと笑ってしまう。去年も、同僚の彼にそう言ったのだ。


 蓋をしていた思い出が、唐突に蘇った。

 そう、そうしたら、彼が突然言ったのだ。

「じゃあ、僕とおでん、食べに行きましょう」

 と。


 足が止まった。

「え?」

「いいお店知っているんです。美味しいお酒も出しますよ――ああ、でも、ゆかりさん、日本酒は飲まない?」

「いえ、飲まなくはないです……ただ、詳しくなくて」

「僕だってよく知りませんよ。お店の人のお薦めを飲むだけです」

「おでん」

「おでん」


 ゆかりだって若い娘だ。当たり前だが去年はさらに若い。

 クリスマス・イヴに、こんなに素敵な男性に誘われるなら、おしゃれなフレンチが良かった。たとえ、相手が自分をこれっぽっちも異性として認識していなくても。

 それでも、笑ってしまったのは、ここまで清々しいくらいに時節柄を考えない和樹という男が、いかにも、らしいなあと思ったからだ。隙があるようでいて、計算され尽くした発言だなと。

 おでん、上等! 寒いし! さすがにSNSで情報拡散するJKもいないだろうし!


「いいですね! じゃあ、行きましょう!」

 ゆかりが笑って見上げると、彼も「行きましょう」と微笑んだ。

 ほんの少しだけ、ホッとしたように見えたのは、きっと気のせいだったに違いない。


 お世辞にもきれいとは言えない古い飲み屋の片隅で、口当たりの良いちょっぴり甘い日本酒をお供に、澄んだ煮汁で長時間煮込まれた大根やがんもどきやゆで卵を食べながら、たくさん話をした。たくさん笑った。ゆかりはかなり、酔っていたと思う。何を話したのか、何がおかしくて笑ったのか、後で思い出せなかったから。

 けれど、とても楽しい夜だった。

 ――長く、暗い冬の夜空に、そこだけ輝く一等星のような夜だった


 こうして、何かを一つ思い出すと、自然と両手を握りしめるようになった。

 その思い出を忘れないように、零さないように、きゅっと両手で握りしめるのだ。

 今も、彼女は両手をきゅっと握っている。三つ数えてから、再び歩き出す。

 大丈夫。

 私は、大丈夫。

 うん、本当にコンビニでおでんと……よし、チキンとケーキも買っちゃおう。年に一度のクリスマスだもの。何がめでたいんだかと思わないでもないけれど、少し、自分を癒してあげよう。そうしよう。


 交差点に差し掛かる。

 赤信号だ。

 やはり、反対側に人が待っている。ありふれた景色だ。

 何気なくそれを見ていて、え、と思う。

 街路樹に施された、ささやかなイルミネーションに照らされたシルエットに見覚えがあった。

 きらきらと光が零れる。

 その人は、見慣れないロングコートを着ているけれど、その首の傾げ方も、立ち方も、肩のラインも知っている。

 信号が変わる。


 ゆかりは動けない。

 正面の人物が歩き出し、段々早足になり、とうとう走り出す。

 ゆかりはまだ動けない。

 長いストライドで、速いスピードで、あっと言う間にその人はゆかりの前に立った。

 ゆかりは呆けたようにその人を見上げるばかり。


 唇が開く。

 自分の名前を呼ぶのだろうかと思ったら、気が変わったらしい。

 唇は静かに結ばれた。

「かず……」

 思わず呼びかけると、その人は静かに首を振り、まだきゅっと握りしめられていたゆかりの拳を当たり前のように開くと、指を絡めてくる。

 一歩間違ったらセクハラなのに、ゆかりが嫌がらないと知っているのが腹が立つ。

 しかも、何も言わないのも腹が立つ。

 ゆかりも意地になって黙っている。

 彼は、そのまま歩き出す。

 ゆかりも引っ張られて歩き出す。


 どこへ行くつもりなんだろう。

 また、おでん?

 まさか、フレンチディナー?

 もしかして、間を取ってファミレス?


 それがどこでも、自分はそこへついて行くのだろう。きっと文句も言わないで、そこへ行くのだろう。

 ――だって、ずっと、ずーっと待っていたのだから。


 握りしめられた手を、きゅっと握り返すと、彼の横顔が笑っている。


 ふふふ。ちょっと考え方がゆかりさんっぽくないので、ifストーリーということにしてください。


 サイレント・イヴというタイトルは、同名の違う内容の曲を真っ先に思い出してしまうのですが。

 思い出の中と、一瞬名前を呼びかけた以外は実は声を出していないのよねぇと思ったら、このタイトルしか浮かばなくなってしまいました(苦笑)

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