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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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296-2 はらぺこ怪獣食いしん坊(後編)

 ゆかりの左の手首より少し下のところに和樹の唇が寄せられる。ちょうど噛み痕がついている彼の腕と同じ位置だ。そこをなぞるように唇を這わせながら視線だけをゆかりに向けてきて。


「かわいらしい怪獣に噛まれちゃいました」

「か、かいじゅう?」

「うん。肉まんが大好きみたいです」

「え? にくまん、ですか?」

「そう、肉まん。全然色も硬さも違うのに噛みつかれちゃって、美味しかったのかなあ」

 そう言葉にして白い歯をのぞかせたかと思えば、がぶりと腕に噛みついてくる。それをただ見ていることしかできないゆかりはチリっと走った痛みに顔を歪ませた。

 その痛みに慌てて腕を引けば思いのほか簡単に解放されて、代わりに噛まれて赤くなった箇所が見える。何が何だか全然わからないまま、彼の手から解放された左腕を守るように反対の腕で抱えて、目の前にいる彼を睨みつけた。


「なにするんですか!?」

「美味しいのかなって確認です」

「美味しいわけがないじゃないですか!」

「うん。肉まんとは全然違いますね」

「それはそうでしょ、なにいって」

「君は美味しそうに食べていたけどね」


 え、とこぼれた声は空気に溶けて消えていく。

 美味しそうに食べていたとは何を。いやこの流れでいったら肉まん、ならぬ彼の腕だ。腕の傷、噛み痕、間合い、失態。彼らしくない怪我は緊張感を持った家の外ではなく安心しきっていたところで負ったものだとしたら。

 そこまで思いあたりカッと顔が熱くなる。うれしいよりも先に申し訳なさがこみ上げ、そして肉まんと間違えるなんて食いしん坊にもほどがあると羞恥心まで湧き上がってきた。


「ああぁぁぁ! す、すみませんでした!」

「えぇ? 全然構わないのに」

「構いますよ! 怪我しないでっていつも言ってるのに怪我負わせちゃって、本当にわたしって、ああ……」

「ふふ。僕はすごくうれしいけどね」

 自分にもつけられたことはすっぽり頭から抜け落ちて、申し訳なさに何度も謝る。そんな姿を愛おしげに見つめる彼の表情には気付けなかった。


 ◇ ◇ ◇


 椅子の背もたれがぎしりと音を立てる。そのまま伸びをした和樹は首と肩の間に手を当てて、ぐるんと時計回りに首を動かした。

 一日中デスクワークというのも疲れる。体を動かすほうが性に合っているんだよな、と深く息を吐きながらテーブルに頬杖をついてパソコンを睨みつけた。

 頭上にある時計はそろそろ二十時を告げるところ。もうひと踏ん張りか。文句ばかり垂れていても終わらないとシャツの裾を捲り上げ気合いを入れ直したところで、ちょうど和樹の横を通りかかった部下に声をかけられた。


「え、それ大丈夫ですか」

「ん?」

「あ、急にすみません。でも腕、怪我してますよね」

「ああ、これね」


 指摘された腕を顔の高さまで持ち上げて赤黒く色を変えている部分に目線を合わせる。怪我をしていること自体はそこまで珍しいことではないのだが。たしかにこれ以外は、誰かに噛み痕をつけられた記憶はない。誰かと取っ組み合いになったとしても、そのような間合いに入らせない自信があるし、もしもが起きても瞬時に対応できる自信もあった。

 だからこんなところに傷をつけられるのはたったひとり。きっと彼女なら僕の心臓すらひと突きできてしまうだろう。血生臭い世界とは無縁のやさしい彼女がそんなことするわけないこともわかっているけど。


 そこまで思って、ふと口元を緩める。彼女にとってこの傷は不本意だったろう。仕方ないことはあるとしても、できる限り体調不良にならないように怪我をしないように健康でいられるようにと身を案じてくれているのだから。

 噛み痕の理由は腕と肉まんを間違えて、という随分可愛らしいものだけど、それが彼女らしくて愛おしい。

 思い出したら堪らなくなって、唇を傷口に押し当てた。

「……本当にかわいいよな」

「え?」

「いや、こっちの話。気にするな」


 不思議そうにこちらを見下ろしている部下に軽く手をあげて、今度こそパソコンに向き直った。この傷跡の理由は彼女と僕だけが知っていればいいこと。すっぱりと会話を終わらせた和樹に、部下はこれ以上つっこむことはなく席に戻っていく。その後ろ姿を視界の隅に収めてふっと声をもらした。

 そういえばお揃いでつけた噛み痕はちゃんと機能しているだろうか。ちょっとした企みに胸を弾ませていることなど、誰も気付かないのであった。


 ◇ ◇ ◇


 洗い物をしながらゆかりはカウンターの向こう側に顔を向けた。そこには鉄平が座っている。それだけならよくある光景なのだけど、コーヒーを飲む鉄平の表情がすごく険しくてそれが気になっていた。

 一体どうしたんだろうかとゆかりもまた眉間にシワを寄せてしまう。


「……あの」

「うん? どうかした?」

「いやその腕……」

「うで?」

「それってどうみても歯型ですよね」

 ガチャン、と大きな音を立ててコップが滑り落ちた。慌ててシンクに転がったコップを持ち上げ、割れていないだろうかと確認するもヒビすら入っていないようで安心、したけど。

 それより洗い物をするために捲り上げていたニットの袖からのぞく赤黒い跡。それに視線を落として、やってしまったと心の中で嘆く。


 すっかり忘れていたのだ、腕を噛まれたことを。そもそも噛み痕をつけられたのもゆかりが最初に彼の腕を噛んでしまったからだ。あんなに怪我をしないでと言っていたのに自分からつけてしまったことに罪悪感を覚え、仕返し(ではなかったようだけど)されたことはすっぽり頭から抜けていた。

 長袖を着ているから見えないだろうと問題視していなかったのが問題で。

 まさか指摘されるとは思ってなかったから言い訳すらも出てこない。くっきり残る噛み痕を見下ろしたままゆかりは顔を青くさせて、今度は首から徐々に赤く色を変えた。


「こ、これは、ちがくて、あのね……!」

「わかりました、もう大丈夫です」

 鉄平は何かを悟り、気まずそうに目を逸らしている。待ってたぶん鉄平が考えているようなことはなかった。けれどそういう仲でもあって、なんかもう居たたまれない。


 これ以上言い訳を口にしたら墓穴を掘りそうだと判断したゆかりはきつく唇を結ぶしかなかった。


 なんでだろう。

 ゆかりさん、他にも定期的に色々とやらかして赤くなったり青くなったりしてそうな気がする。

 まあそれ以上に和樹さんが平然とやらかして呆れられてそうだけど。


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― 新着の感想 ―
[一言] 鉄平さん、この日はそそくさと帰ったんだろうなあ……
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