296-1 はらぺこ怪獣食いしん坊(前編)
深夜一時近く。和樹は物音を立てないように寝室の扉を開けて、ゆっくりとした動作でベッドの端に腰を掛けた。そこには規則正しく寝息を立てている彼女。その姿に自然と口角が上がってしまう。
帰宅してすぐに軽くシャワーを浴びて着替えを済ませ、あとは寝るだけ、というところだけど。可愛らしい寝顔を前にこのまま寝てしまうのはもったいない気がしてしまい、和樹はただ彼女を見下ろしていた。
よく眠っている、幸せそうな寝顔。
寝返りを打ったせいで乱れている髪を指先で梳かして、頬にかかる束を耳にかけた。むにゃむにゃと口を動かすその姿があまりに可愛らしくてふっと空気がもれる。
どんな夢を見ているのだろうか。幸せな夢か、その夢のなかに僕はいるのか、なんて。
和樹は一度目を瞑ってからまたゆっくりと開いて、目じりをゆるく下げた。そのまま腕を折りながら体勢を前に傾けてつるりとしたおでこにそっと唇を寄せる。
あたたかな温度、やわらかな感触、あまやかな香り。愛おしい存在を囲うように両腕を彼女の顔の横に置けば月明りさえも届かなくなる。世界に今、ふたりだけだった。
額、目じり、頬、口の端と唇を落としていけば閉じていたまぶたがわずかに震える。そして眉間にシワを寄せたかと思えば、ふるりとまつげが大きく波立って。
「うーん……」
「ごめん、起こしちゃいました?」
「んん……にくまん……」
「え?」
まぶたの間からうっすらと見える瞳の焦点は定まらず、むくりと起き上がった彼女の体は芯を失ったようにゆらゆら揺れている。寝ぼけているのだろうか。和樹は彼女の体を支えようと腕を伸ばし肩に手を置いたところで。
「いっ!?」
突然、腕を噛まれてしまった。しかも食いちぎられるのではないかと思うくらいの力で。皮膚は裂けていないようだけどじんじんとした痛みが残っている。
思わず彼女の肩から手を離せば、彼女もぱたり布団に戻っていく。そして聞こえてきたのはすうすうと健やかな寝息。ええ、確かに口をもごもごさせていたけど食べ物の夢だったとは。食いしん坊の彼女らしくて、さすがとしか言いようがない。
そんな一連の流れに先ほどまであった感傷的な気分はぱちんと弾け、お腹の奥から笑いがこみ上げてくる。
「くくく……本当に君には敵わないよ」
噛まれた腕を持ち上げてみれば、手首に近い部分に噛み痕が残っている。可愛らしい歯型に和樹は笑みを浮かべたのだった。
◇ ◇ ◇
ぎゅうぎゅうと何かに包まれているような感じがする。ブランくんが懐に忍び込んできたわけではなさそう。あのふわふわで小さなおててでは出せない力だもの。
正体はなんだろうと考えながら重たい瞼をどうにか持ち上げれば、ぼやけた視界に映る灰色の影。布団も枕も白で揃えているのに、なにが目の前にあるのだろうかと瞬きを数回すれば自分より色の濃い肌も見えてきて。
「あ……和樹さん。帰って来てたんだぁ」
彼だと気付き、ふにゃりと頬が緩んでしまった。この時間まで寝ているということはお休みか、それとも遅くの出勤か。たしか休みだとは言ってなかったから遅くて大丈夫な日なのかも。それなら朝ごはんだけでも作ってあげようと思った、のだけど。
身体に巻き付いている腕の力が寝ているとは思えないほど強く身動きが取れない。これでは何もできないじゃないかと身体を捻ってどうにか抜け出そうとするけど、彼の腕が緩むことはなかった。
もしかして上か下かに抜ければいいのだろうか。そう思って彼の腕に手を添えて抜けやすそうな上から出ようとしたところで、彼の手首近くに傷がついていることに気付いた。
「え」
思わずこぼれた声をそのままに、両手をその部分に伸ばす。傷跡に直接触れると痛いかもしれないと思い、その周りに指を添えて凝視した。
これはたぶん、噛み痕だ。動物かと一瞬思ったけど大きさや形的に人間の歯型な気がする。皮膚が裂けるほどの怪我ではないがくっきりと跡が残っていて、赤黒くなっているのが見ていて痛々しい。
一体何が……と想像を広げる。彼は強い。欲目を抜きにしても相当強い人だ。噛みつかれるなんて相当近くにいないとできない芸当だ。ということはとんでもなく強い相手と喧嘩でもした? でもそれなら殴り合いとかのほうがしっくりくる。あ、もしかして酔っ払いの相手をしたのかも。暴れないように拘束したとしても猿轡をかけることは少ない。口は自由だから、観念したと見せかけた酔っ払いの相手をして噛みつかれたのかもしれないと勝手に想像していれば、おでこにふっと息がかかった。
「おはよう、ゆかりさん」
「わ、起こしちゃいました?」
「ううん、起きないといけない時間なので」
「それならよかった、おはようございます」
「うん。それよりどうかしたの?」
「え?」
「なにか真剣に考えていたでしょ」
どうやら起きてしばらくゆかりのことを見ていたようだ。それなら声かけてほしかったと思うのと同時に、気になっていたことを彼にぶつける。
「これどうしたんですか? 噛まれたの?」
「ああ、これね」
「痛くない?」
そう問えば、なぜかすごく嬉しそうな表情を見せた。痛々しい傷跡なのにまるでご褒美をもらった少年のようで。なんだろう。何かがうまくいって嬉しいとかなのか。それでも噛みつかれて彼が喜ぶ理由とは思えなくて。
大きな大きなハテナマークが頭上に浮かび、それに合わせるよう首を傾げる。そんなゆかりを真っ直ぐ見つめたまま、彼は腕についた噛み痕が視界に入る位置まで持ち上げた。
「痛くないよ、大丈夫」
「あ、はい。それなら、よかった……?」
なんだろう、この温度差。
仕事中に負った傷であれば大事のような気がするけど、愛おしそうにしている彼の様子からして違うようで。何が何だかわからず言葉がうまく出てこない。それに彼も気付いているのか、おかしそうに笑い声をあげてゆかりの手を取った。




