294 深夜の格闘
和樹さんの一人語りです。
「はあ、やっと帰れた」
ボソッと呟くと同時にポーンとエレベーターの扉が開く。
チラリと腕時計を見れば深夜一時。乗り合わせる住人もいないため、盛大にため息をつきながらしゅるりとネクタイを片手で緩める。
今回は長かった、いや今回もか。
遠方への出張と外せない会議と他にも色々と。なんだかんだと仕事が詰まりすぎててこの数日は自宅にも帰れず睡眠もまともにとれていなかったので、彼女が僕の顔を見れば「また頑固なクマさん飼ってるじゃないですか!」と悲鳴をあげるかもしれない。
「ま、その前に寝てるか……」
ハハッと力なく笑えば自宅のドアはもう目の前だ。彼女を起こさないように慎重に鍵を開け、そっと玄関の扉を閉める。
彼女と僕の決めごととして、僕の帰りがてっぺんを超えたら先に寝る、というものがある。それは僕が会社に缶詰になっている間も変わらずで、特に連絡をしなければ早番の日もある彼女は零時過ぎにはもう寝ているのだ。
「ただいま……」
そっと囁くように挨拶だけし、持ち帰った着替えを洗面所の洗濯カゴの中にポンと放り込む。
ついでに着ていたスーツのジャケットやスラックス、ワイシャツも脱いでしまってパンツ一丁になってしまう。「服着てください!」と真っ赤な顔をして怒ってくる彼女が夢の中だからこそできる技だ。
そのままペタペタとフローリングの床を踏み鳴らし彼女が眠る寝室を目指す。
きっとゆるゆるに緩み切った顔で、なんなら口端に涎をつけながら寝てるかもしれない。そんな彼女の寝顔を想像すれば自然と笑みが溢れた。
ああ、早く彼女の寝顔を眺めて眠りにつきたい。願わくば彼女の柔らかくて温かなその身体を抱きしめて首筋に顔を埋めながら……いや彼女のふかふかな胸のなかで抱き締めてもらいながら眠るのも悪くないのかも……。チラリと不埒なことを考えながらカチャっと寝室のドアを押し開けば、枕元の間接照明の薄ぼんやりとした橙に照らされる彼女が見えた。
クローゼットからスウェットだけ取り出して穿き、ベッドで眠る彼女のもとへそっと近寄る。
「え、なんで……」
寝顔を眺めようとした僕の目には想像の百倍は可愛い彼女の寝顔とともに、本来そこにないはずの僕のワイシャツが目に入った。
なぜ僕のワイシャツ、と思わず首を傾げる。
脱ぎっぱなしにしていた? いや、そもそも昨夜は自宅に帰れていないからそれはない。
ブランが持ってきてしまった? いや、ブランはリビングで寝てるし、仮にそうだったとしても彼女が片付けるはずだ。
となると、残る可能性は一つ。
すると「んむぅ」という声と一緒にゴソリという衣擦れの音が聞こえる。
彼女はワイシャツをぎゅうっと抱きしめて顔を埋めながらスーッと深呼吸する。そしてふにゃっと顔を緩ませた。
「んふふ、かじゅきさんいい匂い……しゅきぃ……」
吐息混じりに囁かれた彼女からの「好き」という言葉。
「んぐっ!」
僕は胸を抑えながら膝から崩れ落ちた。
なんなんだ、可愛すぎないか僕の奥さん。もしかして、帰らない僕のワイシャツを毎晩ああやって抱きしめて寝ているのか!? そうなのか!?
僕は一人、心の中でガッツポーズを決める。
電話やメールで連絡した時は「ブランくんが一緒にいてくれるから寂しくないですよ」と平気そうにしていて、寂しいのは僕だけなのかな、とほんのちょっとだけ悲しくなっていたのだ。だけど、口に出さないだけで彼女も僕と同じ気持ちだったんだ……と胸がじんわりと暖かくなっていく。
「ほんと、世界一可愛い奥さんだよ君は」
そっと彼女の横に腰掛け、口端を拭う。
すると彼女はくすぐったいのかふふ、と笑いながらさらにワイシャツをぎゅうっと強く握りしめた。
「え、本物こっちにいるんだけど……」
おーい、と静かに呼びかけてみるものの彼女はうるさいとばかりにゴロンと寝返りをうってしまう。ワイシャツとともに。
「……」
おい、ワイシャツ。そこを代われ。
ゆかりさんの胸に抱かれて眠るのは僕の特権だぞ。
そうして、彼女の腕からワイシャツを外してその腕の中で眠ろうとする僕と、意地でも離れない(離してもらえない)ワイシャツの深夜の格闘が始まるのだった。
真夜中の攻防戦は、まだこれから。
これはきっと翌朝の和樹さんがめんどくさくなってるやつに違いない。
目が覚めたらがっちり抱き込まれてて
「え、うそ、外れない!? 和樹さん離して! 今日わたし早番なの!」
ぎゅうううぅぅぅっ。
みたいな?(笑)




