293 にゃんにゃんにゃにゃーん
まだ遅い時間ではないのに空はすっかり暗くなり、痛みを感じそうな冷たい風が頬を撫でるそんな帰り道。愛車を車検に出している僕は、宿泊出張の荷物を提げながら自宅までの道のりを歩いていた。
あちらの家からは魚の焼けた匂い、そちらの家からは味噌汁の匂い、こちらの家からはカレーのスパイシーな香りがやってきて、和樹の腹を刺激する。
ぐう、と空腹を訴える音を聞きながら、今日の晩ごはんは何かな、と浮かれた頭で考え始める。
『和樹さんのお腹がはち切れるくらい、いーっぱい食べてもらいますからね!』
喫茶いしかわのランチタイムが終わる時間を見計らって今日は早く帰れそうだと連絡すれば、歓声を上げた彼女は嬉しげで、「はち切れたら困るなあ」なんて笑って返したものだ。
ふっ、と漏れ出る笑みを手で抑えていれば、数メートル先に見慣れた華奢な後ろ姿が目に入る。
「あれ、ゆかりさんだ」
そうか、喫茶いしかわを退勤してスーパーに寄ればこのくらいの時間になるか、と脳内で計算しながらも視線は彼女を捕らえたまま。
なぜなら彼女は、道端でしゃがんで何かに手を伸ばしているからだ。
彼女は一体何をしているんだろうか、と気になった僕は、音も気配もできるだけ消して彼女に近づく。
「ふふ」
近づくにつれて彼女の柔らかな笑い声が聞こえてきた。
誰かいるのか?
息を詰めながらジリジリと近づく僕と彼女の距離があと二メートルというところで、ようやっとその正体がわかる。
うにゃあん
聞き慣れたその鳴き声。猫か、と思わずほっと息を吐く。
彼女のほっそりとした白い手の先には黒猫のフカフカしたお腹があり、彼女は強請る猫の要望に応えるようにサワサワと撫でていた。
ほっとしたのと同時に、彼女の驚く顔がみたいというちょっとした悪戯心が働いた僕は、楽しそうに猫と遊んでいる彼女の肩に手を伸ばす。
「にゃあ」
伸ばしかけた手はピシリと静止する。
「うにゃ、にゃー? にゃにゃにゃあ」
彼女の可愛らしくも穏やかなアルトボイスが奏でる猫語に答えるかのように黒猫が「なーぁ」と鳴けば、彼女は嬉しげに「うにゃあ」とさらに猫語で会話を続ける。
なんだ、この世界。
癒しの象徴である猫と、僕の癒しの権化であるゆかりさんが猫語で喋ってる。
しかも通じ合ってるのか二人とも(いや、この場合は一匹と一人か?)とても楽しそうだ。
ここは天国なのか? そうなのか?
思わず「ぐぅっ」と胸を押さえて唸れば彼女はビクッと肩を揺らし、勢いよく振り返る。
「えっ!? かっ、かかか和樹さん! い、いつからここに!?」
「ゆかりさんがこの黒猫さんと話し始める少し前から」
「えぇっ、そんなに前から!? 声かけてくださいよ! 恥ずかしいじゃないですか!」
夕闇でもわかるくらい顔を真っ赤にした彼女は、羞恥からかうっすら目に涙を浮かべている。
「いやあ、すっごくいいものを見せてもらいました」
「ちょっと、それどういう意味です!?」
「うーん、癒しと癒しを組み合わせるとすごい癒しになるんですね。すごい発見だ、ノーベル平和賞もらえるかも」
「和樹さん発言がだいぶ怪しいですよ! まさか宿泊出張中は一睡もしてないなてことないでしょうね!?」
彼女が手に提げていたエコバッグを奪い取って「内緒です」と歩き出せば、彼女は「もう!」と怒りながらも後ろから小走りで追いかけてくる。
その姿がごはんをおねだりするために彼女やお義母さんを追いかけるブランにそっくりで、僕はやっぱり癒されるな、と笑ってしまうのだった。
和樹さん、お腹すきすぎ&寝不足で頭回ってないのかな(苦笑)
ゆかりさんが追いついたら「すっかり寒くなりましたから」って手を繋いでコートのポケットに入れるあれをやろうとしたけど出張の荷物とエコバッグで両手がふさがってることに気付いて、慌てて両方とも片手で持ち直すに違いない。
ちなみに子供たちはおうちでお留守番です。
真弓ちゃんがお米炊いてくれてたり、進くんが湯船にお湯溜めてくれてたり。
当然ゆかりさんも和樹さんも、ただいまの挨拶と一緒に熱烈ハグつきで全力で褒めます。




