292 今はこれでいい、むしろこれがいい
「いてっ」
突然リビングから聞こえてきた声にびくん! と肩を震わせて振り返れば、ソファで寛いでいたはずの彼は眉根を寄せ、指先を唇に押し当てていた。
「和樹さん、どうしたの?」
「唇が切れちゃって……」
キッチンから移動して見に行けば、彼は唇に押し当てていた指を離す。
「ああ……最近乾燥してますから、それで切れちゃったんですねぇ」
じいっと覗き込むと、彼の下唇の中央よりやや左側に一筋の線が走り、そこにうっすらと血が滲んでいた。
「乾燥……そうか、もうそんな時期か」
「ええ、そうですよ。もうそろそろおこたを標準装備しないといけない時期なのです! ええと、たしかあっちに唇用の保湿クリームがあったはず……」
「でも、ゆかりさんは乾燥知らずだよね」
鏡台の前に移動して、クリームクリーム、と呪文のように呟きながら引き出しを開けていると、背後から彼が楽しげに声をかけてくる。
「そうです、乾燥しらず! でもね、ちゃあんとケアをしてるからこそでもあるんですよ」
「ケアか……ねえ、僕にもできそうなものある?」
唇に使える保湿クリームを見つけだした私はそれを片手にふむ、と考える。男性の和樹さんが忙しくても簡単に保湿できるもの……としばらく逡巡し、「あ」と声を上げる。
「リップ! 薬用リップはどうですか?」
「リップ?」
きょとんとした顔を見せる彼の表情が可愛くて、思わずふふ、と笑いながら鏡台の同じ引き出しにしまっている自分の薬用リップクリームを二種類取り出す。
「そう、リップ! 薬用リップなら仕事で忙しくてもサッと塗って保湿できるし、薬用だから甘い味とかもしないし。こっちのタイプは色もつかないから、和樹さんも抵抗なく使えると思いますよ。ちなみにこっちは薬用リップでも、口紅みたいに色がつくやつです。口紅を上から重ねなくてもいいから女の子には使い勝手がいいの」
スティックが緑色のものと桜色のもの、それぞれの違いを簡単に説明し、緑色のスティックの蓋を開けてくり出す。
「リップはね、唇のシワにも成分が入るように、こんな感じで縦に塗るんですよ」
お手本とばかりに私は使いかけのそのリップ(もちろん今回は色のつかない緑色のスティックだ)を自身の唇に滑らせる。馴染ませるように上唇と下唇をゆるゆると合わせてからちょんと指先を触れさせれば、しっとりと吸い付く感触。
「そうか、リップ……うん、これからはこまめに塗ってみるよ」
「はい、ぜひそうしてください! あ、お買い得のときにストックで買った新品のリップがあったはず……」
ちょっと待っててくださいね、と彼に背を向けて開いたままの鏡台の引き出しの中を見ようとすると、後ろからぐいっと勢いよく腕を引っ張られる。
「わっ」
思わずたたらを踏めば、トンっと何かが背中にぶつかる。
「今はこれでいいよ」
右耳の鼓膜を揺らす、低く掠れた声に反応する間もなく、左頬に触れられた彼の大きな手に誘われるまま右を向けば、柔らかくて、でも少しかさついた彼の唇が自分のそれに触れる。
ほんの少しだけ、血の味がした。
今回はちょっと短めです。
これ、もうちょっと早い時期に思い付きたかったな。既に全国どこでも寒いですもんねぇ。




