289 やわらかい日常
好意がふんわりしてた頃のうっかりさん。
通話を終えてからローテーブルの上に置きっぱなしにしていたスマートフォンが、数分も経たないうちにまた着信を告げた。テーブルの足元に丸くなっていたブランが、はっと顔を上げる。
起こしちゃったな、ごめん。そんな意を込めて首のあたりを軽く撫でながら、スマホを手に取った。
表示されていたのは、ついさっきまで電話をしていた喫茶店の看板娘の名前だった。一週間後の彼女のシフトの変更についての話をした。それから、和樹が車を出す水曜日の買い出しについて少し。明日の天気のことも。すっかり寒くなってしまったからホットドリンクがよく出そう、ブランケットは今日のうちに洗濯を済ませてある、というようなことを話した。
なにか伝え忘れたことがあったのだろうかと、すぐに受話ボタンを押す。
「もしもし、どうしたんですか?」
返答がない。
「ゆかりさん?」
と呼びかけるも、相変わらずだ。
小さな鈴の音がした。リンリン、と揺らしたようなものではなく、カラカラというなにかが転がる音に混じっている。リン、りりりり、カシャカシャ、リリリリリン。再び寝入ろうとしていたブランが、その音に反応して和樹を見上げてきたことで気付いた。これは、犬や猫用の鈴入りのおもちゃの音だ。
「だいふくちゃーん、楽しーいぃ? ふふ」
電話口のはるか遠くからゆかりの声が聞こえた。和樹に向かって話しかけているのではない。旅行中の友人から預かっているという白猫・大福と遊んでいるわけでもなく、一人遊びをしている大福を見て声をかけているだけのようだ。
やがて電話口の向こうのゆかりは、ふんふん、と鼻歌を歌いはじめた。
「りんりんりーんりん、あれ鈴虫が……鈴虫? 鈴虫がりんりんか、あれ松虫が……」
鈴の音から連想したのだろう。しかし歌詞はぐだぐだ、途中から適当に歌いだしたので脈絡もへったくれもない。
「すい……すいーっちょん……これは違うなぁ」
ぶつぶつと、ああでもないこうでもないと呟く声。一人でもこの子は……と、和樹は笑いを噛み殺した。何の気も張らないリラックスしきった声が、耳に心地よい。和樹は何も言わずに耳を傾けていた。
「ねー大福ちゃん、あれ、ちょっとなんか口に入れてるの?」
こらこら返して、いててててたすけてー、と言う声が、電話に近づいた。正確にはゆかりが近づいたのは、大福にだ。
そして数秒の間のあと、悲鳴を上げた。
「ぎゃーーー! えぇっ! 和樹さん!? ごめんなさい大福がリダイヤル触っちゃっ……いやあぁあ二分も繋がってたの!?」
突然声が近づいて、独り言ではなくなった。叫んだり謝ったり狼狽えたりと忙しない。
「やだーー! ごめんなさい! てゆうか聞いてた!?」
「え、どれですか? むしのこえ?」
「あーーっそれは!」
「あ、ゆかりさん、ふは、一人でもすごい喋る……」
彼女の慌てぶりを聞いていたらもう、駄目だった。こみ上げてきた笑いに体を折る。肩を揺らして笑っていたら、ブランが立ち上がって近づいてきた。意味もなくその頭を撫でる。
「えぇぇ……なんか……ウケたからいっかぁ……」
「いいんだ、はは」
「っていうか、間違い電話って気付いた時点で切ってくださいよおぉ」
「いや、だって」
目尻に浮かんだ涙を拭って、息をついた。
だって、なぜか切りたくなかった。彼女の日常の最も柔らかい部分に触れた気がして。なぜかこのままずっと聞いていたかったのだ。
どうにも内容が季節感ガン無視ですが、ちょっと箸休め的なお話にしたくて。
この電話が和樹さんにとってはゆかりさんとの生活をイメージするきっかけのひとつになったのではないかと。




